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万象のアルカディア  作者: 藤崎悠貴
緑竜と幻の谷
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緑竜と幻の谷 8

  8


 翌朝、天候はあまりよくはなく、空を雲が覆い、いつ雨が降り出してもおかしくないような湿った風が吹いていた。

 ルヴェルタ山の西側でキャンプを張っていた革命軍とブラックは、早朝にキャンプをまとめて歩き出した。


「なにか、対策はあるのですか?」


 気楽に思えるほど軽い足取りで進むブラックに、兵士のひとりが不安げに言う。


「われわれはつい先日、あの山で命を落としかけたのです。あの山は、人間が越えられるようなものではありません」

「そうだろうさ、超えてみるまでもなくわかってるよ」

「わかっている?」

「あれは、はじめからそういうふうに作られてるんだ。人間が越えられないように、な。程々で引き返してよかったな、きみたち。もし意地を張って挑み続けてたら、いまごろどこかで死体になってるだろうぜ」


 ルヴェルタ山から野原へ降りるつづら折りを下りながら、ブラックはあたりに響き渡るような哄笑を上げた。


「まあ、きみたちにとっては死ぬことがいちばんの名誉なのかもしれないが」


 小銃を肩に担いだ兵士たちは、互いに顔を見合わせてブラックの後ろを歩いていた。


 ゆるやかなつづら折りを下りきったところで、ブラックは立ち止まる。

 目の前にはまだ野原が広がっている。

 それは幻の野原だとブラックは看破していたが、こうして見るかぎりは、現実感もあり、説明されてもとても幻とは思えない。


 風も吹く。

 そこには草花の匂いもある。

 ちいさな白い花がぽろりと落ち、バッタが草のあいだを飛び交う様子も見える。


「まったく、よくできた魔法だ。きみたちはここにいたほうがいい。ここから先は、魔法使いと奇跡の領域だからな」

「あなたは武器も持たずに大丈夫なのですか?」

「魔法使いは武器なんか持たないんだよ」


 ブラックは何気ない足取りで、広場に一歩踏み入れた。

 昨日と同じようにあたりの風景が一変する。


 広々とした野原は無数の鋭い山に阻まれ、ごく狭い楽園となり、山の頂きは白く煙って確認することもできない。

 周囲の風に、隠しきれない魔力がこもる。

 それは匂いとも色ともつかない感覚で、一種の皮膚感覚として、風のなかにもっと粘性の高いものがまとわりついているように感じられた。


 ブラックはその感覚を、コップ一杯の水に垂らした一滴の血のようだと感じる。

 鮮血の赤色が水のなかで長く伸び、決して混ざり合って消えることはなく、時間を鈍化させたようにゆるやかに乱れていく。

 魔力と空気は、まさにそんな関係性だった。


 ブラックは一変した景色を眺め、ふと足元に目をやって、にやりと笑う。


「おーい、魔法使い。せっかく罠を張って待ち構えてるところ悪いんだが、さすがにこんなもんに引っかかるほどおれはばかじゃねえぞ」


 ブラックはこの世界の言葉で言ったあと、英語で言ったほうがよかったかな、と頭を掻く。

 魔法使いということは異世界人であり、地球の出身なのだから、そのほうが通じるかと思ったのだが、相手はブラックの問いかけに答えてのっそりと姿を現した。


 若い男である。

 アジア系の顔立ちで、その後ろに少女といってもいいような女が三人、並ぶように立っている。


 彼らは狭い野原の隅に立ち、ブラックをじっと眺めていた。

 ブラックはにやりと笑ってみせる。


「こいつはずいぶんかわいらしい魔法使いだな」

「見た目に騙されるとひどい目に遭うぜ」


 若い男が、訛りのないきれいな南部地域の言語で言った。

 ブラックはふうんとうなずき、


「きみがリーダーか?」

「ま、必然的にそういうことになるかな。ぼくは他に類を見ない超天才だからね。優れたものはリーダーになって人々を導く義務がある」

「へえ、おもしろいやつだな、きみ」


 ブラックは心の底から愉快を感じて、からからと笑った。


「自称天才に会うのは、きみで三人目だ」

「む、ほかにふたりいるっていうのが心外だな。まあ、天才にもいろいろ段階があるだろうし、ぼくはその最上級だけど」

「いよいよおもしれえ。最初に天才を自称したのは、おれの幼なじみだ。そいつは本当に天才でな、十歳までに人間がやらなきゃいけないことを済ませて早々に死んでいった。ふたり目は、おれ自身だ」


 男もはじめて愉快だと思ったらしく、にやりと唇を歪めた。


「つまり、これは天才同士の戦いってわけだ。悪くないね」

「ああ、まったく」

「ぼくは大湊大輔。あんたは?」

「マイク・ブラック。ブラックと呼んでくれ」

「ブラックか。最初に言っておくけど、退くつもりはないの? ぼくたちは、この土地をイノセントのまま置いておきたいんだ。人々に踏み入れてほしくない。革命軍が侵攻するにあたってこのルートがベストだってことはわかるけど、ちょっと向きを変えてくれるだけでいい」

「悪いが、おれは革命軍の人間じゃないんでね。雇われの捨て駒さ。ここにわけのわかんねえ山があるっていうから、そいつをどうにかしろって命令を受けてきた。進路変更はおれの権限じゃねえ」

「無益な戦いは避けたほうがいいと思うけどね」

「無益なら、な。これは無益じゃない。おれはきみたちと戦って金をもらうんだ。進路変更で争いもなく済んだんじゃ、おれの仕事がなくなっちまう」


 ふむ、と大輔はうなずいた。


「説得は不可能ってわけだ」

「はじめから成功するとも思っていないだろう?」

「まあね、説得できるなら罠は張らないさ」

「悪いな、可愛げもなく罠に気づいちまってよ」

「ご安心を」


 大輔はまるで場違いなほど朗らかに笑った。


「罠は、もう成功してるんでね」

「なに――」


 足元である。

 気づけば、細い蔦がブラックの足首に絡みつき、恐ろしい強さで締め上げていた。

 ブラックはポケットのなかから折りたたんだ紙を取り出す。

 紙には、予め魔術陣を描いてある。

 紙に手のひらを当て、すばやく呪文を唱える。

 ほとんど同時に、大輔の後ろにいる三人の少女たちも呪文をはじめていた。


 どちらが早いか。

 紙一重で、ブラックのほうが早い。


 ブラックの左手の皮膚がもぞもぞと波打ち、不気味に歪んで、形を変える。

 手は鋭い刃となり、ブラックはそれで蔦を切り裂いて左へ飛んだ。

 一瞬遅れて、ブラックの身体があった場所を、人間の頭部ほどの火球がごうごうと音を立てて通り過ぎる。


 火球はそのまま野原へ落ち、周囲の草花を一瞬にして焼失させて消えた。

 ブラックはすでにその光景は見ていない。

 立ち上がり、次の魔術陣を取り出し、呪文を唱えている。


 ブラックは剣のように鋭く尖った左手を地面に突き刺した。

 大輔たちは動かず、様子を見ている。

 ブラックはにやりと笑った。


「逃げなくていいのかい」

「必要ないと判断しているけど」

「そいつは判断ミスさ」


 大輔が立っている地面が、ずず、と動いた。

 かと思うと、土がぼこりと盛り上がり、白い手がぬっと突き出して、大輔の足を掴んだ。


「捕らえたぜ」


 大輔は掴まれた足を見下ろして、にやりと笑う。


「あんたもその場所から動けないんじゃないか?」

「動く必要がないんでね」


 ブラックは空いた右手で、数枚の折りたたんだ紙を宙に投げた。

 それが落ちるあいだに、呪文を唱える。


 風が吹く。

 ブラックにとっては強い追い風である。

 宙に投げられた紙はその風に乗り、大輔たちのほうへぐんと流れていく。


「なんだ――」


 土が巻き上げられ、大輔たちは思わず目を細めた。

 そのあいだに白い紙は大輔たちの目の前まで近づき、その額に、ぱしんとぶつかる。


「あっ――」


 大輔の身体から力が抜ける。

 膝から崩れ落ち、地面に倒れた。


「先生!」


 後ろに三人の意識がそこに向いた瞬間、ほかの紙がそれぞれの額にぶつかり、張りついた。

 少女たちも大輔と同じように、突然意識を失ったように地面に倒れて動かなくなる。


 ブラックは大輔の足を離し、立ち上がって、服を払った。


「さて、これで終わりかな。いまのうちに縛り上げちまうか」


 戦い自体は、ほんの三、四分のことだった。

 スリルはあったが、死ぬ覚悟をするほどではない。

 ブラックはわずかに失望した顔つきで、フェイクとして張られた魔術陣の罠をひょいと飛び越え、倒れた大輔たちに近づいていった。



  *



 大輔はむくりと起き上がった。

 なんの変哲もない、白いベッドの上だった。


 どこかの部屋のなかにいるらしい。

 大輔は見回すまでもなく、天井を見ただけで、ここがどこなのかわかった。


 自分の部屋、それもひとり暮らしをしている部屋ではなく、実家の子供部屋なのだ。

 天井に、夜になると薄く発光する星の飾りが貼りつけられている。

 椅子に上り、精いっぱい背伸びをしてその飾りを貼りつけたことを、昨日のことのように思い出す。


 大輔はベッドを出て、部屋の扉を開けた。

 そのすぐ外は廊下になっていたはずだが、なぜかリビングと直結し、大輔は静まり返ったリビングの真ん中にぽつんと立ち尽くしている。


 あたりはひどい有様だった。

 ソファやテレビはひっくり返り、絨毯はめくれ、壁には傷がついて壁紙が剥がれ落ちている。

 ちいさな竜巻でも起こって部屋のなかを荒らしまわったような惨状で、そのあちこちに、赤色の染みがある。


 だれかの血液だった。

 だれの血液かは、疑問に感じる余地もない。


 床に、ふたりの人間が倒れている。

 全身に苺シロップをかけられたように赤く染まったふたり。

 大輔の母親と父親は、折り重なるようにして息絶えていた。


 だれかに襲われたのかもしれない。

 身体中は傷だらけになり、絶命するには充分な量の血を部屋中に振り撒いて死んでいる両親を見下ろし、大輔はちいさく息をついた。


 そこでふと、自分の身体がじっとりと濡れていることに気づいた。

 右手を強く握りしめていて、意識的にそれを解くと、からん、と音がしてなにかが落ちる。

 見るまでもなく、それは血に染まった包丁のはずで、なにしろこの惨状を作り出したのはほかならぬ大輔なのだ。


 大輔はくすくすと笑った。

 笑いはやがて大きくなり、めちゃくちゃに荒らされたリビング中に響き渡る。


「なるほど、悪くない。こうした種類の魔法はなかなか体験しないから、非常に興味深いね。ただし、こういう魔法を使うときは予め『現実の記憶』を消しておくべきだ。魔法は、魔法だと気づかれた瞬間に奇跡ではなくなってしまうんだから」


 大輔は天井を見上げ、じっと目を閉じた。

 頭のなかで本当の景色を思い浮かべる。

 夢のなかで、現実を構築していく。

 家の構造、自分の立ち位置、本来あるべき姿というものを可能なかぎり詳細に思い浮かべ、目を開けると、周囲の風景は一変していた。


 相変わらず、実家のリビングではある。

 しかしソファやテレビは整然と置かれ、壁紙も剥がれてはいないし、血のあとも、もちろん死体もない。

 だれもいないリビングを想像し、そのとおりに世界を変えたはずだったが、大輔はソファを見て呆れたように息をついた。


「もしかして、本物じゃないよな?」

「どうかしら」


 ソファに座った叶はくすくすと笑う。


「おまえだったらほんとに乱入してきそうで嫌だな」

「あら、ひとを害虫みたいに言わないでくれる?」

「害虫のほうが簡単に退治できる分、まだマシだ。それに彼らは生きているだけだけど、おまえには悪意があるだろ。いっしょにしたら害虫がかわいそうだっての」


 大輔は深々と息をついて、叶のとなりにどかりと座った。


「で?」

「なあに?」

「出てきたからには、なんか用があるんだろ」

「用があるのはあなたでしょ? わたしを呼び出したのはあなたなんだから」

「む。そりゃそうか。本物じゃないなら、この世界にあるものは全部ぼくが作り出したものだからな――そうか、用事ね」


 叶はじっと大輔の横顔を見つめて、大輔の言葉を待っていた。


「ま、別に用事ってわけじゃないんだけど、どう思ってんのか気になっただけだよ」

「どうって?」

「親父とお袋のこと」

「両親としか感じていないけど」

「でも、そのふたりは、おまえを止めるために戦争に参加して死んだんだ。言ってみれば、おまえが殺したようなもんだ。そのへんをどう思ってるんだ――って聞いても、無駄なんだよな、こんなの」


 大輔はがりがりと頭を掻く。

 ここは現実の世界ではない。

 マイク・ブラックが作り出した、一種の心的世界だった。


 大輔は持ち前の理性でそのことを見抜き、はじめからこれは現実ではないと理解していたが、このなかで起こっていることはいわば大輔の一人芝居で、主演も大輔なら、演出も大輔の心が行なっているにすぎない。

 つまりここでは、なにもかもが大輔の心に従っている。


 叶の存在も本物でないなら、どんな質問をしても大輔が望んでいる答えしか返ってこない。

 まるで壁に向かって質問し、自分で答えているようなものだ。


「まったくの無駄ってわけじゃないわ」


 叶は微笑み、大輔をじっと見つめた。


「わたしが本物って可能性もあるわ。そしたら、わたしの答えはわたしのもの。あなたが望んでいるとおりとは限らない」

「だとしたら、余計に聞きたくないね」


 大輔は跳ね除けるように言って立ち上がった。


「ぼくは、もうなにも気にしてない。ただこれ以上わけがわからないことになる前にあんたを止めたいだけだ」

「わたしを止める? そんなことがあなたにできるとは思えないけど」

「ふん、見てろよ、絶対に止めてやる。どんな方法を使ってでも」


 大輔は頭上を見上げ、言った。


「もう夢は充分だ。そろそろ目を覚まそう」


 あたりに眩しい光が満ちる。

 大輔はそのなかに、叶の笑みを見た気がした。


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