緑竜と幻の谷 2
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「全員はじめましてじゃないわね」
女は生徒たちをぐるりと見回す。
若い女である。
といっても大輔よりは年上で、二十六、七というところ。
髪は黒く、胸のあたりまであって、色白でこざっぱりした女だった。
今日は黒いワンピースに白いカーディガンを羽織って、白い生足を大胆に見せつけている。
客観的に見て美人のたぐいなのだろうということは大輔も認めていたが、それとは別に、忌々しい気持ちが先に立つ。
「なにしにきたんだ? このあいだの続きか」
大輔はぐっと身構え、生徒たちをかばうように一歩前へ出た。
女はくすくすと笑い、手を振る。
「ちがうわよ。今日はちょっとした挨拶にきただけ。だってほら、弟がお世話になってるんだから、姉としてちゃんと挨拶しとかなきゃいけないでしょ?」
「弟の教え子に挨拶する姉がどこにいる? あとぼくはおまえのこと大っ嫌いだからな、それを忘れるなよ」
「はあ、相変わらず冷たい子ね。昔はあんなによく懐いて、いっしょにお風呂に入ったりしてたのに」
「ぼくの人生唯一の汚点だね! いますぐ消し去りたい過去だ」
「せ、先生、ほんとにこのひと、先生のお姉さんなの?」
「認めたくないけどな」
「うふふ、大湊叶っていうの、よろしくね。みんなかわいい子ばっかりで、大輔が羨ましいわ」
「いやあ、そんな、かわいいだなんて」
「照れてる場合かっ。七五三、こいつは敵だぞ!」
「わっ、そ、そっか――ザーフィリスに隕石を落とそうとしたひとだもんね」
三人はその事実を思い出し、ぐっと身構えた。
状況は四対一である。
しかし叶は余裕ぶった笑みを消そうとはせず、戦う意志もなさそうに、木の一本に寄りかかる。
「――あの」
泉がごくりと唾を飲み込み、言った。
「どうして、あんなことしたんですか?」
「どうして?」
叶の視線が泉に向かうと、泉はびくりとして後ずさる。
「無駄だ、岡久保。前にも言っただろ。こいつには理由なんてないんだ」
「でも……なんの理由もなくあんなにたくさんのひとを殺そうとするなんて」
「常識じゃ考えられないような人間なんだよ、こいつは」
「相変わらずひどいこと言うわね」
ワンピースの裾が風に揺れ、叶はその風に誘われるように微笑む。
「じゃあ、ひとつ聞いていいかしら――えっと、あなた、名前は?」
「お、岡久保泉です」
「泉ちゃんね。泉ちゃんは、どんな答えだったら納得するの?」
「え?」
「わたしが町ごと何千人かわからないくらいの人間を殺すとするでしょ。まあ、実際そうしようと思ったんだけど。それで、そういう行為の理由として、どんな答えだったらあなたは納得できる?」
「納得って――」
「わたしの親を、その町の人間たちに殺された? それともその町に暮らす人間たちを殺さなければ世界が滅んでしまうから? ねえ、ひとを殺す理由として納得できるものってなにかしら? まあ、ひとによるわよね。殺す人間は、殺す理由があるからひとを殺す。それが他人に理解できるかどうかは関係ない。だって他人は、そのひとなりのひとを殺す理由があるんだから」
「叶、やめろ。それ以上言うな」
「あら、大輔。ほんとはあなたが言うべきことなんじゃない? これも教育でしょう」
あざ笑うように叶は言って、じっと泉を見た。
「たとえば、あなたのとなりにいるその女の子が、なにかの理由であなたを殺したとする。あなたはどんな理由で殺されたなら納得できる? それはね、そのままあなたが他人を殺す理由になる。目の前にいる人間が核兵器のスイッチを持っていて、いまにも押そうとしてる――だったら頭を撃ち抜いても仕方ないかしら。それとも、目の前の人間は、数えきれないくらいの他人を、生まれたばかりの子どもから死ぬ寸前の病人までを殺してきた極悪人だったら、殺してしまってもかまわないと思う?
それは結局、どんな理由にせよ行為は同じよ。百億円のためにひとを殺すことが正当化されるなら、一円のためにひとを殺すことだって正当化できる。だれかのためにひとを殺すことが許されるなら、自分のためだけにひとを殺すことだって許されなきゃおかしいわよね」
泉は耳を塞ぎ、首を振る。
「やめてください、そんなの――」
「どうして。聞きたくないの? でも、あなたが聞いたんでしょう、わたしがどうしてひとを殺すのかって。いいわ、教えてあげる。わたしがひとを殺すことに理由はない。ただ、邪魔だから殺すだけ。まっすぐ歩きたいのに、足元に空き缶があったらどうする? 蹴ってどこかへやるでしょう。それと同じこと。人間なんて――」
「叶、それ以上ぼくの生徒を苦しめるなよ」
大輔は突き刺すような視線を叶に向けていた。
叶はそれを見て、ちいさく息をついて首を振る。
「ちょっと言い過ぎたかしら。弟に嫌われちゃうわ」
「最初からおまえのことは大っ嫌いだって言ってるだろ」
「そうね。あなたたちのようなおこちゃまは、真実を知るには早すぎるかもしれないわ。でもね、ここは迷いながら歩けるような、そんな楽園のような世界じゃないのよ。あなたたちは、まだ地球を歩いている気分でいるのかもしれない。ただすこし変わっているだけの場所だと思っているかもしれないけど、ここはあなたたちが知っている世界じゃないわ」
「――そんなの、おかしいと思う」
燿がぽつりと言った。
「なにがおかしいの?」
「さっきの話……目の前に空き缶があったら、あたしなら蹴ったりしないもん。ちゃんと拾って、ゴミ箱に入れるもん」
叶は一瞬、呆気に取られたような顔をした。
しかしすぐにけらけらと笑い出す。
燿はむっと眉をひそめて、
「ば、ばかにされてる気がする……」
「あはは、ばかにはしてないわよ。むしろ感心してるの。そうね、そういう考え方もある。三人のなかで、あなたはいちばん将来有望ね。大輔、せいぜいこの子を潰さないようにするのよ。この子はあなたとちがって優秀な魔法使いになるでしょうから」
「うるさいな、一言余計だ」
「あら、ごめんなさい。そうね、あなたも魔法は使えるんだものね。あの魔術陣、どうやって描くのか教えてくれない?」
「絶対ヤだね。だれが教えるか、ばーか」
「そういうところ、ほんと変わってないわねえ……じゃあ、わたしが先にひとつ、有力な情報を教えてあげるわ」
「有力な情報?」
ぴくりと燿が反応する。
すかさず紫がそれを制すると、叶は紫をじっと見つめ、ふんと笑った。
「な、なによ。ばかにしてんの?」
「ちょっとね。三人のなかであなたがいちばん子どもだわ」
「う――せ、先生、こいつぼこぼこにしていいですか?」
「許す。がんばれ。応援してるぞ」
「まあ、怖い怖い」
叶は、下りてきたときと同じようにふわりと飛び上がり、再び高い木の枝に腰を下ろして足を組んだ。
「ひとが怒るのは、自分でも気にしているところを指摘されたときだけよ。まあ、心配しなくてもそのうち大人になれるわ」
「う、うるさい! わたしは充分大人よ。あんたとちがっておばさんじゃないだけ」
「どうかしらねえ。大人の魅力にはほど遠いように思うけど」
「あんたとちがっておしとやかなのよ! っていうかさっきからパンツ見えてんのよ、この変態!」
「いや、神小路、いまそんな話はどうでもいいだろ。なんていうか、意外とそういうのんきなとこあるよな、おまえ」
「そもそも、そんな幼児体型のくせして大人の魅力なんて聞いて呆れるわ! あんた何カップよ!」
「いやなんの話だよ」
「あら残念、わたし着痩せするタイプだから、これでもFあるのよ。あなたそうねえ、せいぜいDかしら?」
「ぐ、ぐぬぬ……ま、まだまだ成長中だからいいのよ、いまはこれくらいで」
「成長、すればいいわねえ」
勝ち誇ったように叶が笑うと、紫はいかにも悔しそうに唇を噛み締めて顔を逸らした。
「先生、あいつは敵です」
「うん、知ってるけど、いま言うとなんかちょっとニュアンスがちがうように聞こえるな――とにかく、叶、用がないならさっさと帰れよ。ぼくたちはおまえにかまってる暇はないし、死ぬほど暇でもおまえとは関わりたくないんだ」
「嘘ばっかり。知ってるわよ、大輔。あなた、わたしを追いかけてこの世界まできたんでしょ?」
「えっ――せ、先生、まさかしすこ――」
「それ以上言うなよ、七五三。その言葉はぼくの怒りゲージを振り切らせるぞ」
燿は慌てて口を塞ぐ。
「あら、恥ずかしがっちゃって。昔みたいにおねーちゃんって呼んでもいいのよ?」
「だれが呼ぶか! このタイミングでこっちの世界にきてたのはまったくの偶然だ。それにぼくは、ずっとあんたを止めるために魔術を――ああもういい、どっか行け! ほんっと嫌いだ!」
「ほんとにいいの? 有力な情報、聞かない?」
「必要ないね。ぼくは天才なんだぞ、あんたの意見なんか聞きたくない」
「意見じゃないわ、現実に起こってる情報よ。たとえば――あなたたち、いまどの国を目指して歩いてるわけ?」
「どこだっていいだろ、ぼくたちの自由だ」
「ユーリでしょ。この方角なら、間違いなく」
「へへ、残念でした! ユーリによるつもりはありませーん」
「あらそう。じゃあよかったわ――ユーリは、もうないから」
「――は?」
枝に腰掛けた叶は、足を揺らしながらもう一度言った。
「ユーリなんて国は、もう存在しないわ」
その言葉だけで、大輔が理解するには充分だった。
「――ぼくたちの行き先を知っててやったのか?」
「偶然よ。わたしたち革命軍は世界中の国を潰すつもりでいる。まあ、わたしたちに絶対服従を誓うなら、残しておいてもいいけどね。そうじゃない国は、わたしたちには必要のない国――邪魔になったから、蹴飛ばしたのよ。ユーリへ向かうつもりなら、方向転換したほうがいいと思うわ。もうあそこにはなにもないから」
大輔には言葉もなかった。
長い付き合いだからこそ、叶にはなんの罪悪感もなければ、本人の言うとおり意味すらないのだと理解できる。
殺人者と普通の人間に、そう大きな差異はない。
ひとを殺してしまう限界値に差があるだけだ。
しかし叶は、はじめから限界値などない。
なんの理由もなく、なんの喜びも悲しみも伴わず、肩についたごみを払うのと同じ気持ちをひとを殺せる。
そしてそんな叶に限って、気まぐれに町ひとつを破壊してしまえるだけの力が与えられているのである。
「――あんたには、前に一度言ったと思うけど」
大輔は、じっと叶を見上げながら言った。
「ぼくの目的は、あんたを殺すことだ」
叶はただほほえむ。
「できるといいわね、いつか。出来損ないのあなたがわたしを殺すなんて、夢のような出来事だけど」
「夢じゃないさ。ぼくはそのためだけに研究をしてきたんだ」
「楽しみに待ってるわ」
叶の姿が、すっと薄くなる。
燿があっと声を上げるあいだにその姿は透明になり、見えなくなって、完全に消えてしまった。
「なんで――呪文も唱えてないし、魔術陣もないのに」
「魔術陣は、たぶんちいさく折り畳んでポケットにでも入れてあるんだ。普通はその状態じゃ使えないはずだけど、なにか新しい技術か方法を開発したにちがいない――あの才能の塊にそんな研究ができるはずないから、優秀な部下でもいるんだろう」
「相変わらず分析が好きなのね、大輔」
声だけが、森のなかに深く反響していた。
「あなたは魔術師として天才かもしれないけど、こっちには魔術師として、そして魔法使いとしても天才のかわいい部下がいるのよ」
「ふん、ぼくに敵うわけないだろ。ぼくは地上最強の天才だ」
くすくすと笑い声が響いて、それが尾を引いて消えていくあいだに、叶は言った。
「どこにも行くあてがないなら、ここからまっすぐ西へ進んでみなさい。きっとおもしろいものが見つかるでしょう」
今度こそ、完全にその気配が消える。
枝を見上げていた大輔は息をついて、緊張を解いた。
「噂をすれば影っていうから、もうあいつの噂はやめよう。噂の度に出てこられちゃたまらない」
「ほんと――でも、先生のお姉さんだったなんて」
「生まればっかりは自分じゃ選べないからな。ま、仕方ないさ。全員無事でよかった」
気が抜けたように大輔は朽ちた木に腰を下ろし、残りの三人も呆けたようにため息をつく。
「なんか、そんな悪いひとにも見えなかったけど」
「そいつは危ない勘違いだぞ、七五三。あいつは本物の悪者だからな」
「そうよ、燿。あんな凶悪なやつ見たことないわ」
「神小路の場合は私怨が混ざってそうだけど」
「なにか言いましたか、先生?」
「いえ、なにも」
でも、と泉がちいさな声を上げる。
「先生、これからどうするんですか? わたしたちが目指してたのって、ユーリですよね」
「そうだなあ……でも、あいつを信用する理由は一切ないからな。ユーリはまだ無事だって可能性もある」
「行ってみますか?」
「いや、やめとこう。もし本当に国がなくなったなら、革命軍がうろついてる可能性が高い。無駄な争いはしないほうが賢いんだ」
「そういえば――わたしたち、って言ってましたよね」
紫は腕を組み、眉根をぎゅっと寄せた。
「あの女、革命軍の一員なんですか?」
「さあ、どうかな。もし革命軍に関わりがあるとしたら、一員どころじゃない。あいつはだれかの部下になるような人間じゃないから、たぶん革命軍そのものが、あいつのものなんだ。司令官とか、そういう立場にあるはずだよ」
「ってことは、あいつはわたしたちの敵ですから、革命軍も自動的に敵になるわけですね」
「そういうこと」
「じゃあ、これからどうするの? 先生、このあたりにほかの国は?」
「砂漠のほうへ戻ったらいくつかあるけど、ぼくが知ってるかぎりでは比較的交易が盛んな国だから、革命軍の影響を受けてると思う」
言うなれば、敵の巣に飛び込んでいくようなものだ。
それでもどこかの町には寄らなければ、いつまでも森のなかで原始的な生活をするわけにもいかない。
どうするか、と大輔は腕を組む。
考えるべきは、生徒の安全である。
どのルートがいちばん安全か。
そもそも、どこへ、なにをしに向かうのか。
叶は、世界を渡る扉はすべて破壊したと言っていた。
つまり世界中を探しても地球へ戻る方法など見つからないということだ。
大輔はそのことを、まだ生徒たちには話していなかった。
いつかは話さなければならないことだろうが、いまはまだ叶の言葉が本当かどうかの確認もできていないし、生徒たちを絶望させるにはすこし早い。
ただ、叶なら世界中の扉を破壊することくらいはできるだろう。
その点で叶が嘘をつくとも考えにくい。
「さて、どうするかな。基本的にギャンブルは嫌いなんだけど、なにかに賭けてみるしかなさそうだ」
「なにかって?」
「ひとつ目は、このまま予定通りに進んでユーリを目指すって賭けだな。叶が嘘をついた可能性に賭けるわけだ。ふたつ目は、森を戻って砂漠の近くの国へ行ってみる。革命軍がいないことを願ってね。三つ目は、叶が行ってみろって言ったほう、まっすぐ西へ向かってみる」
「三つ目は却下ですね」
すかさず紫が言った。
「あんな女の言うとおりに動くなんて、絶対いやです」
「ぼくも個人的な意見としては同じだし、大前提としてあいつは敵だから、ぼくたちを罠にはめようとしている可能性もある。ただ、あいつのたちの悪いところは、本当のことも言うところだ」
「西になにかあるかもってこと? 先生、地図にはなにも載ってないの?」
「まっすぐ西は、山だ。町や集落があるようなことは書いていない」
四人はそれぞれに腕を組み、考え込んだ。
どの選択肢にもそれなりのリスクがある。
しかしリスクの管理という意味で考えるなら、まっすぐ進むことと戻ることには革命軍と鉢合わせする危険性がある。
西にはなんの国もない分、革命軍と出会う可能性は低いだろう。
大輔は顔を上げ、生徒たちを見た。
「とりあえず、多数決を取ってみようか。ユーリに行きたいひと」
だれも手を上げない。
ふむ、と大輔はうなずく。
「道を戻って、近くの国へ行ってみたいひと」
紫だけが手を上げた。
「じゃ、最後に、西へ向かってなにがあるか確かめたいひと」
大輔、燿、泉の三人が手を上げて、これから向かう方向が決定した。
「じゃ、行きますか」
「仕方ないですね」
紫はため息をつき、首を振って、それから歩き出した。




