アルカディア 19
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ベロニカは苛立たしげに報告を待っていた。
魔法部隊を発見、攻撃をはじめたという報告である。
そろそろ魔法部隊が見つかってもいいころなのに、なかなか報告がやってこないのだ。
おそらく、すでに魔法部隊を発見しているが、だれもが無防備な魔法使いたちを追い回すことに必死で報告を忘れているのだろう。革命軍の兵士であることを考えればありがちなことだ。
ベロニカは報告を受け次第、すぐに革命軍の魔法部隊を動かして敵の本隊に攻撃を仕掛けるつもりでいた。それで敵の数を減らせば、戦況は一気に変わる。
流れは確実に革命軍のほうへきている。まだ状況がわかっていないベロニカはそう信じていた。
だからこそ、兵士が駆け寄ってきたとき、それは魔法部隊を発見したという報告だと思い込み、ベロニカは笑みを浮かべていた。
「ほ、報告いたします――背後に敵の騎兵部隊が現れ、攻撃を受けています!」
「――騎兵部隊?」
ベロニカの顔から表情が消える。
「どういうこと? どこから出てきたの――正義軍が後ろへ回るのを見逃したの?」
「い、いえ、突然現れたのです――やつらは正義軍ではありません。砂漠の民と名乗りを上げながら、魔法部隊へ攻撃を」
言いきる前に、ベロニカの耳にも馬の足音が聞こえてきた。
振り返れば、いつの間にそこにいたのか、無数の騎兵の影が現れ、土煙とともに殺到している。
数はそれほど多くはない。おそらく百、二百という程度だろう。しかしまさか背後から攻撃されるとは思っていない魔法部隊を蹴散らすには充分すぎる戦力だった。
「早く兵士たちを呼び戻しなさい!」
ベロニカは叫ぶ。
「いますぐに突撃していた兵士を呼び戻して攻撃を――」
離れた場所で、わっと声が上がる。今度はなにかと振り向けば、前線近くに、人間ほどの大きさの火球が降り注いでいた。正義軍の魔法使いによる攻撃である。
それに対抗しようにも、魔法部隊は騎兵部隊の攻撃を受けて散り散りに逃げ回っている。そんな状況では魔法を使うこともできなかった。
ベロニカはひとりでもなんとかしてやると紙に描いた魔術陣を漁る。大規模で、効果が大きい魔法――しかしそんな魔法を使えるほどの魔力はもうベロニカのちいさな身体には残されていなかった。
後ろからは騎兵隊の足音が迫る。
前方には魔法攻撃を受け、無残に破壊され、陣形を維持できずに逃亡をはじめる兵士たちがいる。
ベロニカの周囲には動揺が広がり、ひとり、またひとりと命があるうちに逃げ出す人間が出はじめた。
雨は、いつしか止んでいた。
「――なにが悪かったの?」
だれにともなく、ベロニカは呟いた。
「あたしは、どこで失敗したの――なにもかも思い通りにいかない。なにもかもあたしの望みとは反対へ進む。なにがいけないの。なにが」
うつむき、ぶつぶつと呟いているうちに、ベロニカの周囲にはだれもいなくなっていた。
兵士たちはその鋭い嗅覚で敗北をかぎ取り、自分に被害が及ばないうちに逃げていったのだ。
ベロニカはひとりだった。
いまも、昔も、ベロニカはひとりだった。
だからベロニカはひとりで笑った。こんな世界はどうにかなってしまえばいいのだと、すべてが破壊されてしまえばいいと笑った。
ベロニカは孤児だった。親の顔は知らない。育ての親はいたはずだが、記憶にない。その程度の存在だったのか、親の顔と思い出したくない記憶が連結されているせいで思い出せなくなったのだろう。
気づいたときには、ベロニカはひとりだった。
ベロニカは地球人で、生まれた場所こそアメリカだったが、育ったのはこの新世界だった。親がいないことと新世界での暮らしに関係があるのかは、ベロニカにはわからない。とにかくベロニカの生活にははじめから魔法があり、魔術は、途中からいっしょに旅をしていた商人の集団に教わった。
彼らは盗賊のたぐいから身を守るため、常に大きな集団を作って世界中を移動していた商人のキャラバンで、仲間とも商売敵ともいえないような奇妙な間柄だった。ベロニカは記憶があるかぎりではそのなかで育ち、やがてひとりになって、叶と出会った。
そのとき叶はもう革命軍を率いていた。なぜ叶に惹かれたのだろう。思い出そうとしても、よくわからない。おそらくは、叶が自分の理想の鏡でしかなかったからだろう。他人にこうしてほしい、という欲求を叶に投影させ、叶は機械的にそれを実現させていたから、人生のなかではじめて出会えた理想の相手だと思ったのだ。
しかしそれは幻にすぎない。本当のベロニカはずっとひとりだった。
ひとりがいやだと思ったことはない。それなら、無理をしてでも集団に入ってしまえばいいのだ。ベロニカは無理やり集団に馴染む苦痛より、ひとりでいる孤独を選択した。だからひとりになるのは当然のことなのだと、ベロニカはひとりで笑う。
人間はひとりで生まれ、ひとりで死んでいく。
ひとりで死ぬということは、だれも自分の死を看取らないということ、自分の死は自然のなかで完全に消滅してしまうのだということだ。遺言を伝えることもなく、自分がどんな存在だったのか他人のなかに植えつけることもできず、死んでいく。
それは、なんの意味もなく生まれたことと同じだ。
死ぬまでにだれの記憶にも残らず、だれとも触れ合わないということは、生きた意味がなにひとつなかったということなのだ。
なぜ自分は生まれ、なぜ死ぬのか。
理由なんてない。それがベロニカの答えだった。ひとが生まれ、死ぬことには理由がない。雲ができ、雨が降るのと同じだ。
だれも信じなかったから、だれにも裏切られなかった。だから、どうしたというのだ。死んだときに、自分はだれひとり信じなかったと大口を叩く相手もいないのに。
すべては終わってしまった。
ここにひとりの少女がいたことはだれの記憶にも残らないだろう。
それでもいいとベロニカは思う。もう、なんでもよかった。ただ考えることが嫌になって、ベロニカは兵士が落としていったらしい剣を拾い上げた。
世界の終わりは、いま目の前にある。
*
ザーフィリス王国の騎士団長スルールが率いる砂漠の民は、またたく間に革命軍の魔法部隊がその護衛についていた地上部隊を蹴散らしてしまった。
それは攻め込んだ彼らでさえ不思議に思うほど簡単な作業で、魔法部隊はもちろん地上部隊でさえ抵抗らしい抵抗は見せず、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
「罠というわけじゃないだろうが、まだなにが起こるかわからないぞ。注意して進め」
スルールは馬に乗ったままゆっくりと戦場を進む。時折、革命軍の兵士らしい剣を持った男たちとぶつかったが、彼らは砂漠の民を見ると剣を捨てて逃げていった。革命軍にはすでに戦う意志はないらしい。
それもそのはずで、前線近くでは正義軍の魔法部隊による魔法攻撃で半数近くの兵士たちが行動不能に陥っていたのだ。
もはや戦況は決していた。負け戦に命を投げ出す愚かもない。どうやらここでは自分の欲望を満足させられないようだと察した兵士たちは、無駄な犠牲者にならないために一目散に戦場から逃げていく。
スルールは部隊の先頭で最前線へ向かって進んでいたが、後ろから報告がきて馬を止めた。
「向こうに少女が倒れているそうです――兵士ではないようですが」
「少女? 戦闘に巻き込まれた一般人か」
「それにしては戦場の深い位置すぎるような気もしますが」
ふむとスルールもうなずく。とにかく、そちらへ向かって歩き出した。
そう遠くはない場所である。植物も生えていない土の地面に、黒いワンピースを着た少女が仰向けで倒れていた。
肌にはまだ薄く血の気が残り、服や髪に乱れもない。ただ安らかに眠っているような顔だが、その胸から剣がぬっと生えていた。
スルールは馬を下り、少女の身体に触れた。身体はまだ温かいが、脈はない。呼吸もなく、胸に生えている剣は、しっかり少女の心臓を貫いているようだった。
不思議と流血は見られない。おそらく背中側に血が溜まっているせいでわからないのだろう。
「――こんな少女でさえ、戦争の犠牲になる」
スルールは悔しげに呟き、部下に少女をどこか別の場所へ移すように命じた。
周囲には、少女ほど美しくない死体がいくつか散らばっている。そんな場所に少女の死体はふさわしくないと感じたのだ。
部下のひとりが少女の胸に刺さった剣をゆっくりと引き抜く。そして身体をやさしく抱き上げ、死体が散乱していないほうへと運んでいくと、前方から何騎かの馬の足音が響いてきた。
近づいてくると、その姿がわかる。しっかりと鎧を着た、正義軍の騎兵部隊だった。
騎兵部隊はスルールたちとはすこし距離を取ったところで立ち止まる。
「貴君らは敵か、味方か?」
「きみたちが正義軍なら、味方だ。われわれはザーフィリスからきた砂漠の民。遠い国ゆえ、戦争のはじまりには間に合わなかったが、集結には間に合ったようだ」
「おお、そうだったか――では革命軍の魔法部隊は貴君らが?」
「そういうことになるらしい。背後から討つつもりだったが、ほとんど抵抗もせず逃げていった。戦況は?」
「われらの勝ちだ。すでに革命軍は瓦解し、散り散りになっている。われわれは逃げた指揮官を捕らえるためにやってきた。このあたりにもまだ残党が潜んでいる可能性がある、気をつけよ」
「わかった――ところで、この戦場に大湊大輔殿はいるか?」
「ああ、指揮官のひとりとして魔法部隊を率いているが――どのような関係だ?」
スルールはすこし笑い、言った。
「大切な友人だよ」
*
勝敗は決した。
革命軍は消滅し、正義軍が生き残ったのだ。
しかし歓喜は、まだやってこない。そうした勝利が全軍に伝達されるには時間がかかり、仮に勝利が伝わっても戦場にいるかぎりは緊張が続くのだ。本当の歓喜は、無事に自分たちの家へと戻ってから訪れる。
「――でも、終わったんですね」
泉がため息をつくように言うと、大輔はちいさく首を振った。
「まだだ。戦争は終わったけど、ぼくたちの戦いは終わってない――まだあいつが出てきてない」
大湊叶。この戦争を仕掛けた張本人が、まだ現れない。
大輔は、もし叶が出てくるとしたらこのタイミングだろうと推測していた。
正義軍の勝利が決まり、革命軍が散り散りになって逃げ去ったあと。もし叶が出てくるとしたらこの状況にちがいない。そして、たったひとりの力ですでに決した戦況をひっくり返すのだ。
そのため、大輔はまだ魔法部隊に待機を命じていた。いつ叶が現れても対応できるように、常にあたりを見回しながらじっと戦場に立ち尽くす。
しかし叶は現れなかった。
死傷者が回収され、その正確な人数が明らかになろうかというころになっても、叶は現れなかった。
そこではじめて、大輔は別の可能性に思い至った。
革命軍にも、戦争の勝利にも興味がない叶は、いったいなぜこのような混乱を引き起こしたのか? 力を見せつけたいわけではない、それならいま現れて残った正義軍をたったひとりで一掃してみせればいい。自分が大きくした革命軍の勝利を見たいわけでもないし、ただ気まぐれに戦争を起こしたにしては、戦場の位置から日時まで注文を出してくるのはおかしい。
「――そうだ、なんであいつは、この場所を指定した?」
戦場の位置を指定することは、正義軍には先に陣を形成して迎え撃つという方法が取れても、革命軍にはなにひとつ利点がない。それなのになぜ叶はこの場所を指定したのか。
革命軍からすれば、すこしでもグランデルの城下町に近い位置で戦争をしたほうが有利だ。そのままの勢いで町へなだれ込むことができるなら、兵士たちの士気も上がるだろう。そうせず、あえて町から遠く離れたこの海沿いの野原を指定したことに、なにか意味があるはずだ。
考えてみればすぐにわかる。叶は、全軍をグランデルから遠ざけたかったにちがいない。その理由まではわからないが、戦場を指定する理由はそれしかないのだ。
「――だれか、すぐに馬を用意してくれ!」
大輔は叫んだ。そばにいた兵士が驚いた顔で振り返る。
「どうしたんだ、突然――馬を?」
「すぐグランデルへ戻る。城や城下町が危険だ。できるだけ多くの騎兵部隊を――いや、何人連れていっても同じだ。とにかく一刻も早くグランデルへ戻らなきゃならない。七五三さん、この場の指揮をお願いします」
「叶ちゃんのことかな」
賢治はゆっくりとうなずく。
「ここは任せて、行ってくれ。私では彼女を止められない。もし彼女を止められる人間がいるとすれば、それはきみだけだろう、大輔くん」
「ぼくがあの女を止められるかどうかはわかりませんけど、やらなきゃいけないことはある――結局、ぼくもあいつと決着をつけなきゃいけないんだ」
すべての出来事の発端は、大湊叶というひとりの人間だった。
戦争は終わった。しかしまだすべてが終わったわけではない。
決着をつけなければならないときがきたのだ。
馬はすぐに用意された。栗毛の、優秀な牝馬である。大輔が鞍にまたがると、馬は弱い雨に濡れた植物を蹴り上げ、颯爽と走り出した。
「――どうにか間に合ってくれよ。着いたら城も城下町もめちゃくちゃ、なんてことだけにはならないように――」




