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万象のアルカディア  作者: 藤崎悠貴
アルカディア
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アルカディア 17

  17


 ニコロスは、なぜ周囲が自分のことを笑うのか理解できなかった。


 たしかにニコロスは現実を嫌っている。そこに立ち、そこで呼吸し、そこに生きることを嫌悪している。しかし現にニコロスは現実に生きていた。地面に足をつき、地上の空気を吸い、即物的なひとびとに辟易しながらも生きているのだ。


 ただ理想を夢見ているというだけで笑われるいわれはない。彼らは、ニコロスが喋るのはいつも寝言のように感じているらしかった。現実とは無関係な、吟遊詩人の泣き言だ。


 そうではない、とニコロスが主張しても、それさえも彼らは笑うのだ。


 彼らには経歴がある。経験がある。ニコロスが理想を追い求めているあいだに知った現実の知識がある。それはニコロスも認めていたが、だからといって自分の意見をまともに取り合わないのは彼らの驕りのせいだと感じていた。


 結局、自分で動くしかない。ニコロスはそう決心し、馬を一頭盗むようにして引っ張り出して城下町を出た。途中、兵士に呼び止められたが、それも無視して進む。


 この時期に無断で城下町を出たことは遠からずクロノスに伝わるだろう。クロノスは追っ手を出すだろうか。いや、とニコロスは思う、クロノスもやはり自分を見下している人間のひとりだ、そこまでまともな対応は取らないだろう。


 ニコロスにはなにもできないと、はじめから決めつけているのだ。それを見返してやるとニコロスは馬を飛ばした。


 その懐には、先ほど会議室から盗み出した書類が入っている。その書類には機密とされている正義軍の陣形などが記されている。


 とにかく、革命軍を指揮している女に会わなければならない。そのためには多少の裏切りも仕方ないとニコロスは自分を鼓舞した。最終的には、これはすべての人間を救うことになるのだ。


 馬は野原を行く。北の戦場まではまだ遠かった。せめてそれまで、ひとりでも犠牲者がすくなく済むように、とニコロスは祈った。



  *



 状況は拮抗している。


 ベロニカは断続的な戦闘を眺めながら、冷静に現状を見ていた。


 一時、革命軍は劣勢に陥ったが、ベロニカの魔法によって再び仕切り直しとなったあとは命令の重要性に気づいたのか余計な行動もなくなり、しっかり中央を厚くした陣形を保った攻撃ができるようになっていた。


 しかし、それは向こうも同じことだ。分厚い壁に向かって大きな金槌を振り下ろし続けているようなもので、どちらにも少数の犠牲はあるが、大きな変化は見られない。


 また、戦いは何時間も連続して起こるものではなかった。


 ある程度戦うと、どちらともなく攻撃の手をゆるめ、互いにけが人を陣営の奥へと引き戻したり、休憩のために軍を引いたりして、交戦が止む。そしてまたどちらともなく攻撃をはじめ、反撃し、休戦となるのを繰り返す。


 革命軍は、最初のころの勢いは失ったが、手堅く戦うようになっていた。ベロニカがそのように指示したのだ。それに合わせ、正義軍も必要以上に深追いはせず、しっかり自分たちの陣地を守っている。


「――なんとか、魔法部隊の位置が掴めればいいんだけど」


 ベロニカはぽつりと呟いた。


 いまになっても正義軍がどこに魔法部隊を配置しているのか、よくわからないのだ。


 革命軍と同じように後ろに配置している可能性が高いと見ていたが、魔法を使って調べても、陣の後ろにはだれもいない。では陣のなかかとも思ったが、そうでもないようだった。


 ベロニカは革命軍を指揮しながら魔法部隊に指示を出し、また敵の魔法部隊を探るという三役をこなしていて、探索にもなかなか集中できない。もし正義軍の魔法部隊の位置が特定できればそこに攻撃を仕掛けることもできるし、そうなれば戦況も大きく動くはずだが、現状では押し切られないように注意しながら戦線を維持するという以外に取れる作戦もなかった。


「何人かスパイを出して魔法部隊の居場所を探らせるか――それよりも探索に集中したほうがいいか」


 ベロニカは額の汗を拭い、ふうと息をついた。戦いがはじまって数時間、疲れもかなり溜まっている。大掛かりな魔法はそう何度も使えない。


 いまはどちらの魔法部隊も一時休戦のようになっていた。乱発していればすぐに魔力を使いきってしまうから、ここぞというとき以外に魔法は使えない。つまり相手に必中の攻撃を仕掛けるときか、相手からの攻撃を防御するときだ。どちらもいま動くのはまずいとわかっているから、動かずにじっと様子を見ている。


 敵の魔法部隊がどこにいるのかはわからないが、逐一戦場の情報が伝わる、あるいは直にそれを感じられる場所にいることは間違いない。こちらの魔法に対する反応のよさを見ればそれがわかる。


 魔法部隊がいるとすればすぐ近くのはずなのに、見つからない。どこかに隠れているのだ。いったいどこに隠れているのか、やはりスパイを使って調べようかと考えたときだった。


 兵士のひとりが寄ってきて、ベロニカに妙な男がやってきたことを伝えた。


「妙な男?」

「グランデル王国の男らしいですが」

「投降者ってこと?」

「それが、軍を指揮している人間に話があると。どうしても合わせろといって、退かないのです。いかがなさいますか」

「ふうん――武器は?」

「なにも持っていません。馬に乗っていて、ひとりです」

「ここへ通して」

「はっ――」


 兵士はすぐ踵を返し、男をひとり連れて戻ってきた。


 金髪の、三十前後という年の男である。武器は帯びず、高級そうな服を見れば兵士や指揮官でないことは明らかだった。


 男はベロニカを見て一瞬驚いたようだったが、すぐなにかを探して視線を彷徨わせる。


「なにか用なの?」


 ベロニカが言うと、男はベロニカを見ず、あたりを見回して、


「指揮官はどこにいるんです?」

「指揮官はあたしよ」

「あなたが? いや――もうひとり、女性がいたはずです。私はその女性に話があるのですが」


 叶のことに違いない。どこで叶と会ったのかはわからないが、いまここに叶はいない。ベロニカはちいさく笑みを浮かべる。


「叶さまは、限られた人間にしか会わない。普通の兵士の前には現れたりしないの。あんたがだれだか知らないけど、この軍の指揮官に用があるならあたしに用があるってことでしょ」

「あなたのような子どもが、この軍を指揮しているのですか」


 侮辱するような口調ではなく、単純に驚いているようだった。ベロニカは今度こそはっきりと笑う。おかしな男だった。まるで戦場には似合わない、ある意味でお坊ちゃんのような男だ。


「あなたは――いまこの場所で起こっていることを理解しているのですか」

「理解?」

「ひとがひとを殺しているということを」

「そんなことを理解する必要があるの?」

「……どういう意味です?」

「ひとがひとを殺す、そんなことは当たり前のことでしょ。いまにはじまったことでもないし、これが最後でもない。永遠に繰り返されていくことよ――ま、新世界の人間には理解できないかもしれないけど」


 文明や文化が発達すれば殺人がなくなるというのは、旧時代の人間の愚かな思い込みだ。


 新世界よりはるかに発達している地球文明でも殺人事件など日常茶飯事で、地域を限定しても毎日のように起こっている。それは、ひとつの人間の本能ではないかと思えるような頻度で発生しているのだ。戦争はその最たる例で、人間は必ず終焉まで争いを繰り返す。


「ひとがひとを殺すことを理解するなんて、おかしな話。そんなこと理解するまでもない。現実に起こっているんだから、理解よりも先に対応しなきゃいけない。彼らは殺されないように戦う。殺される前に、相手を殺す。簡単な話でしょ?」

「しかし、しかし――」


 男は額の汗を拭い、早口に言った。


「それではいつまで経っても憎しみの連鎖が続いてしまう。どこかで断ち切らなければならないんだ。人間には理性がある。人間には知性がある。暴力だけが唯一の解決法なんて、そんなばかげた話はない。それでは、人間はまるで野生動物と変わりない」

「人間は野生動物よ。なにをもってそれはちがうというの? 野生動物にも縄張りがあって、社会がある。人間と同じよ。彼らは必要と感じれば暴力で争う。そこも人間と同じ。ほかの動物より人間が優れているとは限らない」

「でも――人間には話し合って解決する、理解し合うという能力があるんだ。お願いです、もう戦いはやめてください。やはりあなたじゃ話にならない。あの女性を呼んでください。あの女性なら」

「叶さまなら話が通じると思う? 無駄よ――叶さまはなんの理由もなくだれかに会ったりはしない」


 そもそも叶がいまどこにいるのかさえ、ベロニカは知らない。このやりとりを聞いていることはないだろう。きっと叶は、革命軍のことなどすっかり忘れ、自分の目的を果たすために行動しているにちがいない。


「理由は、あります」


 男は言って、懐に手を入れた。武器を取り出すのか、と思ったが、そうではない。


 取り出したのは、白い紙だった。丸まっていて、なんの紙なのかはわからない。


「これは、正義軍の陣形図です。どこにどんな部隊があるのか、すべて書き込まれている」

「――それを渡す代わりに、叶さまに会わせろってことね」

「渡しはしない。見せるだけです。ぼくは裏切り者じゃない」


 なるほど、とベロニカはうなずく。男は真剣な顔をしていた。本当に、この行為は裏切りではないと信じきっている顔だった。


 秘密の書類を材料にして叶に会いさえすれば、あとは説得できると考えているのだろう。それがどれだけ甘く隙だらけな作戦なのか、男は気づいていない――いや、あるいはこの男は罠なのかもしれない。


 男が持っているものは偽物で、相手陣営のだれかが、大湊大輔あたりが男を使って撹乱させようとしている可能性もある。


 ベロニカはしばらく考え込んで、結局これは罠ではないだろうと結論した。


 もし大輔の策だとすれば、こんな男は使わないだろう。そもそも人命を使った撹乱作戦を立てられるような男ではないはずだ。思いついても、実行する度胸はない。


 つまり男は単独で、本物を持ってやってきたという可能性が高い。もちろん、その紙は偽物で、ただ叶に会うための口実ということも考えられたが、どちらにしても同じことだ。


 ベロニカは、男の後ろに控えていた兵士をちらりと見た。兵士はにやりと笑ってうなずいた。なにも知らないのは、男だけだ。


「あんたの言ってることは理想論でもない、ただの空想よ。戦争はもうはじまってる。どっちかが全滅するまで終わらない。あんたは現実の代わりに都合のいい空想を見てるだけ」

「ちがう――ぼくは現実を見ている。現実を理解しているからこそ、なにも理解していない人間たちに警告しているんだ。自分の行動に無自覚なすべての人間に――」

「なるほど、それで自分は英雄になったつもりでいるわけね。残念――まあでも、本当の英雄にはなれなくても、偽物の英雄にはなれるかもね」

「偽物?」

「――斬りなさい」


 返事はなかった。


 その前に、兵士はすでに剣を振りかぶり、まったく躊躇なく、手加減もなく、男を後ろから袈裟斬りにしていた。


 男はその勢いで前へ倒れる。自分が殺されたということにも気づかず、死んでいく。きっとこの男は幸福だっただろうとベロニカは男を見下ろしながら考えた。最後まで現実を見ず、自分のなかの空想だけを見続けていたのだ。そのなかで彼は本物の英雄だった。現実では愚か者と罵られても。


 男はしばらく苦痛に呻いていた。背中を斬りつけられても即死ではなかった。しかしやがて、その声も、息遣いも聞こえなくなる。ひとつの命がそうしてゆっくりと失われていく。


 ベロニカは、その様子を見下ろしながらまったく無感動だった。ひとがひとを殺すということを理解していない、と男は言ったが、そうではないとベロニカは思う。ひとがひとを殺す、その意味も現象も充分に理解している。それは、こういうことだ。死とはこういうものなのだ。男も身を持ってそれを知っただろう、知ったときにはすでに意識はなかったかもしれないが。


 兵士が男の身体をごろりと仰向けにした。男は両手でしっかりと紙を握りしめている。兵士がそれを苦労して引き剥がし、ベロニカに渡した。


 しわだらけになった紙には、まだ男の体温が残っている。ベロニカはそれを受け取り、広げた。


「――なるほど」


 その紙にはしっかりと正義軍の部隊位置が書かれていた。魔法部隊の位置も、だ。やはりこの男は、ばか正直に本物の機密書類を持ってきたのだ。それを本当に渡すつもりがなく、交渉材料に使うだけならなにも書かれていない白い紙でも充分だったろうに。


 結局、男は裏切り者となったのだ。


 幸いなのは、ひとびとがそう呼ぶとき、男はもうこの世にはいないということだろう。


 ベロニカは紙を兵士に渡し、言った。


「この紙に魔法部隊の位置が記してあるわ。そこへ向けて、全軍突撃。なんとしてもその位置に到達して敵魔法部隊を始末する。そうすれば味方の魔法部隊も自由に動けるようになるわ」

「は――」


 兵士がすぐに駆けていく。全軍が行動を開始すれば、決着はすぐにつくだろう。


 味方の魔法部隊さえ自由に動けるようになれば、もはや勝ったも同然である。地上部隊に魔法攻撃を防ぐ手立てはない。


 ベロニカは勝利を確信し、しかし喜びのようなものが湧いてこないことに疑問を覚えた。


 たとえ革命軍が圧倒的に勝利したとしても、そこに指揮官としての喜びは伴わない。それはおそらく、叶にとってそうであったように、ベロニカにとっても革命軍などどうでもよいことだったからだろう。


 ベロニカにとっては叶がすべてだった。革命軍は叶の付随するものにすぎない。そして革命軍の兵士たち自体、革命軍の勝利などどうでもいいと感じているのかもしれない。ただ自分の欲求を満たせれば、それで満足なのだとしたら――いったいだれがなんのために戦っているのか、いよいよわからなくなる。


 それでも戦いは続いていく。死が訪れるまで。


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