アルカディア 16
16
魔法部隊を指揮していた大輔は、不意に最前線あたりの空気感が変わったのを感じ取っていた。
具体的になにが変わったというわけではない。ただ、なにかがおかしい。
「――まさか」
叶が攻撃を仕掛けてきたのか、とも考えたが、このタイミングでの攻撃というのは、叶らしくない。
逐一やってくる報告によれば、正義軍はいま勝利へ向けた重要な場所にきている。ここをうまくやり遂げれば勝利が見えてくる、という場所だ。たしかに革命軍が反撃を仕掛けるならこのタイミングしかないが、しかし叶がやるのなら、おそらく革命軍が全滅したあと、叶ひとりになったあとでやるだろうと大輔は考えていた。
革命軍がいなくなったあと、叶がひとりで正義軍を駆逐する――それならあり得るが、戦略的に理想といえるこのタイミングで攻撃を仕掛けてくるのは、まるで本当に革命軍を敗北させたくないと思っているようで不可解だった。
叶にとっては勝利などどうでもいい問題だろう。だとすれば、叶ではない。大輔はふと気づき、魔法部隊に指示を出した。
「もしかしたら大規模な魔法攻撃があるかもしれない。全員それに備えてくれ――疲労が溜まっている者から順番に休んで、魔力をできるだけ温存するように」
その指示が終わるかどうかというときだった。
不意に空が真っ赤に塗り替えられる。
雲を焼きつくすような炎の波である。
火球と呼べるようなものではなく、炎そのものが空を覆い、戦闘が続く地上軍の頭上に広がっていた。
「これが大規模な魔法攻撃か――まったく、うちの指揮官は向こうと打ち合わせができてるのかと思うくらい的確だな」
魔法使いのひとりが苦笑いするように言って、それぞれが持ち場につく。
「魔術陣はFの六だ。Fの六、用意」
指示に合わせ、それぞれが事前に紙に描いて用意していた魔術陣を引っ張り出し、その上に立って手をつなぐ。革命軍は各班三人だったが、正義軍ではひとつの班を五人としていた。魔法は、人数が多くなると威力は増すが、全員の力を制御するのがむずかしくなるために失敗しやすくなる。しかし同じ目的、同じ意志で魔法を使うなら五人でも成功させることはできた。
大輔は、空を覆い尽くす炎をじっと見上げる。炎はじりじりと迫ってくる。おそらく正義軍の頭上まできたところで炎が落下し、一帯を焼きつくすのだろう。熱い風が吹き下ろし、大輔たちが隠れている場所にまで息苦しいような熱風が押し寄せていた。
これが大規模な攻撃だろうか。革命軍の劣勢をひっくり返すための? 疑問は残ったが、とにかく熱風は兵士たちも感じているだろうし、防がないわけにはいかない。
「一斉にいくぞ――発動!」
二百人あまりの魔法使いが一斉に魔法を発動させる。比較的発動は簡単だが、威力は充分に期待できる自然魔法のひとつ、風の魔法である。
風は戦場の半ばから竜巻のように立ち上り、巨大化し、雲と繋がってひとつになった。竜巻の周囲には土煙が舞い上がり、根こそぎ引き抜かれた植物が周囲をぐるぐると飛び回る。
その威力でもって、竜巻は上空の炎へと向かっていった。炎は一斉に落下をはじめる――と思いきや、その兵士たちのはるか頭上で、まるで幻のようにすべてかき消えてしまった。
「――なんだ?」
風の魔法によってかき消されたわけではない。ほかの理由、おそらく魔法使い自身が途中で魔法を消したのだ。
しまった、と大輔が叫ぶ。しかしその声は、戦場には届かない。
血みどろの戦いが続く前線に奇妙な黒い物体が現れたのは、大輔が自らの失策を理解したのと同時だった。
「――なんだ、これは?」
剣を手に戦っていた兵士の数人がそれに気づき、一瞬警戒も忘れて呆気に取られる。
見たところ、それは黒い玉のようなものだった。
地上二、三メートルの位置にぴたりと静止していて、よく見ると、ぐるぐると高速で回転している。
漆黒で模様はなく、大きな三十センチほどだった。そんなものが血を血で洗う戦場に、突然現れたのである。
兵士たちは敵味方も忘れて首をかしげた。
その球体は回転速度をさらに増し、遠心力によって自身の体積を大きくしていく。それが一メートルほどの大きさになったとき、周囲にいた兵士は背中から風が吹くのを感じた。
風は、一瞬にして強風となる。兵士たちは風に抗って風上へ移動しようとしたが、それもままならず、立っていられないほどの風が黒い球体に向かって吹いていた。
草や土塊が飛び、それが球体に吸い込まれて消える。兵士たちはそれをただごとではないと見たが、そのときにはもう遅すぎた。
球体はぐんぐんと巨大化していく。それに従い、球体に吸い寄せられる力も強くなっていく。
だれかの剣が飛び、球体の漆黒の表面にぬるりと突き刺さってその奥へと消えていった。球体はさらに大きくなり、やがて風に耐えきれなくなった兵士たちが続々と球体に吸い込まれた。
兵士たちは球体に吸い込まれたが最後、二度と姿を現すことはなかった。
正義軍だけではない。革命軍の兵士たちもそれに巻き込まれ、何十人、何百人と消えていく。
球体へ向かって吹く風がごうごうと鳴り、兵士たちが叫び声を上げながら球体に飲み込まれていくが、不思議なことに、球体のなかに消えてしまうとその叫び声さえ聞こえなくなった。
またたく間に球体は直径二十メートルほどに広がる。遠目からでもその様子は見てとれたが、戦いの最前線に現れた漆黒の球体をどうすることもできなかった。
「その球体に近づくな! 距離を取れ、下がれ!」
双方の兵士が一目散に逃げていく。それでも逃げ遅れる兵士がいて、仲間に向かって伸ばした手が空を切り、そのまま球体のなかへと消えていった。
すべての兵士がなんとか球体に吸い寄せられない位置まで避難すると、球体はその地点でぴたりと巨大化をやめた。むしろ反対に、収縮をはじめる。風は止み、音もなく、球体はあっという間にもとの三十センチほどの大きさになり、跡形もなく消え去った。
もちろん、飲み込まれた兵士たちはどこにもいない。
戦場の真ん中には、ぽっかりと大きな穴ができていた。
その球体に吸い込まれ、死体さえもなく行方不明になった兵士は、双方合わせて二千人以上に上った。
ベロニカはそれを確認し、にやりと笑って再び指示を出す。
「全軍、突撃再開。なんとしても敵の魔法部隊を探し出し、潰すのよ」
正義軍有利に傾きはじめていた戦況は、思わぬ魔法攻撃により再び振り出しへと戻されたのだ。
*
「――戦いはどうなってるだろうな」
グランデル城の二階、無人になった会議室で、グランデルの王クロノスはぽつりと呟いた。
あれほどひとが出入りし、騒がしかった会議室は、いまは死んだように静まり返っている。「死んだように」などというのは不吉だとクロノスは首を振り、椅子に腰を下ろす。
先ほどからその椅子を立っては座り、部屋のなかを歩き回っては戻ってきて独り言を呟いてばかりいた。
クロノスは、戦場には行っていない。王として城で待機することになっている。クロノス自身は戦場での指揮を主張したが、頭の硬い政治家に押し留められ、仕方なく断念したのだ。
どの道、戦いに行ってもなんの役にも立たないだろう。兵士たちは自分の役割を理解している。あとは個々の指揮官がそれを動かすだけだ。王は王らしく、安全な城のなかで帰還を待てばいい。それが兵士にとってひとつ生きて帰る理由にもなる、と言われては、クロノスには反論できなかった。
城から戦場までは、馬を飛ばしても数時間はかかる。逐一情報を入れるということは不可能で、すでに戦いがはじまったという一報は受けていたが、その後の情報は一切なかった。
いまは、戦いがはじまって数時間経つ計算になる。戦いはまだ続いているだろうか。もうとっくに終わっている、という可能性もある。もちろん勝利していれば問題ないが、もし敗北していたら、そのとき自分はどう行動すべきだろうとクロノスは自問していた。
いまさら城と城下町を捨て、どこかへ逃げるわけにはいかない。城下町には避難してきた人間で溢れているのだ。
かといって、いまから革命軍に対抗できるだけの軍を再編することも不可能だろう。結局、革命軍がやってくるのを待ち、無抵抗に城下町へと迎え入れるしかない。
こちらに抵抗の意志はない、そちらの指示に全面的に従う、と言ったところで革命軍にはまったく無駄だろう。革命軍はその言葉を聞き終わる前に略奪をはじめるにちがいない。
「――王としてできることは、もうなにもない」
この首ひとつでどうにかなるなら話は簡単だ。革命軍がクロノスの首だけを狙っているのなら。
しかし革命軍が狙っているのはこの町であり、町に住むひとびとだった。クロノスには、彼らを守る力はない。
外の廊下から足音が聞こえた。報告か、とクロノスは立ち上がり、入り口に目を向ける。
「――なんだ、ニコロスか」
入ってきたのは、金髪の男だった。ニコロスは曖昧な笑みを浮かべ、部屋の隅にある椅子に腰を下ろした。
ニコロスとその父スピロスは、どちらも戦場には言っていない。スピロスはすでに老齢で、戦場での機動にはついていけなかったし、ニコロスも戦いの役に立つとは思えず、本人も志願しなかった。
「どうした、ニコロス? なにかあったのか」
「いえ、なにも問題はありません――ただ、陛下がおひとりで不安ではないかと」
「ふむ、なるほど。たしかに、不安だよ」
クロノスはすこしくつろいで椅子に座り直す。
「ただ待つっていうのは、どうも性に合わない」
「わかります。なにもせずに待つというのは、ひとつの拷問にもなりうるほどの苦痛です」
ふむとうなずき、クロノスはじっとニコロスを見た。
金髪で、肌は青白く、唇はほんのりと赤い。同じ年だが、無精髭を生やしているクロノスとはまるで十歳近くちがうように感じられた。
よくも悪くもニコロスは純粋だ。まるでこの年まで罪に触れてこなかったように白いが、その分打たれ弱いところがある。スピロスの後任としてはふさわしい人格ではないだろうし、本人もそれを望みはしないだろうとクロノスは思う。
「とにかく、勝って戻ってくるのを願うしかない。まあ、勝てる見込みはあるし、それが可能な人間たちだとも思うがな。問題は魔法部隊だ。魔法部隊がうまく機能しなければ、おれたちの作戦は成功しない」
「魔法部隊を指揮しているのは、あの異世界人ですね」
「そう、大輔だ。有能な男だよ。ま、自信過剰だがな。それも自信がないよりはいいだろう」
「陛下、ひとつ進言したいことがあるのですが」
「進言? 珍しいな、なんだ」
「はい――いまからでも戦闘を回避できないでしょうか?」
「戦闘を回避する?」
ニコロスは臆病そうな目を動かし、頻繁に瞬きをする。
「このようなことを陛下に言ったと父上に知られては、また大目玉を喰らいますから――しかし、どうしても言わせていただきたいのです。戦いを避けることはできないのですか?」
「ふむ……おまえがどういう意味で言っているのか、おれにはよくわからないが」
「戦争はまさに百害あって一利なしです。ただ人間同士が殺し合うだけのこと。そんなことは、許されることではありません」
「だが、やらなければやられるだけだ。おまえは一方的にやられてもいいというのか? こちらは抵抗せず、向こうの暴虐を受け入れろと」
「ちがいます、互いに争わずに済む方法があると思うのです。彼らが求めているものはなんです? おそらく、食料や金銭のたぐいでしょう。そんなものは彼らが求めるだけくれてやればいい。どちらにせよ人命に替えられるほど大切なものではありません。彼らはそれで満足し、立ち去る。われわれはひとりの犠牲もなく、戦争を回避する――」
「ニコロス、おまえが言っていることは理解できる。たしかにおれも戦争をしたいとは思わない。だが、そうしなけりゃいけないときもあるだろう。やつらのやってきたことを見ろ、食料や金を渡しただけでおとなしく引き下がる連中に思えるか?」
「しかし、だからといって話し合いを放棄していい理由にはならないでしょう。ぼく――私も一度会いましたが、革命軍を率いているというあの女性は、決して話が通じない相手ではなさそうでした。粗暴さともかけ離れた人格だ。それなら話し合いで解決できることもあるはずです」
「いや、おまえの言うことはすべて正しいよ、ニコロス」
お手上げというようにクロノスは両手を上げ、首を振った。
「あまりにも正しい、理想論だ」
ニコロスは悔しげに唇を噛んだ。ニコロスにとって理想論という言葉は嘲笑にも等しいのだろうとクロノスは思ったが、この状況でニコロスの心情まで思いやっている余裕はない。
「ある状況においては、おまえの判断が正しい。しかしいまはもうその段階じゃない。戦いはもうはじまっているんだ、ニコロス」
「なんですって――もうはじまったのですか?」
ニコロスは椅子を蹴って立ち上がる。
「それは――では、もう多くのひとびとが犠牲に」
「さらに多くのひとびとを守るためだ。ニコロス、それが政治だよ。すべての人間が幸福に生きられればそれに越したことはないが、そうはいかない問題もある。おまえは右へ続く廊下と左へ続く廊下、そのふたつを同時に進むことができるか? おまえの身体はひとつしかない。右を選ぶなら左へは行けないし、左を選ぶなら右は無理だ。なにかを選択しなきゃいけないんだよ」
「だからこそ、話し合いをすべきだったんだ――戦争ではただ闇雲に犠牲が増えるだけです、陛下」
「だれと、どうやって話し合う?」
「あの女性は?」
「さて、革命軍のどっかにはいるだろう」
「それなら、あの女性と話し合い、革命軍の行動をやめさせる。それしかありません」
「どうやってやめさせる? 向こうが要求しているのは、この世界だ。人類のすべてだ。それを差し出さないかぎりやつらは止まらない」
「そうとは限らない。相手の要求をしっかり理解し、その本質を見抜けば、そのようなことにはならないはずです」
「すまんが、ニコロス、いつ報告がくるかもわからねえんだ。ちょっと休ませてくれるか」
クロノスが椅子のなかで目を閉じると、ニコロスはぐっと押し黙って部屋を出ていった。しばらくして、ニコロスが馬を一頭連れて城下町を出て行ったという報告が上がってきた。クロノスはとっさにニコロスの意図を察したが、兵を使って連れ戻すようなことはせず、好きにさせておく。
ニコロスは、もう子どもではない。自分の命の使い方は自分で決めるだろう。
しかしクロノスは不意に、ニコロスのことを誤解していたのではないか、と考えた。
ニコロスは英雄になりたがっている夢見がちなロマンチストだと揶揄されていたが、本当はそうではないのかもしれない。この現実をしっかり見据え、自分なりによい方向へ進ませようというひとりの政治家だったのだとしたら、ニコロスへの中傷は明らかに無責任だ。
それにニコロスは自分の考えを他人に理解されたがっていた。一種の秘密主義とはほど遠く、自分の考えを相手に伝え、それに賛同してくれることを期待していた。
子どものころからニコロスはひとりで行動できるような人間ではなかったが、だれの賛成も得られないとわかって、いまはじめてたったひとりきりで行動をはじめる気になったのかもしれない。
――しかしクロノスは知らなかった。
ニコロスが部屋を出ていくとき、机の上にあった紙を一枚懐へ突っ込んでいたことを。そしてその紙には機密である魔法部隊の居場所が記されていたことを。




