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恋人たち 04

 ユアンと別れて自宅に戻ったとき、クラネスはひどく疲れていた。


 夜半、すでに就寝の準備を済ませて自室に戻り、部屋のランプの火を落としてベッドに潜り込んだ。

 すぐにでも意識は闇に埋もれてしまいそうだったが、ガラス窓を叩く音がして、クラネスは現実に引き留められる。

 気のせいかと思ったら、再びガラス窓を叩く音がした。クラネスは息を潜ませる。

 もう一度。更にもう一度、小さな音が暗闇に響く。


 とうとうクラネスはベッドを出て窓に近づいた。

 おそるおそるカーテンの隙間から窓の外を覗き見て、クラネスは心臓が止まりそうになった。


「グレン様!」


 小さく叫んで、クラネスは慌ててカーテンを開いた。

 月明りに彩られて、確かにグレンが微笑んでいた。

 クラネスが鍵を開けた窓から、グレンは彼女の部屋に足を踏み入れた。


「……グレン様、どうやって? ここ、二階です」


 信じられない様子でグレンをまじまじと見つめるクラネスに、グレンは小さく笑った。


「仕事柄、建物に侵入することも良くある。騎士団の仕事は幅広い」


 黒い髪、黒い瞳、そして身に着ける黒い服。なのにグレンは、光り輝いて見える。


「どうして、こんな風に……」


 言ってくれれば、扉を開けたのに。そう言おうとしたクラネスの手を、グレンが取った。


「明日まで待てなかった。どうしても、きみに会いたかった」


 そのままグレンはクラネスの手を引き、その胸に抱いた。


「無事で良かった、本当に」

「グレンさ、ま……」


 クラネスの体がかっと熱くなる。心臓が、痛いくらいに激しく鼓動しはじめる。


「本当は、すぐにでもこうしたかった」


 多分グレンは、サラが無事に戻るまでは、そうすることを律していたのだ。クラネスが、自分だけが泣けないと思っていたように。

 クラネスは目頭が熱くなって、思わずグレンの広い胸に(まぶた)を押し付ける。両の手をグレンの背中に回した。

 暖かい。人のぬくもりは、こんなに。


「グレン様、私、あなたの婚約者になれて、本当に嬉しいです」


 ふわふわと、夢の中にいるような感覚。クラネスはいつもより雄弁になる。


「本当は、ずっとあなたみたいな方に、自分は不釣合いだって思っていました。でも私、今こんなにもあなたが――」


 そこで言葉を飲みこんで、クラネスはそっとグレンからその身を離す。

 変わりたい。グレンに相応(ふさわ)しい女性に。そう決意して、クラネスは顔を上げた。


「私の話を、聞いてもらえますか?」


 そう言うと、グレンはゆっくりと頷いた。


「ニコラスが――」


 思い切って話を始めると、再び心臓がどくどくと大きく鼓動する。


「私の弟が、本当に何でもできるんです。頭が良くて、冷静で、しっかりしていて、優しい。それに綺麗。女の私より、ずっと。だからいつも、私はコンプレックスだらけで。もちろんニコラスが嫌いなわけじゃありません。大事な弟です。とても愛しています。でも、時々自分が悲しくてたまらなくなりました。ニコラスに比べたら、私は何もかもが普通」


 ふう、とクラネスは大きなため息をついた。ここまでを白状してしまったら、なぜか胸がすっとしたような気がした。


「だからいつも自分に自信がありませんでした。あなたの隣に立つことにも、すごく不安で。でも私、今は思うんです」


 クラネスはまっすぐにグレンの瞳を見つめた。声が少し、震えた。


「不釣合いかもしれないけど、私、あなたの隣にいたいです」


 全てをさらけ出した後、クラネスは沈黙した。もう言うべきことがなくなって、グレンの反応を待つことしかできない。いったいどう思われただろう。クラネスは体が縮まるような気がした。


 待っていると、グレンはそっと、クラネスの頬に右手を添えた。


「なぜ私に、自分が不釣合いだと?」

「……だってあなたは、本当に素敵な方だから。若くして、アスファリアの第二師団長。将来は騎士長にと期待されて。みんながあなたのことを何て呼んでいるか、ご存じですか?」

「いや」

黒い貴公子(ブラック・プリンス)、です」


 グレンは、すこし驚いた様子で、小さく笑った。


「私には勿体無い二つ名だな」

「そんなことありません」

「クラネス、きみもだ」

「え?」


 頬に添えられたグレンの手、その親指がそっとクラネスの唇に触れる。

 クラネスは見る間に顔を赤くする。体中が熱くて、どうにかなりそうだった。


「きみが私に不釣合いだなんて、そんなことはない。きみは十分に、魅力的な女性だよ」


 と、グレンの顔が近づいてきた。クラネスは思わず目を閉じる。頭の中がくらくらとして、とても目を開けていられなかった。


 そっと、クラネスの頬にグレンの唇が触れる。いつかラングハート家で(てのひら)に受けたのと同じように、少し冷ややかなその唇。なのに、それが触れた瞬間、クラネスは体が溶けそうになった。


「クラネス」


 優しい声で囁やきながら、グレンは頬に、瞼に、ゆっくりと唇を落としていく。


「グレン様、私……」


 幸福で、涙が零れそうになる。

 最後に額に唇を落として、グレンはその身を離した。


 目を開く。月明かりの夜に、溶けてしまいそうな黒い瞳と目が合う。綺麗だ。


「そろそろ戻らなくては。これ以上いては、今度は私がきみを(さら)いたくなる」

「……グレン様」

「おやすみ、クラネス。良い夢を」


 グレンはそのまま窓の外に下がり、窓枠に手をかけると、一陣の風のように、夜の闇へ消えた。

 クラネスはふらふらと、その場に力なく座り込んだ。

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