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Prism Hearts  作者: 霧原真
第十一章
138/222

ポジティブ・シンキング

姐さんからいただいた、頬と腹への二発の拳骨のダメージを抱えたまま半日を過ごし、なんとか四時間目までやり過ごした俺は、とりあえず姐さんに言われたとおりに家庭科準備室へと訪れていた。家庭科準備室とは、つまり家庭科の授業を準備するところであり、それっていうことはつまり家庭科教師の根城である。というか、うちの学園にはゆり先生以外の家庭科専門の教師がいないわけで、家庭科準備室とは名ばかりに、もはやゆり先生の私室といってもいいような有り様である。

「呼ばれてきたとはいえ、若干入りにくいんだよな、ここって……」

この教室が、学園の中に存在する一室でありながらゆり先生の私室のようである、と言わしめる最大の要因は、その扉にある。

「いつも思うけどこれ、完全に表札じゃん」

家庭科準備室の扉には、「八坂ゆり」と彫り込まれた表札然とした木彫りの板が貼りつけられているのだ。そんなことしてどうして学校側から怒られたりしないのかは分からないのだが、実際にそうしているのだから仕方ない。事実は事実として受け入れるしかないのである。

「まぁ、別に、俺としては違和感無いし、いいんだけどさ」

とりあえず、いつまでも家庭科準備室の前でぼっとしているわけにはいかないわけで、さっさと用事を済ましてしまうのがいいだろう。っていうか、急がないとせっかく今日も用意した昼飯を食えなくなっちゃうしな。あっ、いや、ウソ、用意したの俺じゃない。

かりんさんがうちに来てからというもの、俺が自分で食事を用意する機会は、その以前に比べておおよそ半分まで減っている。それはかりんさんが自分にもなにか家事の手伝いをさせてほしいと言いだしたことに端を発した事態である。しかし実際の話、我が家における家事分担は、一年以上の生活を通して俺と広太の二人で回すように出来あがってしまっていて、そこにかりんさんを新規参入させるということには少なからぬ苦労があったのだ。

まぁ、大変だったのは俺ではなくむしろ広太だったのだが、しかしそれは俺にとっても、何も関係のないこと、と言うわけではなかった。俺は俺で、かりんさんと折り合いをつけるために言葉を戦わせたりしたわけなのである。

俺がその戦いの中に身を投じることになったのは、けっきょくのところ、我が家で行なわれる調理活動のすべてを請け負う、とかりんさんが主張したことにあるのだ。それにはもちろん理由があり――広太とかりんさんの間で交わされた家事労働の割り振りに納得しなかったかりんさんが、それならばせめて料理くらいはやります、みたいな感じになったのだ――、それにも納得するはするのだが、しかしだからといって俺が料理する機会を奪われるのは「ちょっと待って」なのだ。

俺だって、別に今まで義務感だけで料理をしていたわけではないし、少なからず我が家の台所を守ってきたプライドもある。それだっていうのに、いきなり明日から料理の機会を全部奪われてしまうのは受け入れられない。別に料理する機会の独占をしたいとは思わないが、せめて半分コくらいにしたいんだ! と思ったのである。

その話し合いはおおよそ半日にわたって行なわれ、最終的な結論としては朝と夜は一日交替、昼はかりんさんがつくるということになった。正直に言えば、俺は昼も一日交替にしたいなぁ、と思っていたのだが、しかしかりんさんが頑としてそこを譲ってくれなかったので俺が折れた形でである。だから結果的に、全体的に見たときの俺の料理回数がかりんさんの料理回数よりも少なくなってしまうのだが、まぁ、それくらいのことで目くじらを立てるような狭量はしていないつもりだ。

いいじゃんいいじゃん。昼はかりんさんがつくってくれたおいしいものが毎日食えるわけだし。…、いや、俺のつくったものだって美味いし。晴子さんの下で学んだ十年弱が、かりんさんの積み重ねた年月に劣っているとは、俺は思わないがな。でもだからって、それを強硬に主張してかりんさんと意見を交換していてはそれ以降の関係が気まずくなってしまう――どうせ俺のことだから、自分の主張を強く出したら意固地になってムキになるに決まっている――だろうし、いいところで妥協することが必要だろう。まぁ、半日かかったことからも分かるけど、俺もかなりムキになりつつあったわけで、そのまま交渉決裂みたいなことにもなりかねなかったのが本当のところなのだが。

「先生、三木です」

『はいは~い、三木ちゃんですね~。待ってましたよ~、入ってくださ~い』

「失礼しま~す」

ガララッ、と扉をスライドさせて、俺は家庭科準備室の中へと足を踏み入れた。そこは、なんというか全体的にファンシーな感じで、常に振り袖着用なゆり先生の和風イメージからかけ離れた空間だった。確かに、磨りガラスの窓を通して見える部屋の中はそこはかとなくピンク色で、あぁ~、けっこうピンクなんだろうなぁと思ってはいたが、まさかこんなにピンクだとは思わなかった。

まぁ、先生はこういう感じが好きそうだし、いいんじゃね? 確かに学園の一室であるこの部屋を、ここまで自由気ままに改造してしまっていいのかは分からないが、でもそれって結局あれだろ。賃貸した部屋をいくら改造しても、出ていくとききれいにしてれば敷金も礼金も帰ってくるみたいな、あれに違いあるまい。

「三木ちゃん、いらっしゃ~い」

「早かったわね、三木くん。お昼食べてからくると思ってたけど」

「あっ、綾先生もいたんですね。はい、きっと教室からここまで往復してたら食ってる時間なくなると思ったんで、持ってきたんです。戻るついでに学食にでも寄って食べてこうかなって」

「そうですか~、でもそれだと、一人で食べるってことですよ~? それはちょっと、さみしいですね~」

「そうよねぇ、いつもはみんなといっしょに食べてるのに、今日に限って一人で食べるなんて、わびしいわよね。あ~、そうだわ、三木くんもここで食べてけば? 椅子は余ってるし、別にゆりもそれでいいでしょ? それとも三木くんに食べてるとこ見られるのはイヤ?」

「まさか~、そのようなことは~。というよりも、むしろ先生がそれを言おうと思っていたところなので~、先輩に対して若干の憎しみが沸き上がりますね~」

「に、憎しみなんてわきあがらせないでよ! 別にいいじゃない、あたしが言ってもゆりが言っても、三木くんがいいって言えばここでいっしょにごはん食べるって事実は変わらないんだから」

「それとこれとは話が別、ってやつですよ~。先生が、三木ちゃんを、直接、お昼御飯に誘って、それでいっしょに食べる、というのが重要なのですよ~。ただなりゆきでいっしょに食べるのでは、70点くらいですね~」

「あっ、でも70点くらいはいくのね」

「三木ちゃんといっしょにご飯するだけで、80点はいきますからね~。先輩が勝手に誘っちゃったので~、10点減点です~」

「そうだったのね…、まぁ、あたしとしては何でもいいんだけど。それより、食事の前にまずはお話をしましょう。三木くんにも、そのためにわざわざこんな辺鄙なところまできてもらったんだしね」

「むむむ~、先生のお部屋を辺鄙だなんて、いくら先輩の言であっても許せません~」

「そんなところに食いつかないでよ、話が進まなくなるじゃない。ごほん、話っていうのはほかでもない、体育祭のことよ。風間さんから少しは聞いてると思うけど、三木くんには、君にしかできない重大かつ重要な使命を申しつけたいと思っているの」

「はぁ、確か、一日デート券がどうとか……?」

「えぇ、そうよ。やっぱり風間さんに言伝を頼んだのは正解だったわね、あたしが話をするまでもなくきちんと話が通ってるじゃない。じゃあ確認、三木くんは、風間さんからどこまで話を聞いてるの?」

「えっと、体育祭で一番活躍した人が俺との一日デート券をもらえるらしいってことだけです」

「そう、それ以上の細かいことについては先生に任せるってことね、任せてちょうだい。風間さん、あなたからのタスキは、先生確かに受け取ったわ!」

「先輩はそういう、生徒さんとのつながり的な熱血的なことがお好きですからね~。三木ちゃんも、気をつけた方がいいですよ~」

「ゆり、口出さない! それじゃあ風間さんの話の続きからさせてもらうわね。とりあえず、三木くんには体育祭で一番得点とった人に一日デート券を提供してもらうわ。これはあたしの考えた、みんなをがんばらせるために一番いい餌だから、イヤだとは言わせないわよ。どうしてもイヤだっていうなら、それよりももっとみんなを喜ばせられるものを考えてね。あっ、お金は使わないんだからね」

「…、すいません、パッとは思いつかないです……」

「それなら諦めて誰かとデートしてね」

「はい……」

姐さんにきちんと断ってこいと言われた手前、とにかくイヤですと言ってみるつもりではいたのだが、先生に先手を打たれてしまった。これではただイヤですとは言えないじゃないか。イヤですというためには何かしらの代案を出さないといけないわけであって、そんなものが簡単に思いつくわけが……。

「ん? でも先生、俺とのデート券なんて、誰が喜ぶっていうんです?」

「えっ? 誰が喜ぶって、みんなよ」

「えっ? 俺とのデート券でみんなが喜ぶんですか?」

「あたしの見立てでは、そうよ」

「でも俺、モテないですよ? 非モテ男子ですよ?」

「はっ? 非モテ男子?」

「えっ? 違うんですか? 俺、今まで彼女とかいたことないですし、モテとは対照的な位置にいるような気がしてるんですけど……?」

「むしろ逆に聞きたいんだけど、非モテ男子の周りに、どうして女の子が集まってくるの?」

「いや、みんな友だちですよ」

「真の非モテ男子は、女の子の友達すら出来なくて困っているというのに、それは贅沢ってものよ、三木くん。あたしもね、学生時代は男の子の友だちとかできなくてねぇ…、いや、通ってたのが女子校だったってのも多分に影響してるんだけど」

「先輩は~、同性にモテモテでしたね~。異性には、さっぱりでしたが~」

「異性にはさっぱりとか言わないで!? あたしもね、いろいろ頑張ってるのよ!!」

「徒労とならぬことを、心よりお祈りしております~」

「くっ……! 自分はけっこうモテるからって…、調子乗ってるんじゃないわよ……!!」

「せ、先生、落ち着いてください」

「お、落ち着くわ、分かってる、落ち着くわよ……。ふぅ…、というわけだから、みんなうれしい三木くんとのデート券は、景品に決定です。あと、細かい話だけど」

「先輩、先生は飽きちゃったので~、お先にご飯をいただきます~」

「もうちょっと待ちなさいよ!! あと五分もかからないわよ!!」

「ですが~、時間は有限ですので、同時並行でお話するのもありかと~。三木ちゃんが五時間目に遅刻してしまったら、大変ではないですか~」

「む…、それは、まぁ、そうね……。仕方ないわね、それじゃあそういうことにするわよ。三木くん、続きは食べながらね」

「あっ、先生、あの、その前にひとつ。一番活躍するのって、志穂じゃないですか。結果が分かり切ってる勝負で、みんなやる気出るんですか?」

「えっ? 優勝は誰か分からないじゃない」

「いや、でも、身体能力的に志穂が圧倒的に有利というか……」

「皆藤ちゃんは、点数半分ですので~」

「えっ? 半分?」

「そうよ。皆藤さんは半分なの」

「皆藤ちゃんだけではありませんよ~。三木ちゃんのファミリーは~、みなさんマイナススタートですので~」

「それは、嫌がらせ、的な……?」

「違うわよ、そういうのじゃないわ。いつもいっしょにいる人たちがデート券取っちゃったら、他の人はいい気がしないでしょ。バランス取ってるって思ってちょうだい」

「三木ちゃんとお話したいけど~、いつもいっしょにいる人がいて割り込めない~、なんてことを考えてる内気ちゃんも、いると思いますよ~、先生は~」

「は、はぁ…、なるほど……」

「そういうことだから、誰とデートになるかなんてわからないってこと。おわかり?」

「はい、それはまぁ、なんとなく」

「で、デート券の代わりのアイデアは、なにか思いついた?」

「いえ、それはまぁ、まだですけど」

「じゃあ、デート券で決定ね。それじゃ、これから細かい話を詰めるから、三木くんもお弁当食べながら話に参加してね」

「…、分かりました」

「ん、素直でよろしい」

とりあえず、どうしようもないらしいということだけはよくよく理解できた。まぁ、あれだ。別にクラスのやつらはみんなそれなり以上にかわいいし、デートに付き合うなんてマジ勘弁! みたいなことにはならないだろう。先生も、その辺は配慮してくれた上での決断に違いあるまい。

うん、ポジティブに考えよう、ポジティブに。前を向いていれば、大抵のことは納得できるもんだ。

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