ゴールデンウィークの過ごし方 坂下弥生の場合①
明後日、急に行くことになったテーマパークへのお出かけに心躍らせている未来ちゃんと、そのうれしそうな姿を見ること自体がうれしそうな歌子さんに別れを告げて部屋を出た後、俺はまたお土産一箱分だけ軽くなったキャリーケースを持ち上げて少し錆びた階段を上っていく。しかし、俺が向かっているのは真ん中の扉である我が家ではない。その一つ手前の扉、つまり階段にいちばん近い扉である弥生さんに部屋である。
万年是長期休暇みたいな締まりのない自堕落な生活を送っている弥生さんのことだ、今日も特に何をするでもなく、起きてはいるけど目覚めていない感じに部屋でぼぉっとしていることだろう。つまりいつもと何も変わらない生活を送っているはずなのだから、旅行に行っちゃってるかもしれないとか心配することも、男を連れ込んでいるかもしれないとか心配することも、俺のいない二泊三日のうちに変死体に変わってしまっているとか心配することもないのである。
どうせ今日も限りなく昼に近い朝と昼の狭間で目を覚まし、晩酌で重くなってしまった頭を覚ますために迎え酒を流し込み、朝食とも昼食ともおやつとも判断できない中途半端な食事をして、そして酒を飲んでいるに違いないのだ。しかし、こうして言ってしまうと本当にダメな人にしか思えない。というかむしろ、ダメというか、ゴミか。
だが、本当にどうしようもない人だなぁ、と思いながらも心の片隅で少なからず心配してしまう俺がいるのも事実。なんというか、放っておけないんだろうな。今までもこうして生きてきて現にこうして生きているんだからそんなことは全然ないんだろうけど、でも、俺がいなくなったら死にそうな人は放っておけないんだよなぁ……。なんというか、得な人だ。
「弥生さ~ん? いるんでしょう? いないんですか?」
どうせ部屋の中にいるに決まっていると決めつけて、俺は弥生さんの部屋の扉をドンドンと数度叩く。というかむしろ、部屋の中に弥生さんがいないとしたらどういう要因によってその状況が発生しているのか教えてほしいくらいだ。そもそもからして、弥生さんは長期休暇だから出掛けようかしら、なんてことを考える思考回路を持ち合わせてはいない。むしろ、長期休暇が訪れたならばその間はずっと部屋から出ずに飲み明かしてくれよう、とかいう方向に思考を結び付けるような残念なありさまなのだから。
しかし、俺はそんなことはないと思い込んでいたのだが、俺からの問いかけに対する返事は全くない。ふむ、部屋の中にいるのは間違いないとして、どうして応対に出てこないというのだろうか。なんだろう、もしかして都さんのときと同じで、何もしないをしているばっかりに応対に時間がかかっているのだろうか? というかここは、むしろ酔っ払って眠っているといった方がリアリティがあるだろうか?
「…、まぁ、どうせ開いてるだろ」
都さんのときの二の轍は踏まない。ダメ人間たちの居城に訪れたとき、ほんの一欠片であっても遠慮をしてはいけないのだ。どうせ弥生さんは部屋の中で不用心に、ドアのかぎを開けっぱなしにしてぐーたらしてるに違いないのだ。それならば、どうして扉を開くことに、一抹であっても躊躇を感じる必要があるだろうか。
だいいち、そもそも俺はもう既にきちんと――まぁ、作法に則っているお上品なそれであるかは別にしてだ――ノックもしてるし、開けてしまったとしても理論上は問題ないはずなのだ。いや、確かにノックをした後は中からの返事を待って扉を開くというのがお定まりというものかもしれないが、しかしそんなものを待っていたら、この人の場合は半永久的に扉を開くことができなくなってしまうに違いないのだ。
というか、弥生さんが自分で「俺がこっちの部屋に来るときはノックもチャイムもいらない」と言っていた(第59話参照)ではないか。俺は、こうして礼儀正しくノックをして声までかけているのだから、既にそのなすべき儀礼の全てを行なったといっても過言ではないのである。故に、俺にあと残されているのは扉を開くという行程のみであり、これ以上なにをする必要もないと言ってしまっても、決して間違いではない。
「ほら見ろ、どうせ開いてると思ったぜ」
家主が自主的に出て来てくれないからには、受身であることを宿命づけられた来客サイドはもう何をどうすることもできないわけで、それならばもういっそ、ここは勇気を出して常識破りの攻めに転ずるが吉。女性の邸宅に家主の赦しを得ることなく踏み込むというのは、多少、というワードでオブラートに包むには厳しすぎる、ぶっちゃけあり得ない行為である。しかしだからといって、弥生さんが応対に出てくるのを律儀に待ち続けていたら、俺は日が暮れるまでこの扉の前で立ち尽くすことになるであろうことは目に見えている。
それはさすがにいやだ! ということで仕方あるまい。俺はノブを捻っただけで簡単に開いてしまった、防犯性とか危機意識とかの観点から普通に考えて行なわれているであろう施錠という防御が、どういうわけか為されていない目の前の扉をくぐり抜ける。それはノーガード戦法をモットウとしている、というかむしろ泥棒でも不審者でも片っ端からかかってこい! と公言しているかのような感じであろうか。そして、ほぼ間をおかずに扉の外に二歩後ずさった。
…、一歩進んで二歩下がってしまった。これでは累計で一歩退いてしまっているではないか。いかんぞ、俺、そういう逃げ腰の弱腰ではいけないぞ、まったく。
「…、ちょっと、深呼吸する時間をくれ……」
誰に言うでもなくぼんやりと懇願してしまった俺は、その言葉の通り、とりあえず吸って吐いての深呼吸を行なった。まぁ、待て。ほんの少し落ち着いてからでも遅くはない。
ついさっき、具体的には鉤括弧一つと句点三つ前、一歩後ずさってしまったことに対して逃げ腰はいかんと言ったばかりなのだが、しかしそれについて少し言い訳をさせてくれ。そういう、なんというか、俺の中の理想像みたいなものについて言及したのを理想俺とすると、現実を生きる現実俺であるこの「俺」から、言い訳をしたい。させてほしい。…、させてください。
まずは、この扉の先に広がる世界を見ていただきたい。荒れている。いや、乱れている。…、荒らされている?
どれがもっとも正しい表現なのか俺には分からないが、しかしだ、どの言葉が一番正しいとしても共通して言うことができるのは、部屋の中が非常に雑多な感じになってしまっているということである。少なくとも、人間が社会的かつ文化的な生活を営むにじゅうぶんでない様相の空間が、俺の目の前には展開されているのである。
「一週間くらい前は、こんなに汚くなかったはずなんだけどなぁ……」
一言で言うならば、汚い。よく分からん分厚い本やらよく分からん段ボール箱やらが床に散乱していて、非常に雑多な印象を受ける。そして、うちの部屋と同じ間取りのはずなのに、物の詰め込み過ぎとそれ自体の量の多さが原因だろうが、どうしてか狭く感じてしまう。
そして臭い。非常に独特の、弥生さんの匂いとでも言うしかない匂いが、扉が開かれたことによって流れ出してきたのである。まるで俺の入室を拒んでいるかのようではないか。
「そんなバカな…、なんで一週間でこんなことになるっていうんだ……」
というか、一週間前にドアが開いているのをチラ見した限り、さすがにここまで乱れてはいなかったと思うのだが、たった一週間のうちにいったい何があったというのだろうか。いや、そもそも、どうやったらこんな、あたかも嵐が通り過ぎたかのような有様をつくりだすことができるのだろうか。
「や、弥生さ~ん……?」
考えうる最悪の事態ととしては、実は弥生さんがこの雪崩を起こしてしまっているたくさんの荷物のの下敷きになっていて、息も絶え絶えで半死半生の状態に追い込まれているとかがあるだろうが、まぁ、そんなことは流石にないだろう。どうせ奥のリビングに布団を敷いて、寝ているのか酒を飲んでいるのか分からない、正体不明な感じになっているに違いないのだ。
となると、俺はまずそんなあり様の弥生さんを起こさないといけないのだろうか。う~む、ぶっちゃけ、それはさすがに面倒だなぁ……。正体不明になっててもいいから、せめて起きててくれると助かるんだけど、これだけ静かってことはそれもあんまり期待できないんだよな。
「起きてますか~、弥生さん?」
とりあえず、こんなところで立ち止まっていてはなにも進まないわけで、仕方あるまい、ここは勇気を出して一歩を踏み出さなくてはならないだろう。実際のところ、こんなところに入っていくのはあんまり気が進まないのだが、しかしこんなところが弥生さんの住まいなわけであり、行かないことには温泉まんじゅうを渡せないではないか。お土産っていうのは、その場に相手がいなかったり入って行きたくない部屋だったとしても、郵便ポストに突っ込んで終わりにしてしまうわけにはいかないものなのである。
なんというか、お土産のブツそのものだけでなくそれ付随するおしゃべりまで含めて、全部まとめてお土産なのではないだろうか、と俺は思っている。いや、確かに、さっきまで廻ってきた二軒ではそういう土産話的なことはあまりしなかったけど、でもそう思っているのだ。
「弥生さ…、おぅ……」
そして、足の踏み場もない玄関から伸びた廊下を、出来るだけ散らかっている荷物たちを踏まないように気をつけながら進んでいくと、なんとかたどり着いたリビングにそれはいた。…、その人は、いた。
「ったく…、なんて格好で寝てるんだ…、この人……」
リビングルームには、一組の布団が敷かれていた。それは、適当すぎる扱いによって薄くなってしまった敷き布団と、これまた適当すぎる扱いによって軽く綿がヘタってしまった掛け布団のセットであり、少なくとも快適な睡眠が約束されるものではないように思われた。
そして空気が淀んでいる。おそらくずっと換気が行なわれていないのだろう、埃っぽいうえに酒の匂いがこもっている。これは、扉を開いた瞬間に感じた不快な空気を三倍くらいに濃縮した感じのもので、そんなことでそれから逃れることができないのは分かっていたのだが、俺は思わず顔を反らしてしまった。
「…、起きる前に逃げるか、うん」
だが、俺にとっての最大の問題は、しかしながらそんな部屋のあまりにあんまりな惨憺たる惨状ではなく、そこでまるで泥のように眠っている弥生さん本人だったのである。いや、弥生さん本人というか、弥生さんのしている格好というか、寝姿というか、…、全部である。
とりあえず、まずは格好。弥生さんは寝るときにわざわざ寝巻に着替えるような律儀な人ではなく、とりあえずその身を拘束しているものを脱ぎ捨てて自由になってしまう人なのだ。しかも、自由になった後にシャネルの七番をまとうようなこともなく、極限の優雅とエロチシズムが融合を果たした最終進化形を体現している、というわけでもけっしてない。
つまり、分かりやすく言うとこの人は野蛮人なので寝るときに服を脱ぎ捨てるのである。確かに、自分の部屋で一人で眠っていることに違いはないんだから、そこで弥生さんがどんな格好をしていようと俺が口をはさむべきところではないのかもしれないが、慎み深さという言葉だけは知っていた方がいいのではないかと思う。
しかも悪いことに今は、いつもだったら最後の良心として下着だけは身につけているのだが、それがない。正真正銘の意味で全裸である。しかもこちらにむかって脚を開いている。あまり言葉にしたくないのだが丸見えであり、女性として最も取るべきでない格好の一つを俺の目の前に晒しているということができるだろう。思わず顔を反らしたのは、臭いよりもむしろこちらの方が原因として大きいのかもしれない。
「俺はなにも見てない、見てないぞ」
弥生さんとしては俺がこうして入ってくることなんて想定していなかったのかもしれないけど、でもまさか、俺だって弥生さんが全裸で、しかもこんなあられもない格好で眠っているなんて思わなかったのだ。俺が悪いのか弥生さんが悪いのか、なんてことを言いたくはないが、しかし少なくとも、俺が他意を持ってこの状況に臨んだわけではないということを、ここで明確に言っておきたい。
言っておくが、ここで俺に出来ることはなにもない。都さんのところでも歌子さんのところでも、俺に出来ることがあったからやってみたさ。料理をつくることは出来た、荷物を運ぶこともできた。でもここで、全裸で眠っている弥生さんに対して俺ができることはなにもない。いや、下着を着ていてくれたらば布団をかけ直すくらいはしてあげられるかもしれないけど、でも今は全裸だ。もうこれ以上は顔を向けることも、近寄ることすらも出来ない。
というわけで、俺は逃げ出した。
「お邪魔しました~……」
「んぁっ!? ゆきっ!?」
「なんで起きたの!?」
しかし、回り込まれてしまった。




