女二人、言葉のやりとり
ここからは、俺の知らない物語。
すっかりと深い眠りに落ちてしまった俺の身体を、誰かが俺に代わって動かしている。その光景を、俺の意識が認識することはない。なぜなら俺の意識は深い深い底に追いやられてしまっているのだから。
しかしこの感覚、以前に味わったことがある。この、意識を強制的にシャットダウンされたような、違和感を感じる暇も与えられずに瞬く間に閉じられてしまうようなそんな感覚。
いや、知っているわけではないのだ。むしろ知らない。俺はその感覚が訪れたときにはすでに意識を失っているのだから。だから知っているのはそういうふうになった事後の感覚でしかなく、今のこの感覚は知っているはずがないのだ。
それでもとにかく、こういう状況になったことはある、ということは確かだ。これが初めてのこと、というわけではない。以前にも何度か、こうして俺は意識の主導権を奪われている。だから今回も、きっとそういうこと。目を覚ましたら、たぶんそのことについて、この不思議な感覚以外なにも覚えていないのだろう。
「俺様は知っているぞ。貴様、三枝弓子などという名ではないな。ふんっ、三枝などと、ふざけた名前、よくぞ考えたものだな、二の星の分際で、三などとな。恥知らずだ、まったく。貴様と血を同じくする者がしたことを忘れたとでも言うつもりなのか? ん?」
「ぉ、お初にお目にかかります。このような場で非常に恐縮ですが、どうか名乗りを受けていただければ、幸いです」
「まぁ、いいだろう。神たるものとして、寛容に努めなくてはならないからな。受けよう、述べよ」
「はい、私、二の星、二見に生を受け、当年経まして二十年、名はかりんと申します。今はこうして当館におきまして働いておりますが、これもすべては幸久様と、一目でいいのでお会いしたく思いましたからでございます」
「そうだったな。貴様の名は、二見かりん。呪われた二の名を持つ女だ。己が立場、努々忘れるでないぞ」
とにかく、俺の隣で布団の中に入って横になっていた三枝さんは、さっきまでとはまったく違う、楽しそうに肩を震わせていたとさっきまでとは違う顔になっている。そして布団から出ると畳に直接正座して、深々と腰を折り最敬礼として額を床に擦りつける。
そして俺は――あくまでも俺の身体ではあるが、しかし俺ではない――同じく布団から出ているが、しかし偉そうに胡坐をかくと、ダルそうに肘を突いて、まるで見下すように三枝さんに視線を向ける。
「言っておくが、俺様は全能に限りなく近い神格だ。貴様の考え、貴様の思惑、どちらもほぼ完全に理解している。命が惜しくば、嘘を吐くなどして俺様の機嫌を損ねることがないようにしろよ、娘。俺様にかかれば、貴様をくびり殺すことなど、造作もないことなのだからな」
「ぞ、存じ上げて、おります……」
「それで、貴様、なにゆえこのように、わざわざ偽名などを用い幸久の泊まるであろう宿に潜入するなどという、どうにも遠回りで面倒なことをした。そのようなことをせずとも、娘、やろうと思えば正々堂々と正面から会うことも出来るだろう。そうだというのにこのような、まるで騙し打ちのような手を取るとは、いったい、何をたくらんでいると言うのだ。正直に全てを申せ」
「その前に、伏してお願い申し上げます。なにとぞ、幸久様には私のことは内密に…、内密にお願いいたします……」
「ふん、それは貴様の態度によるな。黙っていてほしかったら、それらしく、相応の態度を取って見せろ。俺様の機嫌を損ねるということは、幸久にお前の言ったことを知らせることと同義であると心得よ。いや、それで済むかどうかは分からんな、明言は避けよう。俺様とて手が滑ることもある」
「はい、存じ上げております」
「それでは話せ。もう一度言うが、貴様が嘘を吐いたときはすぐに分かるということを忘れるな」
「はい……」
そして、三枝さんは顔を上げると話を始めたのだった。それは俺という主観がいないからこそ語られる真実で、俺という主観がいまだ知り得ぬ、しかしほんの近い将来どうしようもなく知ることになる物語。俺にはまだ知らないそういう直面し、対面することを強いられるような案件があるのだと、そんな将来を決定づける、そういうお話。
「私も、出来ることならばこのような手段、取りたくはありませんでした。しかしこれはあくまでもすべて、私が幸久様に一目お会いしたかった、という思いのみによって行なったことであり、それ以外の企みや企てがあってのことではないと、そのことについてだけは、あなた様にも納得とご理解をいただければ幸いでございます」
「どうやら、嘘では…、どうやらないらしいな……。まぁ、いいだろう。そのことについてのみ、俺様も貴様に理解と納得を示そう。貴様は幸久に会いたい一念でここにきて、ここで働き、そしてここでこうしているということについては、私も了承してやることにしよう」
「御理解いただきまして、ありがとうございます。話を続けさせていただきましても、よろしいでしょうか?」
「許す」
「ありがとうございます。それでは続けさせていただきます。私は、先ほども名乗りました通り二見の生まれでございます。二見に生まれた女は、分家筋まですべて含めて例外なく、二見本家の後宮に入ることになっています。私も、二見の本家の長女として生を受けましたが当然例外としては認められることはなく、後宮に入り、そして今まで生きてきました。後宮というものは、あなた様はご存じでしょうが、牢獄ではございません。言うならば、籠。二見に生を受けた乙女を閉じ込めて、監視するためのものには違いありませんが、しかしあくまでも鳥かごのようなものなのです。監獄のように耐えがたい労苦が与えられるというわけではありません。与えら得るのは豪勢な食事、無数の付き人を従えた何不自由ない優雅な生活、そして無限とも無為とも思える、永遠にも等しい時間。許されないことはただ一つ、後宮から外に出るという自由だけ。私、いえ、私たち二見に生まれた女たちは、生まれてから嫁ぐまでを後宮という限られた、狭い狭い世界の中で生きていくことを強要されるのです」
「そうか、だがそれがどうした。それはただ、貴様に与えられた人生の前提条件がそうだったというだけだ。それはあくまでも、ただの前提条件でしかない。前提条件に呑まれ、なにもしない自分のヒロイックを嘆くというのか? 生まれの不幸を呪うか? 自分にはもっと違う人生があったのに、と嘆くか? そのようなもの、戯言だ。自分のあり方を知りながら、しかし何もせぬ愚鈍な人間の、哀れな恨み節でしかない。そのようなものを聞くために、俺様がここにいるとでも思っているのか、貴様。自己満足の自分語りの俺様を巻き込むつもりならば、その先に確実に待つ死だけ、それだけは覚悟しておくんだな」
「もちろん、そのようなことはございません。こうして事実をお話することが必要だと思われましたので、お耳汚しですが、今のようにお話させていただいたまでです」
「ふん、これからされる話も、おそらくすべて耳汚しなのだろうがな。しかしまぁ、仕方ない、幸久のためと思い聞いてやることにしよう」
「ありがとうございます。そうして二見の女は後宮で生きることになるわけですが、私も当然それと同様でした。二見に生まれた者の宿命なのですから、もちろんそうなるのが当たり前なのですが、やはりそれはおかしいと考えていらっしゃる方もいます。私の祖父で先代二見家当主である二見啓蔵様です」
「あぁ、あの坊主か。俺様は奴のことも知っているぞ。よく知っていると言ってもいいかもしれない。なにせ、あの坊主は幸久の祖父と親友だったからな、俺様が目にすることも多かった。夢のようなことを夢のように語る、愚かな餓鬼だった。口だけは達者な坊主だったと記憶している。まぁ、言ったことの半分ほどは成し遂げたようだから、案外口だけというわけではないのかもしれないがな」
「祖父は二見の誇りです、そのような言い方は」
「黙れ、俺様に楯突くな。楯突こうという意思を見せるな。娘、分かっていないようだから言うが、調子に乗るな。物言わぬ死体になりたくなければ、俺様の望むものだけを口から出せ。卑賤な存在が、神格たる俺様と対等に口をきこうなどと、思いあがったことを考えるな」
「…、もうしわけ、ございません……」
「これから言う俺様の言葉を忘れるな、逐一思い出せ。この場で貴様がまだ命を持った存在でいることができるのは、まだ俺様が手を下していないからだということを、常に考えておけ。言っておくが、俺様は機嫌が悪いのだ。お前のような者が、俺様のかわいいかわいい幸久に近づこうとしているんだ。本当は、今すぐ貴様を肉塊に変えてやってもいいと思っているのを我慢しているんだ。銃口が貴様のこめかみに突きつけられているのだ、進んで引き金を引かせようとする自殺志願者は、さすがに救えないな」
「迂闊な発言でした、お許しくださいませ」
「ふん、気の強い女だ。誤るということは、もう少し誠意をこめて行なうものだろうに、まったく神に対して不遜なことこの上ないな。仕方ない、話を続けよ」
「ありがとうございます。おじいさまは、後宮を廃しようと尽力なされたお方で、その思いは当主となられてからも変わりませんでした。しかし、けっきょく当主でいらっしゃる間に後宮を廃することはできず、今でもそれは二見本家の奥の間にあります。おじいさまほどの方でも、あれをなくしてしまうことはできなかったのです。おそらく今後も、あれをなくすことは出来ないでしょう。ですがなんとか一人くらいは、と当代の長子である私を、当主を引退なさったおじいさまの世話係という名目で、後宮の中ではありますが限りなく外に近いところに置いてくださったのです。それが、おおよそ15年前ですので、私が五つのときです。そうしておじいさまは、外からたくさんの先生を呼んでくださり、私に様々な教育を受けさせてくださいました。ですので私は、外で生きていらっしゃる方と変わらぬ勉学を行なうことが出来、そのことについておじいさまにはとても感謝しております。それで長々と前置きを失礼しましたが、本題に入らせていただきます。私が三木様にお会いするために、こうしてわざわざ回りくどい方法を取らせていただいたのはなぜか、ということですが、先ほどまでお話しておりましたような事情によりまして、二見の女は易々とは後宮から出ることが叶わないのです。ですから今回は、おじいさまの世話係としてさらなる研鑽を積むため、という名目で、口利きをしていただいてここへと入り込むことで、なんとか三木様のことを一目だけでも、と」
「そうか、そういうことか。なるほど、最初は嘘を吐いているのだろうと思っていたが、しかしどうやら嘘ではないらしい。いいだろう、そういう事情があるのならば、そういうことと納得してやることにする。感謝しろ」
「はい、ありがとうございます」
「ということは、外に忍を伏せているのは二見ということだな」
「はい、ご察しの通りでございます。私がこうして外に出るのならば、とおじいさまが護衛としてつけてくださったのです。しかし、護衛というよりもむしろ監視と言った意味合いの方が強いでしょう。ですが、幸久様に危害を加えるために伏せられているものではございません、その点に関してはご安心くださいませ」
「ふん、信じてやることにしよう。しかし覚えておけ、幸久の身は、常に俺様が見守っている。危害を加えようとすることも、手を出そうとすることも許さない。特に貴様はそうだ、小娘。このままここに留まっていたくば、ただ黙って横になっていろ。二見の女が幸久に手を出すことは、俺様が絶対に許さん」
「ここにいても、よろしいのですか?」
「いたいのならば、勝手にしろ。しかし絶対に二人きりにはしない。分相応にあるよう心掛けよ」
「は…、はい、了解いたしました……」
「俺様も、元は女だ。貴様の思いもまったく分からないというわけではない。だが幸久には手を出させん。だから間を取ることにした。ここにいることは許すが、しかしそれ以上のことは許さない。これが俺様の妥協点だ。不服ならば、仕方ない、俺様に殺されるんだな」
「身に余る光栄でございます。ありがとうございます」
「ふん、それならば近こう寄れ。幸久はこちら側で寝る。貴様は中央よりこちらに入ってくるな。意図を持って入ってきたときは、覚悟してもらう」
「はい、気をつけさせていただきます」
「寝る、灯りを落とせ」
「はい、おやすみなさいませ」
そして、俺の知るよしのないお話は、こうして幕を閉じたのだった。俺の中にいる何かは、それから俺に意識のハンドルを返すと、俺と入れ替わるように意識の奥底へと沈んでいったようである。しかし意識を返されたと言っても俺が目覚めるのは翌日の朝になってからであり、今この時点で意識を取り戻すことはないのだが。




