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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
第三章 一週間

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93.夜明け

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 月が沈んでも空はまだ明らまず、小鳥はまだ歌わず。空気には夜の気配が強く残り、吐いた息は白く染まらずとも身を凍えさせるには十分。

 まだ起きるには早すぎる時間だというのに、身体を横たえているのは少数だけだ。大半はその場で起き上がり、状況を理解しないまま呆然と見つめている。

 ある者は一部は異様な雰囲気に息を呑み、ある者は隣人と囁き。ある者は入り口にほど近い位置で待機し、そしてある者は……ディアンとエルドは、扉の前に立ったまま。

 僅かに開いたそこから飛び込む鋭い隙間風は、直撃せずとも体温を奪うには十分。だが、フードを強く掴み下ろしたのは寒さだけではない。

 そんな体感さえ意識しないほどにディアンは硬直し、その時が来るのをただじっと待っている。

 手配書が発令されてまだ数時間。この場所で囲まれ、追い詰められて……エルドに提案してからも、同じ時間が経っている。

 夕食も朝食も食べていないのに空腹感は抱かず、胃を満たすのは緊張と不安ばかり。

 確かに提案したのはディアン自身だ。僅かな可能性。そこから得られる利点。考えられる不利益。

 却下されるのが大前提。その中から実行可能な部分だけを抜き出し、現状を突破できる糸口が見つかればいい。

 そんな軽い気持ちだったのに、まさかその大半が採用されるなんてどうして予想できただろうか。

 作戦なんて言うにはあまりにも稚拙。全てが都合良く動かなければ成り立たない理想であることは、エルドも理解しているはず。

 それなのに、今こうしてその時が来るのを待っている。

 まだ今なら止められるだろう。人目につかないように山を下りるなら、むしろ今しかない。

 待ち伏せしているだろう奴らがまだ眠気に襲われている間に、裏口から。包囲網の薄い箇所を狙い、町人に迷惑をかけないように早急に。

 いや、ディアンがここで一晩過ごしていた時点で後始末は待っているが、それは後からくる応援に委ねれば少なくとも町民に被害は及ばない。

 そうして、最初の予定通りディアンたちは山を下り、教会がダガンたちの罪を確定させるために動く。あとは彼らに任せるだけでいいはずだ。

 ただでさえ負担を強いているのに、これ以上エルドに迷惑をかけるだけの価値はない。

 それもこんな……ただの、強行突破になんて。

 ああ、そうだ。こんなの作戦なんて呼べやしない。あれやこれやと並べ立てても、要約してしまえば襲われる前に襲ってしまえだ。


『僕があなたと行動を共にする限り、彼らはあなたを倒さなければならない』


 まだ数時間前だ。だからこそ思い出せる。

 瞬き見下ろすあの薄紫も、形にならないそれを賢明にまとめようとする己の拙さも。鮮明に。


「すでに彼らは、あなたが教会の関係者であることを知っている。そのうえで危害をくわえようとするなら、それは教会への反逆となるでしょう。不敬罪としては十分すぎる。そして、そうなった原因はギルドが出した指名書にあります」


 一度瞬いた瞳から驚きが消え、それから口も閉じる。

 少し間抜けにも見えた表情は、すぐに真剣なものへ。無言のまま続きを促され、紫は光を捉えたまま。


「僕の予想が当たっていれば……あれは、正式な手続きを踏まずに発令されたものです。そうでなくとも、罪状が記載されていない手配書なんて本来あり得ない。正当性を示すためには原本の提出が必要。そこに罪状が記載されていたとしても、国王陛下とギルド長の名前がなければ取り下げることができる」

「確かに、緊急指名の場合はそうだったな。だが、いくらでも言い訳はできる」

「罪を確証するには証拠が必要です。それも、ここまで大事にしたなら証言だけで成り立つ罪では認められない。確かな物証と裏付け、膨大な書類によって初めて成り立つ」


 例外は存在するが、それは無差別殺人や膨大な被害が確認できた場合だ。衆人の前で現認されたなら手続きなど後で構わない。

 だが、緊急を要するには一週間という期間はあまりに短く。その理由は教会相手には通らない。


「正直に僕を連れ戻すためのねつ造とは言えないでしょう。教会側から指摘が行われれば、彼らは誤報として取り下げるしかない。たかが一般人の行方と教会の幹部に対する被害、優先させるべき事項は彼らだってわかっているはず」


 そもそも、ディアン程度にここまでするのが想定外だ。指示を出したのは父かサリアナか。

 王家とギルド両者の協力がなければなり得ない事象。ならば、どちらが主体でも大差ない。そして、父も姫も……教会に楯突くほど、愚かではないはずだ。

 これがグラナート司祭相手なら話も違うだろう。昔なじみ。英雄という繋がり。共に死地をくぐり抜けた仲間。

 ディアンが目にしてきたのは優しく教えを説く姿だけ。それでも、彼もまた教会の司祭。女王陛下に忠誠を誓う一人。

 この一件を任せられるとするなら、それは彼以外にはいない。そして、彼はその信念を違えることはないだろう。

 たとえヴァンが相手でも。それが、共に世界を救った仲間の娘であったとしても。

 エルドの立場がどれだけ高い位置にあるか、それはまだわかっていない。だが、司祭たちの反応からして何事も無く済ませるわけにはいかないはずだ。

 彼にはそれだけの威厳があり、責任がある。そして、それは教会の威信にも関わるのだから。


「……ですが、」


 言葉が詰まる。そう、ここまで述べたのは全て都合のいいことばかり。本当にうまくいくなんて思っていないし、彼らだってそれなりに対応しているだろう。

 教会が出る、とまでは想定しなくたって、伝えられたギルドの中には不信感を抱く者だって、少なからずいるはずだ。

 彼らへの言い訳、ねじ伏せるだけの物証もすでにあるかもしれない。だからこそ一週間もかかったのであれば、どこまでこの作戦がうまくいくか。

 ああ、いや。それ以前に……これには、どうしようもない欠点がある。


「それは、全部あなたが襲われるのが前提で……」


 言葉がしぼむ。唇を閉ざしそうになり、だが目を逸らさなかったのは意地からだ。

 そう、これはディアンではなくエルドが……『中立者』が襲われることで、初めて成り立つ。

 言い方を変えれば、エルドを巻き込むことで初めてディアンに価値が生まれるのだ。

 今のディアンは金の卵。間違いなくダガンたちは襲ってくるだろうし、それを避けるのは難しい。だが、被害を少なくする術はそれこそいくらでもある。

 襲われるのを前提に対応するのと、襲われることを望んで対応するのは大きく違う。

 どちらもエルドに負担がかかるが、それでも……それをディアンから強いるのは違う。違うのだ。


「どちらにせよ彼らは襲ってくるし、あなたに迷惑をかけてしまう。山を下りたとしても追ってきそうですし、それならここで終わらせた方がいいのかとも思ったんですが……でも、うまくいくとは思えませんし、結果的にダガンたちを軽率な理由で捕まえることにもなります。町に対する解決にもなりません」


 再びこの町に来る可能性は、クライムたちに話した時よりは低い。だが、必要な証拠が集まりきっていないのに行動を起こせば、彼らの屈辱を晴らすことはできない。

 証言こそ有り余るが、エルドが道中で集めた物証だけでは弱い。もっと決定的ななにかが必要。

 ディアンの私欲のために事を動かすことはできない。結果的に捕まるとしても、重要なのは結果ではなくその経緯だ。

 目的のために手段を選ぶ段階ではない。それは、それではダガンたちと同じなのだから。


「……ただの戯れ言です。ですから、」


 いよいよ視線に耐えられず、顔が落ちる。その薄紫は今、どんな瞳でディアンを見つめているだろうか。

 呆れか、哀れみか。言われるまま口にした理想に対するものには違いない。


「ディアン」


 沈黙は辛く、あのまま眠ってしまえばよかったと毛布を引き上げる手は、囁かれる名によって強張る。

 おそるおそる見上げた先。見慣れた光に侮辱も呆れもなく。されど、強い光はそこに、あって。


◇ ◇ ◇


「――まだ寝ぼけてるのか?」


 不意に声をかけられ、肩が跳ねる。思考にふけっていたと気付いたところで、反応を誤魔化すことはできない。

 未だ開かない扉から、顔だけ横を向く。ディアンを抱きしめていた腕は遠く、声だってささやかだが、その瞳の強さは違えることはなく。


「い、いいえ。起きてます。……大丈夫、です」


 付け足したような言葉に説得力はない。だが、そう言わずにはいられず、強張る指先は握り締めることで誤魔化す。目の動きは鈍く、視線をどこに置けばいいか迷っているのは明らか。


「言っただろ、お前がその気なら俺も動けるって。心配するな」


 そして、全身で不安だと訴えているディアンをエルドが見逃すはずもないし、それで誤魔化されるほど優しくもない。

 呆れたように繰り返されたのは数時間前にも言われた通りのものだ。あれよあれよと司祭たちと話を済ませ、手順を打ち合わせし、なんなら応援に来るという面々にも伝達を済ませ。準備はあっという間に整ってしまった。

 あとは始まる合図を待つだけ。そう、もうこの段階で止めるなんてできないのは分かっているのに。万全を期して、この強引すぎる作戦を決行しようとしているのに。


「教会だってそこまで馬鹿じゃない。多少なりとも利点があるから乗ったし、お前の目的が達成されるのはそのついで。多少形が変わったとしても最後にはこうなっただろうし、俺は女王の命に従っているだけだ」


 その言葉はどこまでが本当だろう。全てを字面のまま受け止めるのは難しく、しかし否定しきることもできず。

 ディアンが提案せずとも、エルドがディアンと共にいる限りいつか被害には遭った。そうして指名書は引き下げられ、王国は責任を問われる。遅かれ早かれそうなった。

 だが、こんな無理矢理引き起こすことだって……いや、結局このあとこじれてしまうぐらいなら、いっそここで終わらせた方が教会としてはいいのか?

 でもそれは、


「……ディアン」


 自分だけに聞こえるよう囁かれた名は、すぐ近くから。顔を上げるよりも先に頭に触れる感触に、跳ねたのはほんの一瞬だけ。

 何度も軽く叩かれるそれは、撫でるというには少し荒く。叱咤というには、柔らかく。


「大丈夫だから。……な?」


 だから心配するなと。不安になるなと。そう囁く男の顔を見るより先に鋭い光に目を細め、手を伸ばす。

 扉の隙間から差し込む朝日は容赦なくディアンの網膜を焼き、たまらず仰け反った頭から落ちた男の手は持ち主の元へ戻った。

 ……合図が、来た。


「さてと、それじゃ行くとするか」


 腕、肩、それから首も回して息を一つ。扉にかけた手にためらいはなく、表情は清々しいまである。

 後ろで待機する司祭たちとの差はあまりに激しく、もはや戸惑えばいいのか呆れればいいのか。


「終わったらいい加減飯にするか。……ああ、これが本当の朝飯前ってやつだな」

「……そう言えるのはあなただけですよ」


 本気なのか冗談なのかわからないそれに結局笑い、息を吐き。フードを深く被り直す指に先ほどの震えはなく。

 視線の交差は一瞬。足は下がってエルドの後ろへ。そうして、広がっていく光を布越しに睨む瞳に揺らぎはなかった。

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