88.亀裂の足音
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聞こえた声は、今までの誰の、どの声よりもか細く小さなものだった。
誰かが話していれば絶対に聞こえなかっただろう懇願は壁際から。支えられ、俯き、それでも訴えた……あの老婆の口から。
お袋、と。支えるクライムが呼びかける。それは口を割ったことにか、静止しようとしたのか。その答えが得られることはなく、重い目蓋から覗く瞳はエルドへ注がれる。
「女将さん……」
「その人は、私を……いいえ、私たちの命を二度も助けてくださった恩人なの。どうか、争わないでちょうだい」
「ですが、それは……」
彼も、ここで長らく依頼をこなしていたメンバーの一人。そして、この町にいるギルドのほとんどは、あの店で食事を取っているのだろう。
女将と呼んだことから、以前から交流があったことを窺い知れる。だからこそ、エルドと彼らがこうなることを望んでいないのは彼女も同じ。
「あなたたちが、いつもおいしいと言ってくれているシチューはね? 最初は、この方の御礼のために作ったのが始まりなのよ」
懐かしそうに細める瞳も、思い出して微笑む顔も、伏せたままのディアンには見えない。でも、その姿は目蓋の裏でも容易に浮かび上がる。
「助けてもらったあの時、私たちはこの方になんの御礼もできなかった。でも、ここで暮らしていればいつか会えるはずだとお店まで建てちゃって。最初はお客さんなんてほとんどいなかったのに、今ではギルド以外の人もここに来てくれるようになったわ」
彼女の脳裏には当時の記憶が蘇っているのだろう。後悔も苦労も、全てはその言葉の中に詰め込まれている。その全てを伝えることはできないし、理解しきることもできない。
それでも、確かに感じるものはあるのだ。
「皆がいるから、息子が山を下りた後も少しも寂しくなかったわ。それもあのお店があったから。この御方があの時助けてくれなかったら、今の私たちはここにはいない」
「女将さん……」
「それに、あの人たちから私たちを助けてくれたのは教会の皆さんでしょう? 調理こそ私と主人でしているけれど、材料を用意してくださったのも、治療をしてくださったのも、家にいるのは危ないと招いてくださったのだって。手を出してくださったのは、司祭様とシスターさんたちだわ」
どうかしら、と。尋ねる声に否定はない。そう、ギルドがどうであれ、実際にこの町が最悪を迎えなかったのは教会の尽力が大きい。
実際に解決に向けて動いているのは彼らを纏める上ではなく、教会だ。ギルドも国も、この数ヶ月なにもしていない。
行動したのは教会だけ。助けたのは、彼らだけ。
「私には料理をすることしかできないし、難しいこともわからないわ。どっちが本当のことで、どっちが嘘かなんて……でも、少しでも私の料理をおいしいと思っていたなら、このおばあちゃんに免じて争うのはやめてちょうだい」
そのあたたかな料理は、彼がいなければ存在しなかったのだと。エルドへの恩が、今日まであの店を作り上げていたのだと。
情で訴えるには事態は深刻で、こんな訴えなんて簡単にはね除けられてしまうだろう。
「……そうだ」
それでも、聞こえる声は。ザワつく周囲の言葉は、彼女を肯定するもの。
「実際に俺たちを助けてくれたのは教会じゃないか」
「そうだ。ギルドは黙認するだけで、なにもしてくれない」
積もり募った不満。今までも何度も吐き出していただろうそれは、途端に広がりざわめきになる。
無関係の者が見ていたら、手のひらの返しように都合がいいと怒っただろうか。
だが、今この場においてその声は聞こえず。波は膨れ、押し寄せ、不満も怒りも押し流そうとせんばかり。
「なにが英雄だ! 結局俺らみたいなのは助けてくれないんじゃないか!」
不意に、そのうちの一つがディアンに殴りかかる。
予想もしなかった発言に息を呑み、それから考えようとして、続けさまに振ってくる言葉に顔を埋めたのは無意識か。
「王都だけ守ってればいいと思ってるのか!?」
「実際にヴァンが俺たちになにをしたっていうんだ。結局他の連中と変わらないじゃないか!」
「自分の保身の為に、こんな子どもに罪をかぶせるなんて……!」
波が掻き混ぜられていく。妄想が膨れ、こじれ、まるで事実のように広がっていく。その中に事実が紛れているからこそ咄嗟に訂正できず、違うと否定する声は音にならず。
そう、違う、違う。英雄は、父はそんなつもりは。
だって、それはエルドの嘘だ。ねつ造ではあっても不正ではない。国が隠蔽したいことなど、だから、父は関係ない。関係ない、はずで、
息が白い毛皮を湿らせ、肌がじわり汗ばむ。それがおさまったのは、乾いた音が高らかに響いたから。
「――どちらを信じるかはともかく、こちらの見解は以上だ」
手を叩いたと理解したのは数秒後のこと。そうして足音が近づき、それが彼のものでないのに身が強張ったのは一瞬だけ。
「……軽率な真似をして、すまなかった」
小さな謝罪はディアンに向けてか、それとも彼を庇う位置に立つエルドに対してだったのか。
どちらであれ青年は顔を上げられず、男は目を細めるだけ。
「疲れて気が立ってんのはお互い様だ。そして、謝る相手は俺じゃないし、今でもない」
その言葉が許しであると理解した男が遠ざかり、それから……やっと、落ち着く音がディアンのそばで止まる。
そっと頭を撫でられ、力を振り絞って見やった瞳はやはり柔らかく、温かく。
「寝ていてよかったんだぞ」
疲れているだろうにと、そう苦笑する顔までいつもと同じ。それにひどく安心して、吐いた息はゼニスの身体に沈むと思わせるほどに深く。
「……ごじょう、だんを」
あんなの聞かせられて眠れるはずがないと笑った口も力なく、本当に笑みの形になったかも不明。
だが、エルドの唇が少し高くなったのを見るに大丈夫だったのだろうと。再び伏せようとした瞳は、差し込まれた腕の暖かさで引き留められた。
負担がかからないよう横に抱かれた身体は、本当に宙に浮いているかのよう。しがみつく力も焦りもなく、与えられる温もりはゼニスからエルドへと移る。
「奥で休む」
「……かしこまりました」
先を行くゼニスの爪先が床に当たる音。自分を運ぶエルドの靴の音。
そして……後ろからついてきていたシスターが部屋の前で止まる音は、扉が閉まることで掻き消された。
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