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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
第三章 一週間

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87.エルドの任務

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 あまりにも場違いな声に、誰が振り向かずにいられただろうか。

 重い顔を上げた先に待ち望んでいた姿を見つけ、出た息は安堵か、それとも恐怖か。

 いつも通りの足取り。いつも通りの表情。ただ、その顔はディアンを見つめたまま。逸れぬまま。

 薄紫に滲む色はなく。男たちを通り過ぎ、シスターの横も抜け。屈み、ディアンに伸ばされた手だって変わりなく。


「エル、ド、」

「……悪い、待たせた」


 なにもないと、そう思っていた瞳がくしゃりと歪む。後悔と、自責と、僅かな怒りに濁っていく様を見たくなくて、必死に振ったはずの首は鈍いまま。

 違う。自分が、自分が隠していれば。ちゃんと自分の身を守れていれば。こうなるよりも先に、行動していたなら、


「すみ、ませ……また、ぼくは……っ……」

「……わかっている」


 頭を撫でられ、それからフードが被せ直される。薄暗くなった視界の中、自分を見つめるエルドの瞳だけは色あせず。


「大丈夫だ、少し横になってりゃすぐよくなる。……ゼニス」


 苦笑は消え、短く呼ばれた彼がやっとディアンの元へ来る。晒していた牙はなく、猛々しい姿の面影はない。

 床とディアンの間に滑り込んだのは、枕代わりのつもりだろうか。伝わる温もりに抗えず、預けた身体は柔らかな毛に覆われたことでようやく息ができるようになった。

 違う。それはゼニスのおかげもある。だけど、彼が……エルドがディアンのそばにいるからこそ、強張っていた四肢から力が抜けていくのだ。

 眠れる状態ではないのに、まだ大丈夫とは言えないはずなのに。

 でも、エルドがそう言ったから。大丈夫だと笑ったから……だから、安心しても、いいんだ。

 ぐるぐると、渦巻いていたなにかが落ち着いていく。それは、自分に触れていたエルドの手が離れても変わることなく。


「……さて」


 もはや視線を気にする必要はないと。立ち上がり、ディアンから離れ……そして、彼に詰め寄った男たちを見据える瞳が息を奪う。

 直接心臓を掴まれたかのような衝動に胸を押さえることもままならず、瞳を逸らすなどなおのこと。


「成り行きとはいえ治療を施し、食料も住居も提供し、上層部にもかけあい――その礼がこれか?」


 溜め息交じりの声。面倒くさそうな仕草。だが、それは全て己の感情を誤魔化すためだと理解できてしまう。

 瞳だけで人を殺せたなら、もうその男たちの魂は精霊の元に戻されていただろう。


「っ……どのような事情で彼を連れているかは知らないが、彼は、」

「最重要者に認定されている。正しくは、されたばかりか」


 懐を探り、取り出したのは紐に繋がれた石。

 教会で所有しているものより小さく、色も悪い。だが、受信だけならばこれだけでも十分機能する。


「なぜそれを……」

「指名手配については教会にも協力要請がある。自分で言ったばっかだろうが」


 そっと指でなぞれば、繰り返し文字が浮かび上がる。連絡事項よりも真っ先に羅列されるのは、特別な一文と人相書き。

 間違いなくそれはディアンであり、髪や目だけでなく他の特徴まで子細に綴られている。等級も特別も通り越し、重要の枠に入れられたのだから当然か。

 だが、それは本当にそれだけの犯罪者であればの話。


「この者の情報、または生きたまま捕らえた者に報奨金、か……。で? お前らはこれをなんの疑いもなく信じたと」


 紐が回れば石も回る。クルリと宙を描き、手の内に収まった文字はもう見えない。見る必要もない。


「お、王都からの通達だぞ!? 信じるもなにも……!」

「最重要者での手配なんて、それこそ大量殺人か国家反逆でもなけりゃ指名されるわけないだろうが。で? それのどこに、こいつの罪状が記載されている?」


 対面しているのとは違う男が喚き、そうしてエルドの言葉で何人かが確認し直す。

 流し目で見る特徴、かけられている金額。だが、そこに述べられるべき一文はない。


「書き忘れた可能性だってあるだろう」

「一番大切なところだ、忘れるなんてあり得んな。そもそも書けなかったの間違いだ。こいつに問えるべき罪は一つもない」


 顔は埋まったまま、視線を向けることもできず。耳に入る言葉に反応することもままならない。

 その声は、信頼ではなく真実を知る響きだ。ディアンがなにもしていないと確信しているからこそ、断言する声。

 それは、きっと憶測からではなく。ディアンのことを、知っているからこそ、で、


「それこそ、なにもしていないのに手配されるはずがないだろう!」

「自分たちの不正を握っている相手が逃げ出したなら手配ぐらいするだろ。まぁ、ここまでとは思わなかったけどな」


 だが、答えはディアンも予想しないもの。

 一体なにに対してなのか。顔は歪み、されど周囲には見えず。故に、その動揺が悟られることもなく。


「不正だと……?」

「……お前ら、本当に中央ギルドがこの町の状況に気付いていないと思っていたのか?」


 不思議そうな、呆れるような。織り交ぜられた声にいつもの面影が重なる。

 実際に彼らを見渡す瞳がどれだけ冷たくとも、ディアンにその光景が映ることはない。


「聖国の指定地であり、定期的に入れ替えも行われている。先に山を下りた奴が他の町で報告も上げているだろう。それなのに三ヶ月経っても現状が変わらないのは握り潰されているだけだと、本気で思っていたのか? 教会で対応できないほどに悪化する原因が、立地だけにあったと?」


 誰も答えない。答えられない。当然だ、誰もが疑問に思っていたことだ。

 なぜ援助はこないのか。なぜ国の調査が入らないのか。

 怒りは湧いても答えはなく、悪化する現状と疲労で麻痺した思考はそうだと決めつけた。

 こんなにも声をあげていても対処されないのはそうしかないと、それ以外の可能性など考える気力はとっくに尽きていたから。


「自分の地位が脅かされている瀬戸際に、こんな辺境を気にかける余裕なんてないだろ。それも、国が滅ぶ一大事にな」

「っ待て! なんの話をしているんだ……?」


 浮かんだ疑問は別の口から紡がれる。自分の地位? 国が滅ぶ?

 わからない。嘘にしたって規模が大きすぎる。たとえ話にしたって……あまりにも。

 溜め息が響き、肩をすくめる仕草が脳裏に浮かぶ。実際はなにも動かず、誰も動けず。

 このまま続くと思っていた静寂を打ち破ったのは、やはりエルドの声。


「……現在、ノースディア王国には重大な協定違反の容疑がかかっている」

「エルド様っ……!」


 動揺する声に紛れる静止の声。続く言葉がないのは、呼ばれた男自身が止めたからだ。


「本来なら機密事項だが、こうなっては致し方ないだろう。遅かれ早かれ露見したことだ、ここで零したって大差ない」

「ですが、それは……!」

「俺の本来の役割は、人間と精霊の均衡を保つこと。女王陛下からは『中立者』としての立場を賜っている」


 聞く耳はないと、張り上げる声がかつての記憶と重なる。

 解読できなかった古代語。僅かに読めた数文字。知りたかった、その響き。

 口の中で繰り返せば、音にならぬ声を拾ったゼニスが顔を寄せる。それはディアンの耳を塞ぐようにも見えて、実際はこめかみに鼻を押しつけただけ。


「この国の不正。その証拠を女王陛下の元へ献上すること。それがあの御方から直々に賜った任務であり、全ての教会に告知された最重要機密事項だ」


 戸惑う気配は状況についていけない周囲だけではない。知らせてはならない相手が自ら暴露している現状に、司祭もシスターも絶句している。

 同じ立場ならディアンもそうなっていた。そうでなくても声が出ないのは、まだ不快感に支配されているだけではない。


「本来なら証拠を確保した時点で門の使用も許可されていたが、細工を施されたせいでこうして徒歩で向かう羽目になっている」

「細工……?」

「悪いが、一応機密事項だ。どんな証拠で、どんな細工が施されていたかまでは言えない。……ああ、それとは関係ないが、魔術疾患を患った者が門をくぐれば最悪死に至る」


 ゼニスに顔を埋めていたって、集まっていく視線はディアンを意識させる。

 なにを言われているか、聞こえているのにわからない。理解できない。頭が、回らない。

 彼、は。エルドはなにを、言っている?


「運がよければ体調不良で済むが、余計なリスクは負いたくなかったからな」

「彼が……? い、いや、そんな話信じられるわけが……」

「信じる信じないはお前たちの勝手だが、どのような事情であれ、俺は任務を遂行する義務がある。今の話を聞いてなお危害をくわえるというのなら、我々はそれを敵意とみなす」


 これが最後の忠告だと、見据える薄紫にたじろぐ気配。

 強行するほど彼らも愚かではないだろう。されたとしても、エルドなら傷つくことはない。

 でも、それは避けるべき事象のはず。望まれる展開では、決してない。

 それでは……このままでは、ダガンとしていることと同じ、


「――やめておくれ」


閲覧ありがとうございます。

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