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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
第三章 一週間

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85.不穏

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 正確には一瞬……だが、確かにザワついた感覚にだ。視線が向けられたのはその後のこと。

 動揺。驚愕。疑い。それぞれの瞳に込められた感情は様々。だが、どれも良いといえるものではない。

 ここを離れていたのはほんの十数分。まだエルドは戻らず、残っているシスターにも変化はない。もしダガンたちが教会に来て騒いでいたら気付く距離でもあった。

 目を離す者、何度も確かめる者、凝視する者。違いはあっても、共通するのはその瞳が向けた先。

 老婆でも、ゼニスでもない。それは間違いなくディアン……いや、ディアンの顔に注がれたもの。

 変な物がついているのか? だが、フードを被っているのだからそもそも見えるはずがと、伸ばした指に触れたのは晒されたままの髪で。

 ――フードを取ったままだったと、慌てて被っても既に遅く。

 エルドから取らないように言われていた焦りと、顔を見られた不安と。両方が渦巻く中、早足で向かってきたのはクライムだ。

 その姿を見る仲間たちもまた、その表情は明るいものではない。


「……お袋、こっち」


 支えていた身体は息子の元へ。その動きは、元の場所に戻すと言うよりはディアンから遠ざけようとしているものだ。

 ……警戒、されている。

 視線も、態度も、反応も。その疑念を確信させるものでしかない。問題は、なぜ今その感情を向けられているかだ。

 これが入ってきたすぐなら分かる。突然入ってきた部外者。自分が怪我でろくに動けず、信用できる要素だってなかったあの時なら。

 でも、今は全ての治療を終え、間接的とはいえ事情も説明した。身分も……エルドだけとはいえ明らかになっている。

 離れていたこの十数分の間。ディアンが別室に行っている間になにかがあったのは間違いない。でも、それは一体なんなのか。

 答えは、こちらに足を向けたシスターが与えてくれるだろう。焦り、ディアンになにかを伝えようとしている。


「すまない、少しいいだろうか」


 呆然と立ち尽くしているよりは安全だと、自分から近づこうとして……それよりも先に、声がかかる。

 フードの端を更に下へ。それから振り向いた先に、数人の男の姿。

 見慣れない顔だが、それはここにいるほとんどに言えること。薄汚れた服に付着した赤黒い染みに、治療を受けていた一人であると断定する。

 傷はどれほどだったのか。今はもうその名残はなく……警戒する瞳がディアンを貫くのみ。


「先ほどは助かった。礼を言う」


 口調だけなら、ただ誠実な男性だ。わざわざ礼を言いに来たと、そう思い込むにはあまりにも難しい。

 後ろに控えている一人の手が腰に置かれているのを視認し、無意識に跳ねた指が触れた先にはなにもない。

 感じられないことに僅かに安心したのは、そこに武器がなかったからだ。

 まだ携帯を許されていないのだから当たり前。この状況で剣に触れる仕草に気付かれていたら、それこそ敵意を向けられていただろう。そうしたら、発作は確実に起きてしまう。

 なぜ警戒されているのか。なぜ、敵意を向けられそうになっているのか。

 全ての原因はわからず、この場合の最善がなにかもわからない。

 それでも……エルドのそばにいない今、それだけは避けなければならない。


「……礼なら、エルド様へ。私はなにもしていません」


 声は強張らぬよう。されど、無意識に出た一人称は緊張の表れか。長年染みついた癖がそう簡単に抜けるはずもない。

 足になにかが触れた、と思えば巻き付くような感触。するりと抜けるのは、ディアンの足元に寄り添うゼニスだ。

 後ろから前に。無言で庇う姿は、いつかの森の姿を彷彿とさせる。あの時と同じ夜。同じく、追い詰められた状況。

 ……ただし、相手は狼ではなく。その視線に怯む者でもなく。


「俺は言葉遊びの類が得意ではない。率直に言うが、そのフードを外してくれないか」


 揺らぐ瞳は、男には見えていないだろう。だが、動揺したのは唇の動きだけでも十分伝わってしまう。

 一瞬呼吸が止まり、親指が人差し指を掻く。さりげなく隠しても、指の動きは止まらない。


「……なぜ?」

「確かめたいことがある」


 それは疑念ではなく、確信を更に裏付けたいものだ。答えは既に出ている。それを、ディアンに突きつけたいだけ。

 嫌な予感はジリジリと身を焦がし、視線を逸らしそうになる。だが、それこそ答えを与えているようなものだ。

 なぜ顔を知りたがっているか、それがディアンの知らぬ十数分とどう関係しているのか。何一つわからなくても、するべきことは変わらない。

 エルドがいない今。ディアンを守る彼がこの場にいない今、素直に従ってはいけない。


「……エルド様から取るなと言われています。それに、私の素顔は先ほど見た通り」

「一度晒したのなら隠す必要はないだろう。……それとも、隠すだけの事情があるのか」


 肌を刺す敵意。もし武器を構えていれば、この時点で地面に這いつくばっていた。呼吸もできず、助けも求められず、そうして無様な姿を晒していただろう。

 しかし、そうなっていないからといって、今が安全なわけではない。エルドはまだあの扉の先、声は届かず。


「……見せる理由も、ありません」


 今度こそシスターの元にと、ゼニスに動くことを知らせようとし――その寸前、一人の腕が動いたことに目を見開く。

 その手に武器はなく。だが、反射的に障壁を張ろうと突き出した腕が、強いなにかに阻まれた。

 掻き混ぜられるような不快感。呻き声も出ぬまま風に顔を突かれ、痛みはなくとも身体のバランスは呆気なく崩れてしまう。

 尻餅をつき、立ち上がろうとして吐き気に襲われ、足は立てぬまま。障壁は張れず、攻撃も防げず。呆気なく晒すことになった顔に、広がるのは動揺と周囲のざわめき。

 やっぱり。それじゃあ。でも。

 聞こえる言葉の端からは、この状況に陥った原因は突き止められない。されど、その瞳からもう疑念が消えているのは間違いなく。

 発作、ではないのに、指に力が入らない。呼吸こそ普通なのに頭はうまく回らない。

 もう一度隔てようとした壁は形にならず、不快感は渦巻き、目眩に似たなにかに襲われる。

 なぜ、どうして。なにか魔法をかけられたのか。否、風で突かれただけ、それ以前にはなにもされていない、はずなのに。

 揺らぐ紫に白が飛び込む。座り込んだまま動けぬディアンを守るよう、姿勢を低くした獣は唸り、睨み、牙を剥く。


「っ、ゼニ、ス、……!」


 声を出すのでさえ気持ち悪く、思わず口元を押さえても楽にはなれない。明らかにおかしい。この状況も、自分の身体に起こっていることも、全部。

 だが、相手は人間だ。狼とも魔物とも違う。教会の関係者でもない自分が攻撃された程度で襲い返せば、非はゼニスにあると判断されてしまう。

 彼の非は、すなわちエルドの非でもある。止めなければならないのに声は出ず、守らなければならない自分自身はろくに動けないまま。

 この場から逃げることだって、到底。


「ま、待って!」


 間に入ってきた姿を見上げることはできずとも、その声で誰かを特定することはできる。ミルルだ。必死に男たちに向き合い、押し止めようとしてくれているのか。

 その会話の内容もろくに頭に流し込めず。必死に構成しようとすればするほどに、魔法は手の中から零れていく。

 まるで水を掴むようだ。こんなこと、今までで一度もなかったのに。


「この人たちは教会の人だし、あなたたちを助けてくれたでしょう!? だったら……!」

「君も通達は見たはずだ。彼の風貌は届いた指名書と同一と判断できる」

「でもっ、目の色が違うじゃない! よく似た誰かの可能性だって……!」

「目の色など、魔法でどうにでもなるだろう。それこそ、あの男は相当の使い手だ、偽装魔法ぐらい簡単にかけられる」


 何拍も遅れて、言葉が入ってくる。通達。風貌。指名書。

 心臓が嫌な音を立てている。背筋を伝う汗は冷たく、されど身体が震えるのは寒さからではない。

 なんとか見渡した先に、自分たちの成り行きを見守る者たち。その中に、手元のなにかと確認する姿を見つける。

 うっすらとした記憶の中、思い出すのは伝達石の存在。特定以上のランクになれば、ギルドでも配られるそれ。

 緊急の依頼……それこそ、要人の捜索や指名手配以外で使われることのない、受信専用の、


「どんな事情であれ、発令された限り身柄を確保する必要がある」


 彼女が押しのけられ、唸り声が一層ひどくなる。

 ゼニスを止めなければならない。だけど、捕まるわけにもいかない。

 エルドが出てくればこの場は収まる。収まるはずだ。だけど、


「おやめなさい」

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