84.お裾分け
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瞬き、首をかしげげ。聞き間違いかと反芻し、そうではないと否定する。
「なにをでしょうか……?」
彼女の手にはなにもないし、ディアンも同じく。この流れでお金というのはあり得ないが、他になにがあるだろうか。
物によっては断らなければならないと、悩むディアンに老婆は優しく微笑む。
「もう下では、この習慣はないのかしら? 私を加護してくださっている精霊様のお力を、あなたに分けてあげたいの」
紫は瞬き、動揺を表すように睫毛が揺れる。
精霊の力を、わける。そんなこと聞いたことも見たこともない。
「そんなことが……できるんですか……?」
思わず問いかけ、それからゼニスを見たのは無意識だ。聡明な獣はなにも語らず、否定もせず。ただ、その様子を見守っているだけ。
「ああ、そんな大袈裟なものじゃないのよ。これはおまじないのようなものね」
「おまじない……」
「宣言や指切りと似たようなものよ。大切な人が無事でいられるようにと、精霊様にお願いするだけ」
信仰深く思える彼女も、宣言は口約束と同じ括りのようだ。
ディアンでは、あの光景を見た後で同軸に添えることはできないが……つまり、そう深く考えなくてもいい、ということだろう。
「あの子が小さい頃もよくこうしていたわ。今はもう恥ずかしがってさせてくれないけれど……」
「……気持ちは、伝わっていると思います。あの、僕はどうすれば?」
出会ったばかりだが、もう子どもではないと怒る姿は簡単に思い浮かぶ。その表情が怒りではなく恥ずかしさで赤くなっていることも。
昔は誰もがそうして自分の子どもを心配していたのだろうか。それとも、この地域にだけに伝わる習慣なのか。
あとでエルドに聞いてみようと疑問を切り捨て、伸ばされた手に邪魔になるかとフードを外す。
露わになったディアンの頬に添えられる手は皺が寄って、分厚くて……どこか安心する、優しい温度。
自然と目蓋が下がる。伝わってくるのは体温とは違う暖かさ。目の前は薄暗いのに、柔らかな光が浮かぶ錯覚。
「あなたが、無事にこの山を下りられますように……」
囁かれる声が身体の奥に染みこむようだ。心配されている。本当に、心の底から無事を祈られている。
なんとも不思議な感覚だ。……ただのおまじないとは、思えないほどに。
ぬるま湯のような暖かさの中、ぐるりと渦巻く違和感に眉を寄せる。開いた目の前は僅かに揺れ、まるで風呂でのぼせた時のよう。
最初は小指の先ほどのそれが、だんだんと大きくなっていく。我慢できないほどではないが、無視するには難しいほどに。
「……ああ、やっぱり」
どうしようかと悩みはじめるのと、彼女の手が離れたのはほぼ同時。解放されても視界は回り、心地良さと困惑とで頭の中も混ぜられたまま。
「あ、の……?」
「ごめんなさい、気持ち悪かったでしょう?」
「いえ、そんなこと、は……」
口調はたどたどしい。気持ち悪いどころか、むしろ温かくて心地良すぎたぐらいだ。エルドのそばにいる時とはまた違う安心感。
なのに、込み上げるような吐き気は確かにディアンを蝕んでいる。ただのおまじない。ただのお祈り。それだけのはずなのに。
「無理しなくていいの。それは普通の反応だから」
「……? どう、いう……?」
「精霊様にも相性があって、反りが合わないと気持ち悪くなってしまうの」
吐き気はないかと、背中をさする手は優しいだけだ。気持ち悪くないし、気遣っているのもわかる。
わからないのは、教えてくれたその理由。
相性が、悪い? でも、それは……そんなはずは、決して。
「ごめんなさいね、そうとは知らずに……」
「……ち、がいます」
否定が震えるのは吐き気か、それ以外か。紫は揺らぎ、光はぶれる。
違う。違うのだ。そうであるはずがない。そんなこと、あるはずが。
「僕、は……加護を、授かっていません。……加護無し、なんで、す」
伝え、よぎるのは驚愕の声だ。あり得ないと、なぜ授からなかったのかと。囲まれ、見下ろされ、なじられ。そうして、嗤う声が重なっていく。
加護無しのくせにと、ディアンを蔑む笑いが。落ちこぼれだと囁くあの声たちが。
もう出会うこともないのに。もう、大半の者の顔だってろくに思い出せないのに。
あの世界は狭く、しかしそれが全てだった。たとえ視野が広がったとしても、返ってくる反応は真実。世間の反応と変わりはない。
受け入れてくれる人もいるだろう。だが、そうでない者の方が多いのは……それこそ、誰よりも思い知っていて。
「だ、から……相性なんて……」
口に出したことを後悔しても、出た言葉は戻らない。
恐れていたとおり、背中から温もりが遠ざかる。仕方のないことだと諦め、目を伏せる彼の頭に……くしゃりと、音が一つ。
「――いいえ」
否定は想像通り。だけど、その声は優しく、温かいまま。
導かれるように上げた視線の先、細めた瞳の色は違うのに、まるでエルドと同じぐらいに柔らかい。
「あなたはもう、立派な加護を授かっているわ。まだそれに気付いていないだけ」
何度も何度も、輪郭を沿うように撫でられる頭部。まるで本当にそうだと思い込みそうになる声。きゅ、と。喉の奥が狭まるのは決して気持ち悪さからではなく。
「そ、んな……ことは……」
洗礼も受けていない。教会で正式に受理されたわけでもない。
エルドとおこなったのはただの気休め。それこそ、お裾分けや口約束と変わらない程度の……だからそれは、それはあり得ない、はずで。
「大丈夫よ。今はわからなくっても、いつかわかる日が来るわ」
それでも、優しい声に否定しきることはできず。受け入れることも、難しく。
気持ち悪くなったのは、お裾分けでも加護を与えたくなかったからだと。そう反論することだって、できないまま。
「……僕、は……」
「そろそろ冷えてきたわねぇ……あっちのお部屋に戻りましょうか」
答えられないディアンに差しだされる手は、やはり温かく。気を使うはずが、逆に使われたのに苦笑する。
いつか分かる。……その通りだ。
もしかしたら加護を与えられているかもしれない。もしかしたら、二度目の洗礼で今度こそ加護を授かるかもしれない。
……結局は、加護ももらえぬまま一生を過ごすことになるのかも、しれない。
確かめていない今、可能性は無限に広がっている。
だが、どれだけ逃げようと、避けようとしても、その真実はいつかディアンの元に訪れるであろう。
遠ざかろうとしても、目を背けても容赦なく。この目蓋をこじ開け、心臓を貫き、トドメを刺しにくる。
今はまだその気配がなくとも、そうなることをディアンは知っている。……知っているのだ。
「……そう、ですね」
だとしても、今考えることではないと立ち上がった手が老婆を支える。
来た時と同じように入り口はゼニスによって開かれ、優秀さに驚くことはもうなく。
そうして敷居を超え、扉を閉めようとして――無数の鋭い光に足を止めた。
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