82.ご馳走と二つ名
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老人たちの元に戻れば、男性の方は既に身体を横たえ眠りについていた。
無理もない。あれだけの出血だったのだ。治療を施したとはいえ、身体は相当堪えている。
騒がしくしてしまったが、彼の眠りを妨げなかったことに安心し、それから隣に座る彼女へと目を向ける。
「……具合はどうですか?」
彼を起こさぬように問いかける声は小さく。眠っていれば聞こえない声量も、彼女にだけは届いた様子。
「えぇ、えぇ、おかげさまで。……私の息子が失礼を……」
頭を下げようとするのを慌てて止め、しゃがみ視線を合わせる。首を振り、手を握り、微笑むのは少しでも安心させるため。
「いいえ、エルド様は彼を責めませんでした。だから、あなたも彼を責めないでください。それより、寒くはないですか? 毛布をもう一枚――」
「……ありがとう、優しい子。あなたは、あの御方と旅をされているのね」
取りに行こうと立ちかけた足は、しゃがんだまま。微笑み返され、離すはずだった手は繋がったまま。
伝わる温度はエルドのものとも、サリアナのものとも違う。初めて会ったはずなのに、なぜだかとても懐かしいような、温かいような。
もしディアンに祖母がいたなら、彼女のように接してくれたのだろうか。
……それとも、父と同じように厳しく躾けてくれたのだろうか。
「……色々と、助けていただいてます」
「あの御方にとって、大切な人なのね」
「ちがっ……!」
柔らかな声は、まるで自分のことのように嬉しそうだ。それだけに首を振る力は強まり、否定する言葉は荒ぶりかける。
「ぼ……僕はただの、同伴者、です……」
そう、ただの同伴者。ただ、一緒にいるだけ。行きずりで助け、なし崩しに連れているだけの……。
大切だと言われるほどの関係ではないし、この先もそうだろう。
聖国に着けば呆気なく別れてしまう。ディアンが教会に入ったとしても、もう二度と会うことのない存在。
会いたいと思っても会えないし、彼も会おうとはしない。今だからこそ、こうして一緒に過ごしているだけで……。
「この町のことは教えてもらったかしら?」
なぜこんなに否定をしたいのか。その理由も、そもそも疑問も浮かぶことなく。焦るディアンに問う口調はやはり優しいもの。
「あ……は、はい。昔、エヴァドマと呼ばれていたことは……それと、山羊の料理がおいしいことも」
「まぁ、覚えてくださってたのね。嬉しいわぁ……」
合わせられた両手は、いくつもの深い皺が刻まれている。その手でずっと、その料理を作り続けたのだろう。ご主人と一緒に、二人で。
「せっかく来てくださったのに、ご馳走できないのが残念だわ。今はここで配給のお手伝いをしているけど、お店ではいつもシチューを作っていたのよ」
「あぁ、それは温まりそうですね」
標高があるため気温は低く、今だって毛布がなければ肌寒く感じる程度。ようやく辿り着いた先で温かい料理をいただけるのはご褒美に違いない。
それが、エルドが絶品だと断言する味ならなおのこと。
「もうずっと下には戻っていなくて、他のシチューを食べていないからわからないけれど、ウチのは赤ワインで煮込んで作るのよ」
「赤ワインで……?」
「えぇ。お肉をキノコと一緒にじっくり煮込んで、それをパンに付けて食べるの。一緒に山羊のミルクで作ったチーズと合わせるのがエヴドマ流なのよ」
そのチーズも、ポテトと一緒に混ぜて提供していると聞けば唾液がじわりと滲む。
そういえば夕飯を食べ損ねていたと気付いても腹に入れられるものはなにもなく、そんな極限でこの話題を続けるのは少し辛いものだが、知識欲には勝てない。
「山羊の肉って固くないんですか?」
「そう思うでしょう? シチューに使う部位は柔らかいけど噛み応えがあって美味しいのよ。……本当に、ご馳走できればよかったのだけど」
俯く表情に浮かぶのは、怒りでも恨みでもなく疲れきった悲しみだ。
……辛い思いをしたのは、ディアンだけではない。
「……すみません」
「あなたが謝ることはないのよ」
「ですが、」
「そうそう。この町が巡礼の地というのは教えてもらったかしら?」
わざと話題を変えた優しさに甘えようとして、耳慣れぬ言葉に瞬きを一つ。
「巡礼……?」
「あら、楽しみを奪ってしまったかしら……でも、こんな状況じゃ観光なんてできないわよねぇ」
笑い、それからゆっくりと立ち上がろうとする彼女を慌てて支える。落ちてしまった毛布を肩にかければ、示されたのはエルドが消えたのとは違う扉。
「よかったら、この町について聞いてもらえないかしら?」
「いえ、あの……気持ちは嬉しいんですが、お身体に障ります。どうか休んで……」
本当に気持ちは嬉しい。現地の人から、直接その場所についての歴史を教えてもらえるのは貴重な経験だ。通常であれば、よろこんでお付き合いしただろう。
だが、それ以上に身体が心配で、もう一度座ってもらうよう促してもくすんだ瞳は微笑んだまま。
「あなたが迷惑でなければ、少しこのお婆ちゃんに付き合ってくれないかしら? 最近はこうして昔話をする機会もなかったから」
ずっと座ってばかりでは気が滅入ると、苦笑する顔は気遣いと本心が半分ずつ。確かに、こんな状況では誰も話を聞く余裕はないだろう。
先も言ったが観光どころではなく、町の由来など聞いている暇があればさっさと下りるか無視するか。
こうして興味を持ったディアンは、そんな生活を忘れる息抜きになるのだろう。
「……中に、あなたが休める場所があるなら」
立ちっぱなしにするつもりはないと伝えれば、くしゃくしゃの皺がもっと深くなる。
「ふふ、ありがとうねぇ」
手を持ち、腰を支え。ゼニスに目配せすれば、心得たと言わんばかりに先導して扉を開く姿はとても獣とは思えない。
……本当に、なんでもできる奴だ。
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