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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
第三章 一週間

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75.許すのは一回まで

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 響き渡る悲鳴。それは、投げられたテーブルでも、抜けてしまった床でもなく……目の前で転んだ男のものだった。

 まるで子どものように喚く姿は、とても最強と呼ぶには相応しくない有様。ただ転んだだけとは思えない異様な痛がり具合に、尋常では無いと察する。

 痛い痛いと喚く合間で、おそらくなにをしたのか問いかけたかったのだろう。だが、のたうち回り、痛みに翻弄される叫びでは翻訳も一苦労。

 なにかしたのかと、見上げた顔は涼しいまま。否、目を閉じ溜め息を吐く姿は呆れかえった仕草そのもの。


「宣言したのに守らなかったからだろう。当然だ」

「あんな口約束っ――ぎああああ! 腕が! 腕がもげるぅううう!」


 本当にもげるわけがないが、それだけの痛みに襲われているのだろう。

 だが、それはエルドが魔法をかけているのではない。……精霊が、自ら罰を、与えているのだ。

 宣言を破るなんて前例を見るのも、実際にこうして処罰が下されるのだって初めて見る。

 背筋を這う冷たさは恐れか、それ以外か。わからずともできることは、藻掻く男を見下ろすことのみ。


「精霊の慈悲も三度までというが、過ちは一度で十分だ。……その程度で済んでよかったじゃないか」


「ふざっ、けんな! 精霊の罰なんぞ、そんな話誰があぁああああいてええぇえええ!」


 瞬間、絶叫。本当に懲りない男だ。精霊も相当お怒りとみえる。

 もうろくに発音できぬ男に、もう一度投げかけられるは深い溜め息。


「……これ以上精霊に対して愚かな発言を続けるのであれば、女王陛下の名の下に、貴様を精霊侮辱罪で連行することになるぞ」


 見下ろされた男こそ変わらずとも、今までで一番の動揺が周囲に広がる。

 数秒おき、慌てて寄ってきた男が偽金を渡すなり来た以上の早さで囲いの中へ消えていく。

 それを荷に仕舞う間もふざけるなやら、殺してやるやら、物騒な言葉が聞こえている……はずだが、もう泣き声とかしているので本当にそう発言しているか自信はない。


「精霊からの裁きがあった以上、我々に下す処分はない。だが、次はないぞ」


 その雄叫びに紛れぬ、真のある声で野次馬は頷き、恐れ、青ざめる。

 そんな様子を見ることもなく、肩を抱かれたままくぐった扉の先に、もう赤はなかった。

 藍色の世界。あと十数分と経たずに暗闇に包まれるだろう刹那。冷えた空気が頬を撫で、その温度に身震いする。

 新鮮な空気を堪能する間もなく、足は坂を下り続ける。

 かけられる言葉はなく、向けられる視線はない。与えられるのは、肩を包む手の強さと温もりだけ。

 叫びが遠ざかり、照明も見えなくなり……そして、ようやく解放されたのは、それから何分歩いた後だったか。


「……エルド?」


 立ち止まり、荷物を渡し。なにも言わぬ男を見上げ、返事はなく。

 漁った荷の中から取り出された布がみるみるうちに濡れていく。したたるほどの水が固く絞られたことで地面に染みを作り、あっという間に布巾のできあがり。


「エル――ぶっ!」


 それだけなら気にしなかったが、無言で顔に押しつけられればそうもいかない。

 後頭部を支えられながらの強制的な顔拭きは、親が子どもに施すのと一緒だ。違うのは、ディアンにそうされた記憶がないのと、自分が彼の息子ではないということ。

 額から顎まで。特に頬と顎下を重点的に拭われる。丁寧とも言えず、しかし乱暴とも言えぬ手つきに戸惑う間も止まりそうにない。


「ちょっ……えるっ、エルド……!」

「気持ち悪かっただろう」


 たまらず静止を呼びかけ、手首を掴む。ようやく絡んだ瞳に浮かぶ感情に、一瞬だけ息が止まった。

 言葉が指すのは、今の動作のことではない。数分前……には到底思えぬ一件に対して。


「それは、そう……ですけど……」


 肯定すれば、また布で拭き取られる。思い出せばそれでも不快感は拭えず、震えた背は布巾に熱を奪われたせいではなく。


「……悪い」


 呟くように、それでも誤魔化すことなく。与えられた謝罪は、今までのどのモノとも違う。

 これまでも何度か聞いてきた謝罪。同じ単語。でも、そこに込められた感情の深さがわからないほど、ディアンは鈍くはない。

 後悔と、怒りと、情けなさと。透き通った薄紫に込められたそれらに、自然と浮かんだのは笑み。


「……あなたが悪いわけじゃないでしょう?」


 思い入れのある場所があんな風に荒らされているなんて考えられないし、そこでディアンが下品な洗礼を受けるなんてもっとだ。

 危惧していたからこそ、顔と声を隠すよう忠告してくれたのだとしても。あんな大事になるなんて、それこそ誰が予想できただろうか。

 この町の状況がわからない以上、ディアンを置いて向かうのも悪手だ。既に騒動に巻き込まれた後ならなおのこと。

 それに……、


「あなたは助けてくださったじゃないですか。だから、大丈夫です」

「……先に教会へ置いていけばよかった。そうすれば巻き込まずにすんだ」


 言われてみれば、確かにそうかもしれない。あの男たちだって、教会にはおいそれと手を出さないだろう。

 熊……もとい、ダガンはどうかはともかく、数任せに襲撃しようなんて馬鹿は見受けられなかった。

 安全地帯だと確定しているなら、司祭にディアンを任せればよかったかもしれない。


「その発想が出ないぐらい、早く確かめたかったんでしょう? それに……」


 でも、それは普段であれば思いついたことだ。普段通り、なにも変わらなければ。

 思いつかなかったということは、それだけ焦り、確かめずにはいられなかったということ。

 ディアンがいなければ、確かに面倒に巻き込まずに済んだだろう。逆に言えば、ディアンがいなければもっと身軽に動けたはずだ。

 わざわざ腕相撲に付き合うことなく、人質に取られたディアンを気遣うことだって。

 面倒事になる可能性はエルドも考えていたはずだ。

 それでも連れて行ったのは、置いていこうとは考えなかったのは……単にその方が面倒だったのかもしれないけれど。

 それでも、


「……離れているよりは、今の方がずっといいです」


 添えられている手ごと、あてがわれた布に触れる。そこに心地良い温度はなく、体温に馴染んだ湿り気を広げてはたく。

 もう少し魔術ができれば、すぐに乾かすぐらいできたのにと。

 そう考えている横から取られた布が、あっという間に乾燥していく。……本当に、無駄遣いというか、多才というか。


「……悪い」


 苦笑は柔らかく、瞳は温かく。親しんだ光に、やっと落ち着いた実感が湧く。

 トクトクと心地良い鼓動には気付かぬふりをして、謝罪は肩をすくめて受け流す。


「それで、ご馳走は無いとして……宿は大丈夫でしょうか」


 この様子だとまともに機能していないかもしれない。泊まっても盗まれるか荒らされるか。

 町中で野宿はしたくないし、かといって安全と言えない場所で身体を横たえるのも抵抗がある。身体的には大丈夫だが、精神面が守られないのは地味に辛い。


「いや、そもそもこの町に宿はない。そういう場合は、教会に泊まるのが通例だ」

「……特産品も名物もあるけど、やっぱり観光としては成り立ちませんか」


 来るのが大変すぎるので、当然と言えば当然だ。馬車が通れる道もなく、己の足だけで進まなければならない。

 まともな経営は期待できないのだろう。だとしても、素泊まりならば兼業でありそうなものだが……。


「まぁ、ここに来る大半の狙いは別にあるからな」

「別……?」

「あー……気にしなくていい。ほら、そろそろ行かないとベッドが無くなるぞ」


 軽く流された話題を掘り下げるまでもなく、背を叩かれれば疑問も引っ込めざるおえない。


「もう取られているかもしれませんね」


 数こそ不明だが、先ほど出会った冒険者たちで四つは埋まるだろう。キリのいい数字だし、それ以上は設置していない可能性は十分にある。


「長椅子と地面とどっちがいい? まぁ、天井があるだけマシ――」


 示したはずの同意は、聞こえた遠吠えに掻き消される。

 この付近の魔物と思ったそれは、おそらくゼニスのものだ。

 鳴くなんて珍しい。普段は吠えたりなんてしないし、静かだ。周囲の住民を怯えさせる真似をするとも思えない。

 つまり、エルドになにかを伝える必要があるということ。


「今の、」

「……シアン、悪いが走るぞ。説明は後だ」


 え、と。疑問を漏らす前に取られた手が、勢い良く前に引かれる。慌てて動かした足は、自らの意志では追いつかないほどに。

 縺れてしまいそうになる速度は、なおも加速する。

 異常事態と知り、問いかけは口に出ず。そもそも出せる余力もなく。転ばぬようにするのが精一杯だ。



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