74.最強の男……?
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……まるで、全ての音を拒絶しているかのようだった。
笑いも、はやし立てる声も、なにもかも。あの頭が割れそうな喧噪は嘘だったように、なにもかもが静まりかえっている。
それは、ディアンが目の前の光景から目を逸らそうとしている、その現実逃避の延長だったのか。本当は周りは騒いだままで、ディアンだけがその音を遮断しているのか。
……ぽたり。
耳鳴りがしそうなほどの静寂を破ったのは、些細な一つの音だった。
ぽたり、ぽたり。ぴちゃん。
一定のリズムで刻まれるそれは、机から滴る液体が地面に落ちる音だ。
壊れたなにかの破片、溢れてできたアルコールの水たまり。そこに広がり続ける波紋が、歪みながら天井を映す。
ジョッキだったものが散らばるその上に、一組の腕が倒れていた。一つは丸太のように太く、もう片方はそれに比べれば木の枝のように細く。
されど、上になっていたのは。勝ったのは、木の枝の……エルドの、方で。
なにが起きたのか、正しく理解できた者はどれだけいただろう。いや、凝視していたディアンでさえわかっていない。
一瞬。本当に、一瞬だった。叫んで、音がして……そうしたら、もうこの有様。
くわんくわん、と。耳慣れない音が聞こえる。
それが壊された樽ジョッキの鉄輪がどこかにぶつかり、その場で回転している音だと気付いたのは、誰が先であったのか。
「そいつを離せ」
誰もかれもが固まったまま。唯一、エルドだけが声を発する。
腕を放し、立ち上がり。そうして薄紫が貫いたのは、ディアンを掴んでいる男たち。
力は緩んではいるが、それはエルドを聞き入れたのではなく。ディアンと同じく、目の前の現実を認識できずにいるからで。
「――離せと言っている」
自分自身に向けられたものではない。
そう理解しているのに、淡々と告げられる声の冷たさに息が止まりそうになる。実際に向けられた男たちなど、その比ではないだろう。
握られたままの腕が解放され、嫌に籠もっていた熱が冷まされていく。そのままジリジリと下がる彼らに目もくれず、手を伸ばすはディアン一人に向けて。
手を取られ、肩を抱かれ。漂う慣れ親しんだ匂いに、全身の力が抜けそうになる。エルドに支えられていなければ、きっとこの足は崩れ落ちていただろう。
自覚以上に緊張し、疲れていた四肢に力を振り絞り、持たされた荷物を手に扉へ急ぐ。
「待ちやがれ!」
そんな二人を引き留めたのは、ようやく理解した男の大声。先ほどよりも凄まじい足音は、その体重のせいだけではないだろう。
鼻息荒くエルドに詰め寄り、胸倉を掴もうとするのは障壁で難なく阻まれた。
「っ、てめぇ! イカサマしやがったな!?」
「なにを根拠に?」
「そうでもなきゃありえねえだろ! お前と俺とじゃ差がありすぎるんだよ!」
怒りを直接エルドにぶつけられないからか、代わりに叩きつけられたテーブルが大きくへこむ。それが何度も繰り返されれば、バキバキと異音を立てはじめるのも当然。
「俺は! ダガンだ! ダガン様だ! 最強の男、無敵の! その俺が! こんな男に! 負ける訳がっ! ねぇ!」
最後に部屋の隅へ投げつけられる頃には、もうテーブルとは呼べない代物へと変貌していた。
埃が舞い、更に悲惨になった残骸の山を見てもなお怒りは収まらず。もはやその顔は、卵が焼けると思えるほど。
身構えるディアンを抱き寄せるエルドは、どこまでも涼しい顔だ。粉々になったテーブルに一瞥もせず、ただ真っ直ぐ目の前の見苦しい生物を見上げるだけ。
姿は熊でも、今はもう暴れる猿にしか見えない。
「もう一回だ! もう一回勝負しろ!」
「潔く負けを認めるんじゃなかったのか」
「うるせえ! 今のは油断してただけだ、でなけりゃお前なんぞに俺様が負けるわけがねえ!」
癇癪こそ、今回だけではないだろう。だが、周囲の賑やかさが戻らないのは圧されているからこそ。
はやし立てる声も、笑う声も聞こえない。ただ、聞こえないようにと囁き合い、現実を否定する言葉が怒鳴り声の合間から漏れる程度。
まさかダガン様が、油断していただけだ、あり得るわけが無い、そうだよな。
都合のいい解釈に落ち着いても、それで己を鼓舞するには至らず。結局は、テーブルを指差す己たちのリーダーと対戦相手のやり取りを見守るのみ。
周囲の志気はそげているが、かといってこの場を去るには難しく。なにか仕掛けを施していたとして、二度目が通用するとも思えず。
どうするのかと、見守っているのはディアンも同じ。やがて聞こえた溜め息は、もう面倒くさいと隠すつもりもない、深い深いもので。
「……――、――」
「えっ……」
「なにごちゃごちゃ言ってやがる!」
あまりにも早口すぎて聞き取れなかった古代語が、怒鳴り声に掻き消されていく。
ディアンへ向けたものではない。古代語にもスラングがあるのか? いや、所々判別した単語は、そんな口の悪いものではなかった。
加護、宣言、不服。……そして、厳罰。自信はないが、そう呟いたはずだ。
古代人が使っていた悪口なのか。それとも……これは、宣言の延長にあたるなにかなのか。
「今度は最初から本気だ。おいお前ら! こいつが妙な真似しないように見張れ!」
矛先を向けられ、へいともはいとも聞き取れぬ間抜けな声と共に数名が近づいてくる。だが、エルドに睨まれただけでそれ以上距離を縮めることはなく。
エルドが机に戻り、ディアンがその斜め後ろにつく。
拘束する輩はおらず、周囲を囲まれても圧迫感を感じないのは……エルドとの距離が、近いからだろうか。
とはいえ、見上げればやはり凄まじいし、その表情も相まって更にひどいことになっているのだが。
「ぜってぇブチ犯してやる……」
「無駄口ばかり叩くと舌を噛むぞ」
荒い呼吸と、おぞましい台詞。まだそのつもりだったのかと眉を寄せれば、聞こえるのはどこまでも冷静で……されど、怒りを孕んだ声。
すかさず怒鳴るその声よりも、ディアンにとってはエルドの方が怖く……同時に、頼もしく。
だが、組まれた手から漏れる歪な音に、再び不安が込み上げる。
握り潰され悲鳴をあげる骨を助けることはできない。相手に配慮はなく、むしろ折れてもいいとさえ考えているだろう。
骨折も治癒魔法で治せなくはないが、だからといって痛みを感じないわけではない。
呻くことも、痛がる様子もなく。見つめる背中はどこまでも静かだ。
それに比例するように目の前の男は荒く、これではもう、猿でも熊でもなく牛だ。
「カウントぉ!」
「さ、さんっ、に、いち! はじめっ!」
号令と同時に体勢が大きく変わる。全体重を腕の先に込めているのだ。
メキメキと恐ろしい音を立てているのは踏ん張られた床か、土台になったテーブルか、それとも本当に骨が折られているのか。
何度も何度も身体は横へ倒され、もう顔は直接熱しているかのよう。演技ではない、手加減もしてない。本当に、本気で、最強と呼ばれている男は全力を注いでいる。
……なのに、腕の角度は変わらない。そこだけ切り取った絵のように静かだ。
氷漬けにされていると言われたって信じてしまう。だって、本当に全く動いていないのだから!
呻きか、雄叫びか。聞き苦しい声がダガンの口から響き、何度も反動を付けているのは身体の動きからも分かる。
自分の側に引き寄せたいのか、それとも手首の向きを変えたいのか。奇妙に揺れる手はしっかりとエルドを掴み、やはり微塵も動かないまま。
「だああああ! くそがあああああ!」
あまりの大声に窓ガラスが揺れるような錯覚。実際に揺れたのは観衆の精神。
「う、嘘だろ、おい……」
「どうなってんだよ……」
波紋は広がり、どよめきに変わる。ディアンの目から見ても、どうして微動もせずにいられるかわからない。
これで魔法を使っているなら理解できる。そんな素振りがなかったからこそ、なぜここまで平然としていられるのか、見当もつかない!
「てめぇええええ! 魔法なんか使ってんじゃねえええええ!」
「正々堂々と宣言したのに、魔法なんか使うわけないだろ。全く……最近のガキはまともなルールを知らないから困る」
とうとう両腕で倒しにかかっても、角度が変わることはない。否、それは確かに傾いた。
……エルドが有利な方向へと、だが。
「ぐっ……!?」
「ひとつ、肘はテーブルから離れないこと」
僅かに浮いていた腕が、その一言でテーブルに戻る。否、もう一つの手によって戻らされたと言うべきだ。
「ふたつ、両手を使わず片手のみで戦うこと」
次に見えないなにかが男の片手を叩き、鞭のような乾いた音が高らかに響く。いよいよ腕は真横へさしかかり、身体は反対へ倒れても体重はかからず。
「みっつ、」
バン、と。叩きつける音はテーブルから。
勢いのまま倒された腕。触れる手の甲は、ダガンのもので。
「――手の甲が触れたら、負け」
「てめっ――いだだだだだ!」
勝敗は決まった。だが、手は未だ離れず、それどころかずっと机に押しつけられたままだ。
握りこぶしがほどけ、エルドの手の内で藻掻く指は痛みのせいで力が入らないのだろう。あの細腕のどこに、それだけの力があったというのか。
「負けを認めるか?」
「ふざけんっ――ぎゃあああ!」
降伏しない以上に醜い悲鳴。必死に腕を引き抜こうとする姿のなんと哀れなことか。
メキメキと聞こえるのはディアンの幻聴か、今度こそ机が悲鳴をあげていたのか。
暴れる兄貴分を助ける者はおらず、それどころか一歩仰け反る者ばかり。ダガンの味方はここにはいない。
間違いなく、エルドはこの場を掌握していた。
「負けを、認めるな?」
区切り、言い聞かせるそれは子どもに対するものと同じ。違うのは、その視線があまりに冷たく、とても直視できるものではないこと。
幸いなのは、ディアンがその目を見られる位置にいなかったことだろう。
「み、認める! 認めるから! 折れちまう!」
「……よし」
呆気なく解放した手は、男の身体ごと地面へ転がる。咄嗟に駆け寄る手下たちには目もくれず、手の平を拭う動作はどこか嫌そうだ。
「邪魔をしたな」
使った布を忌々しそうに捨て、今度こそディアンの肩を抱いて出口へと向かう。もう遮る影はなく、むしろ自ら道をあけてくれる。
あの光景を見て、もう自分たちを笑うような馬鹿はさすがにいないらしい。
「きさまあぁああ!」
――だが、そうではない馬鹿は一人。まだそこに。
ディアンよりも先に障壁が展開され、向かってきた机は呆気なくはじかれた。
破片は周囲に飛び、野郎たちが被害を負っても気にかける余裕はない。
突き出そうとした手はエルドに引き寄せられて身体の間に挟まれたまま。そのままフードを被せられ、完全に守られている状態に情けなさすら感じない。
たしかに、常人とは違うと思っていたし、魔術にも優れていることは理解していた。
ああ、いや、これも理解していたつもりだったのだろう。
まさか、こんなにも圧倒的だなんて。元よりディアンが勝てるはずがないわけだ。
「殺す! 殺してやる! ちくしょうがああぁあ!」
もう熊やら牛やらの次元を超えて、化け物がそこに立っている。
武器こそないが、その肉体だけで十分な凶器だ。一撃をまともに食らえばひとたまりもない。
「お前は負けを認めた。そして、俺が勝った場合どうするかは宣言しただろう」
「知るかそんなもん! この卑怯者が! この俺に恥をかかせて生きて帰れると思うなよ!」
「……そうか」
他人事のように呟く声は、どこまでも冷ややか。比例して喚く男は、床を抜く勢いでこちらへ近づいてくる。
退路は確保されている。相手にする必要はない。だが、エルドの腕はディアンを抱いたまま。その足は堂々と、一歩も動かず。
「てめぇらやっちまえ!」
号令がかかり、咄嗟に周囲を見る。……だが、飛びかかってくる影は一つもなく。誰もが顔を見合わせザワつくのみ。
彼らは理解しているのだ。敵う相手ではないと。それは数で補える実力ではないと。
たとえここにいる全員で襲ったとしても、勝てる見込みはないのだと。
誇張ではなく、本当にそう思うほどにエルドの力は圧倒的で。
「なにしてる!」
言うことを聞かない子分にダガンが怒鳴り、それでも彼らは動けず。わなわなと震える身体は、いよいよ感情を制御できずに雄叫びを上げた。
「この腰抜け共が! 死ねえええぇ!」
地響きと共に巨大な質量が向かってくる。障壁で受け止めるにしたって、その衝動は計り知れない。
大丈夫と分かっていても身が強張り、ついエルドへ身を寄せる。
肩に触れたままの手に力が入れば、返事はそれで十分。
一歩、二歩。そして――三歩目が地面に触れると同時に、目の前で影が転がった。
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