63.サリアナ
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サリアナにとってディアンは……誰よりも、特別な存在だった。
それは自分を慈しみ育ててくれた両親よりも、実の兄よりも、幼い頃から付き従ってくれた従者よりも。
そう、一目見た時から。初めて出会った時には、もうそうだと気付いていたのだ。
彼女にとって、不吉だと言われている黒髪は星々を映す夜空のように美しく。黒い瞳は自分を映す鏡のように煌めいて見えた。
サリアナ様と、そう呼ばれる度に心は浮き足立ち、どうして同じように接してくれないのかと怒りを抱いた覚えたこともある。
それはサリアナにとってディアンが特別なように、ディアンにも特別だと思ってほしかったから。同じ立場であることを許されていると、他の者とは違うのだと。そう思ってほしかったから。
当時幼かったサリアナにその感情は説明できず、駄々を捏ねて困らせる度に浮かぶ柔らかな笑顔が好きだった。
英雄の息子として努力を惜しまず、己の役目を果たそうとする姿も。自分には決して見せない、妹へ咎めるその厳しい声も。
彼の見せてくれる全てが愛おしく、全てがサリアナにとって特別だったのだ。
幼い頃からずっと一緒だった。彼が『精霊の花嫁』のついでで来ていると分かっていても、ただ彼がそこに居てくれるだけで幸せだった。
二人きりで話をして、笑い合って、遊んで。ずっとずっと。そんな日が続けばいいと思っていた。
ずっと一緒にいたかった。大人になんてなりたくなかった。だが、それが許されないことも彼女は分かっていた。
英雄の子どもという繋がりがあったからこそ、ディアンと出会えた。
『精霊の花嫁』の兄という肩書きがあったからこそ、平民である彼と過ごすことが許された。
でも、それは永遠ではない。このままではいつか離れてしまう。自分の手の届かない場所へ、彼が行ってしまう。
そうだと理解していたからこそ、サリアナが騎士になることを願ったのだ。彼が自分付きの騎士になれば、ずっとそばに居てくれると。
自分が王女としての役目を果たす日が来たとしても。生涯隣に並ぶ相手が、彼ではなくとも……ディアンが自分の騎士である限り、ずっとずっと一緒に居られるのだと。
彼もそれは理解していた。だから、ディアンは騎士になると約束してくれた。サリアナと共にいるために。ずっと、いっしょにいるために。
辛い鍛錬にも耐え、剣を振るい続け、英雄の息子としての責務を果たそうと必死に頑張っていた。ずっと、ずっと。十年以上も、サリアナのために。
彼はなにも変わらなかった。変わったのは周りの方だ。
どれだけ彼が努力しても認めず、それどころか役立たずであると罵るばかり。
落ちこぼれだと、加護なしだと、ラインハルトが嗤っているからそれが許されると思っている愚か者たちのせいで、どれだけディアンが傷つけられたことか。
それでも、ディアンは努力し続けた。どれだけ評価されずとも、どれだけ負け続けても、嗤われても。ただ、サリアナのそばにいるために、その約束を果たすために。彼は努力し続けていたのだ。
もうあと半年で、その努力が報われる。学園が認めずとも、国王陛下と騎士団長はその実力を認めていた。ヴァンだって、騎士団に入ることを許した。
試験もなく入ることにディアンは抵抗を感じていたようだが、今までを考えればそれでも報われない。
彼はサリアナのために全てを注ぎ込んできた。本来なら、見習いではなくすぐにでもサリアナ付きにするべきだ。
そうできなかったのは周囲の体裁のため。
どのような事情であれ、試験もなく入団させれば周囲の反感は避けられない。だが、彼ならば見習い期間でそれが誤解であったことを示せると。
彼の本当の実力を見れば、それが理解されるはず。そう、だから彼が貶められるのは今だけなのだと。
あと少しだった。もう少しで、サリアナは彼と一緒にいることが許された。ずっとずっと、夢に見てきた光景はすぐ目の前まで来ていたのに。彼が報われる日はすぐそこまで迫っていたのに。
だから、
「これが、タハマの教会に預けられていました」
……サリアナは、それを。
彼への贈り物が目の前にあることを、理解できなかったのだ。
限られた者しか立ち入ることの許されない王城の奥。その一室に、彼女たちはいた。
招集がかかり、集められたのはごく一部の者だ。ヴァンと、サリアナ。そして……部屋の最たる奥で静観する国王と、彼らに対峙するグラナートたち。
唯一の出口、その扉の横で待機するのは鎧を纏った男だ。
されど、その身に付けた装飾具の色は赤ではなく青。赤がノースディアの象徴であるなら、青はオルレーヌ……つまり、聖国の証。
色で区別がつかずとも、胸当てに刻まれたオルフェン王の紋を見れば分かっただろう。
同じ鎧は他にも。目立たぬよう壁際に待機していようと、その存在感が薄れることはない。
その無数の目に混ざる赤は、彼らの正面から。今このときに限って、彼は中央協会の司祭ではなく、女王の代理人としてこの場に立っていた。
そして、その彼のそばで立っていたシスターが袋から取り出したのが、それだった。
入学祝いと称して特注で作らせた万年筆。自分だと思って大事にしてと、想いを込めて渡したブローチ。どちらもサリアナが彼に、ディアンに渡した物だ。
彼のために、彼だけのために。
それだけなら、居場所がわかったと喜べた。共に並べられたシャツが赤黒く染まっていなければ。それが、血だと気付かなかったなら。
「殿下。これはあなたがディアンに渡した物に、間違いありませんね」
手に取らずとも分かる。世界に一つしかない彼だけのもの。自分たちのためのもの。
どれだけ似せようとも偽ることはできない。間違いなく、それは……彼女の、証。
「これを持っていたのは、黒髪の青年だったと記録には残っています。獣にやられたか外傷が激しく、個人の特定はできませんでしたが……ほぼ間違いないでしょう」
言葉は濁される。だが、気付かぬ馬鹿はいない。
サリアナからの贈呈品。黒髪の青年。王国から一番近い町の道中。全ての条件が一致している。
いくら魔物避けの魔術が施されているとはいえ、完全に追い払うことはできない。そうして運悪く襲われたなら……武器を持たぬ者が助かるはずがない。
多少なりとも魔術は扱えただろうが、相手にできるのは一体か二体が限度。そして獣は大抵群れで襲いかかってくる。
いくら鍛錬を積んでいようと、実戦経験もない者が無事で済む可能性は乖離なく低い。
それも、水も食料も与えられず、ただでさえ体力を失っている者ならなおのこと。
あるいは、そうなる前に逃げ出したのだとしても……頭を殴られていれば、まともな思考もできなかったはず。
いや、あの場所から逃げ出そうとしたその一点だけは正常だったのか。
このままでは殺されてしまうと、死んでしまうと。
……だが、その結果はこの有様。
そっと、細い指がブローチを手に取る。本物ではない証拠を探しているのか、青は一点に注がれたまま。
やがて瞳が目蓋に遮られる。込み上げる涙を止めようとしているのだろう。想い慕っていた相手の死を突きつけられ、それでも感情を抑える姿は毅然としている。
昔からディアンのことでは抑制が利かないと、そう咎められていた彼女もまた王族には違いない。
取り乱してはならぬ場で、感情を抑えることぐらいはできる。それが普段から馴染みのある相手とはいえ、今のグラナートは聖国女王陛下の代理人。
取り乱すわけにはいかないと抑えられたのは、彼女にとって奇跡にも等しかったであろう。
強く、強く握られる手の中。悲鳴をあげたのは、その折れそうなまでに細い骨だったのか。
「――いいえ」
……それとも、握りつぶされようとしているブローチの方だったのか。
「……本物ではないと?」
「いいえ。確かにこれは、私がディアンに贈った物に間違いありません」
否定は二回。一つは、グラナートの確認に対するものだ。それは本物だと認め、彼の所有していたものだと証明された。
「ですが、」
目蓋が開き、青が覗く。
その色は涙に滲むことも、揺れ動くこともなく。ただ真っ直ぐ、手の中にあるブローチを見下ろしている。
「それがどうして、彼が死んだという証明になるのでしょう?」
ここにペルデがいれば声の一つもあがっただろう。なにを仰っているのかと、どうしてそう考えたのかと。
だが、誰も口を開かず。ただ、その意図を測りかねている。あるいは、その思考そのものの理解を放棄したか。
「……ディアンでなければ、これらの品は持っていないはずです」
「路銀を稼ぐためにやむをえず売った可能性もあります。その相手が同じ黒髪なら情報の拡散だって可能でしょう? あの人ならそれぐらい思いつくはずです」
笑いもせず、泣きもせず。淡々と述べる全ては真顔のまま。
冗談でも、苦し紛れの言い訳でもない。彼女は本気でそう考えているのだ。
本当に偶然、同じ黒髪の、同じ齢の青年が。ディアンが逃げられるだけの資金と、それらの品を交換したのだと。
そうして、不運にもその男は死んでしまったのだと。
「殿下、その可能性はあまりにも、」
「その届けたという方は、瞳の色は確認したのかしら? 髪型は? 身長は? 他の所持品は? 本当にその死体がディアンであるという、確固たる証拠はどこに?」
首を傾げ、止まることのない質問に帰す声はない。そんなもの最初からないからだ。
嘘を重ねればそこから綻びが生まれる。それを隠そうと更に捏造すれば、最後には全てが崩壊してしまう。
そこまで詰めなかったのは、この情報だけで彼らが諦めると判断したからだ。
そうして、自分のせいで死んだかもしれないと。故に、探しても無駄だと。そう思わせるための作り話。
サリアナの執着心が強いのは、これまでのことからも想像はできていた。だが……その程度を見誤ったのも、また事実。
「……いいえ、そこまでは」
故に、否定しかできず。やっぱりと喜ぶ彼女を止めることもできない。
「グラナート司祭。彼がこの程度で死ぬはずがないのは、あなたが一番分かっているはずです。ええ、そう、死んでいるはずがないわ」
死を受け入れられず、気が狂ってしまったかと。そう哀れむことができれば、まだ良かっただろう。
だが、彼女は本気だ。本気で、彼が生きていると信じている。
殴られ意識が朦朧とした状態で命からがら逃げだし。武器がないまま魔物に襲われても、それは別人であったと。ディアン本人は、彼は、まだ必ず生きていると。
瞳はまるで晴れ渡った青空のように力強く。一片の濁りもないまま、控えていた騎士へ。
「すぐにタハマの方面に捜索隊を! ギルドとも連携し、あの人の行方を――!」
「サリアナ」
ピクリと、眉が揺れる。その低い声で、その一言で彼女の張り上げた声は簡単に遮られる。
全ての視線が一点に注がれる。サリアナから遠く、グラナートから向かって左。誰からも離れた位置で静観していた、その男へ。
刻まれた皺の奥。娘に似た青は深く、強く。
「それはならぬ」
英雄と呼ばれる三人目、ノースディア現国王。そして……サリアナの父であるダヴィードは、確かに彼女を止めたのだ。
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