56.朝食は共に
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目覚めたディアンが真っ先に抱いたのは……ベッドが広いことでも、微睡む眠さでもなく、そこにゼニスがいることに対しての驚きだった。
見間違いかと瞬きし、起き上がっても姿は消えず。起床に気付いた彼が一度吠えても、まだ夢を見ているのかと思ったほどに。
片道一日はかかる距離なのに、彼は半日もかからず戻ってきた。
どれだけ足が速くとも不可能のはず……なのに、ベッドに近づき、ディアンの手に頭を擦りつける姿は幻でも勘違いでもない。
滑らかな毛皮の感触を確かめても変わらず。本当に戻ってきたのかと、信じられない気持ちで撫で回す。
「……おはよ、う」
「おう、起きたか」
「……おはよう、ございます。すみません、遅れました」
ディアンより先に起きていたエルドの格好は既に整っている。隣で寝ていた彼がいなくなったのに気付かないほど寝入っていたのか。
込み上げる欠伸をかみ殺し、時計を探しても見当たらず。閉められた窓の隙間から差し込む光もなく。
それでも、夜でないことは小鳥の囀る声だけが示していた。
「遅れちゃいねえよ。なんならもう少し眠ってたっていいんだぞ」
ちゃんと起こしてやると言われるが、首を振ってベッドから下りる。家にいた頃もこの位の時間には起きていたはずだ。
不思議と疲れもなく、むしろよく眠れたとすら思うが……離れていくゼニスを眺めていれば、やはり早すぎるという気持ちがぶり返してきた。
確かに彼の足は人間に比べれば速い。多少の障害物も関係ないし、獣だからこそ通れる道だってあるだろう。
だが、それでも一山越えた先から半日も経たずに戻ってくるのはおかしすぎる。
本当は違う街に届けた可能性もあるが、わざわざそんな嘘を吐く理由はない。
考えられるのは、ゼニスもまた強い加護を頂いている可能性だ。
加護は生きているモノ全てに与えられる。それは獣も例外はない。
となると、誰が彼に加護を与えたか。
候補は少なく。そして、考察の種はすぐそこに。
「どうした、やっぱり眠いのか」
ベッドに腰掛けたまま考えていれば、まだ眠気に侵されていると思われても当然。だが、その頭の中は思考が合致していくごとに鮮明になっていく。
「……もしかして、彼の名前はインビエルノから?」
「――へぇ」
間違っていても問題はないだろうと、悩むことなく口にした疑問にエルドの瞳が僅かに開く。
一度瞬き、それからニヤリと笑う顔は、ディアンがそれに気付いたことに対する驚きと喜びから。
「なんの精霊か知っているのか?」
この時点でほぼ答えと同じ。だから、この先は単にディアンの知識を確かめるためのもの。
グラナートともよくこうして学んでいた記憶がある。たった数日前のやり取りなのに、もう随分昔のようだ。
「正確には精霊ではなく精獣ですが、分類的には同じ。冬狼と呼ばれる彼の足は一晩で世界を駆け抜け、その雄叫びは数百の山々を越えたとも言われています。かつて精霊王に付き従ったとも言われているが……文献が少なく、判明している情報も少ないと」
「どこがゼニスと繋がっていると?」
「インビエルノは、古代語で冬という意味もあります。伝記では、かの存在はその足だけで精霊界にも辿り着いたとのこと。今でこそ別次元にあると証明されていますが、当時は雲の上にあると考えられていたので、インビエルノは頂点に辿り着いた唯一とも言われています。そして、頂点は古代語でゼニス」
「……はー」
パチパチと力ない拍手は、ディアンの知識が間違っていなかったことも、予想が当たっていたことも示している。
エルドもここまで答えられるとは思っていなかったのだろう。ほんの少し、嬉しい気持ちが込み上げ唇が緩む。
「オルフェンがらみとはいえ、よく知っていたな。当てたのはお前が初めてだ」
「インビエルノが加護を与えた例は知りませんが、これだけ早いのならその名を賜っても不思議ではないと……」
白い毛皮に青の瞳。これも伝記に残っている通りの姿だ。もはや生き写しと言っても過言ではない。
絵画でも姿は残っていないので、あくまでもディアンの想像でしかないが……本物と言われたって信じてしまうだろう。
最初に抱いた印象は、あながち間違いではなかったということだ。
「精霊名簿士でも知らねえぞ。相当勉強したんだな」
「さすがにそれは……」
あまりにも手放しで褒められ、喜びよりも困惑が勝りはじめる。偶然だ。本職に比べればまだまだに違いない。
インビエルノについてもグラナートから教えてもらっただけで……思い出したのだって偶然だ。
本当に一晩で帰ってこなかったなら、ディアンだって連想することはできなかっただろう。
「知識もあるし、頭の回転も速い。病がなければ普通に戦えたし、腕も悪くはない。大抵のことはそつなくこなせそうだが……一体、なにが不満だったんだろうな」
複雑だった感情がなぎ倒される。何気ない一言だ。エルドも深く考えずに発言したもので、なにも意図はない。
それは自分に対してなのか、それとも……家族に対して、だったのか。
ニュアンスは後者に取れる。ディアンに対してなにが不満で、そのせいで家を出るまでになったのか。
そんなの、全てだ。全てに決まっている。
騎士に相応しい人間になれないことも、妹に対して『ひどい』ことを強要していたことも、言いつけを守らなかったことも。全てが、ヴァンにとって不満だったのだろう。
褒められた記憶はない。怒られるか、咎められるか。反省しろと言いつけられるか。残っている記憶はそれだけ。
だが、ディアンが試合に勝てず魔術もろくに作動できなかったのは、父が妨害するよう言いつけたからだ。妨害されてもなお動けるように、邪魔されても戦えるようにと。
結果的にそれで悪循環に陥っていても、それは……やはり、動けなかった自分が、悪いのだと、
「お前は?」
「……え?」
「不満じゃなかったのか」
問われ、反芻し、考える。
……不満。不満、だったのだろうか。
家を出たのは、そうしなければならないと思ったからだ。
あのままではいけないと、流されてしまってはいけないと。それは直感であって、ディアンの感情は後からついてきたものだ。
あのまま騎士になりたくないと、それは嫌だと。
……でも、不満はあったのか?
だとすれば、なにに対して。
自分を蔑む殿下か、過剰なまでに庇い期待した姫か。責務から逃げ、ひどいと喚く妹か。かわいそうにと言い続け、ディアンを見ようともしなかった母か。
……それとも、家を出なければならないと決断させるに至った、父になのか。
胸の奥が締め付けられる。発作とは違う、もっと悪質で、嫌なもの。
頭は鈍くなっていないのに、考えたくないと拒絶するのはどうしてなのか。
「わか、りません」
「……ま、今はそれでいい」
おいで、と手を招かれ素直に立ち上がる。そっと開かれた窓、そこから覗く景色が東から昇る太陽に色づけられていく。
藍色から、白へ。道も建物も、遠くに見える山々も。まるで息を吹き返したかのように。
王都に比べれば見劣りする光景だろう。建物の数も、人の数も、比べるまでもない。
……だが、あの屋敷にいたままなら。ここにいなければ、きっと、こんな景色には出会えなかったはず。
「……すごい」
「さて、朝飯はあそこでいいな?」
感動するディアンを横目に、エルドが指差すのは正面に位置する食堂。まだ準備中なのか、若い女性が箒を片手に掃除の真っ最中。
朝食、と聞いた途端に胃袋が空腹を訴えだし、大丈夫だと頷けば途端に響く大声。
「おーい、そこのお嬢さん!」
かわいそうに、いきなり叫ばれた店員があからさまに驚き、それからエルドの姿を探す。
しばらく周囲を見渡し、それからようやく上を見て……ディアンたちの姿を認めるなり、口元が両手で押さえられる。おそらく悲鳴が出かかったのだろう。
当然だ。いきなりこんな男たちから話しかけられたなら、叫びたくもなる。
「驚かせてすまない。何時から営業だ?」
「――あっ! も、もうちょっとで開きます! 五分か、十分か! 待っていただいたらすぐに!」
二階とはいえ、大して離れていないのに返される声は大きい。
朝から元気だ。きっとあの店の看板娘だろう。こんな突然の会話に対して、快く答えてくれるあたり、人当たりも良さそうだ。
「おう、ありがとうな」
エルドが手を振り、倣ってディアンも頭を下げる。変な行動ではなかったはずだが、キャアと声をあげてしまったのは……無意識に、失礼をしてしまったのだろうか。
そういえば起き抜けのままの格好だった。若い女性には目の毒だったかもしれない。
これ以上失礼のないようにと、窓から離れて準備にとりかかる。
「……気を付けないと」
「おう、そうだな。……気を付けないとな」
勘違いと、意味合いが違うのと。交差しない同じ言葉に気付いているのは片方だけ。
着替えはじめたディアンを見つめる薄紫は優しく。そんなエルドを見る青は冷たく。
なにも知らぬ青年は、反省しながらも初めての食事処が少しだけ楽しみだった。
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