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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
第二章 初日

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55.帰還と罵声 ★

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「やりすぎです」


 不意に聞こえた声は、不機嫌さを隠さぬ低いものだった。

 鍵のかかった扉、二人きりだったはずの空間。それなのに聞こえた第三者の声は、閉めていたはずの窓から。

 地面に近いならともかく、ここは足場もない二階。普通なら驚くところだが、エルドは一瞥もしないまま。

 軽い溜め息は眠りを邪魔されたものではなく、その言葉そのものに対して。


「やりすぎです」

「……二回も言うな、こいつが起きる」


 足音すら立てず、ゼニスが部屋の中に入る。そのまま閉まる窓も、エルドの声が部屋ではなく彼の頭の中に響いたことも、不思議に思う者はいない。

 唯一疑問を抱ける存在は、エルドの腕の中。夢も見ぬほどに、深い眠りに落ちているのだから。


「あなたに抱きつかれたまま朝を迎えるよりも、そちらの方がマシかと。……こんな子どもにベッドも譲らないなんて」

「床で寝るってきかなかったんだよ」

「だからといって一緒に寝る必要はないでしょう。……そもそも、あなたに睡眠は不要では」


 人とは違うのだからと、エルドの背中からチクチクと責めるのは、厄介事を押しつけられた腹いせもあるのだろう。

 ゼニスにとって大した距離ではないとはいえ、面倒には変わりない。

 そして、帰ってきたところで主人がこんな暴挙に出ていたのなら苦言の一つや二つ言いたくなるというもの。

 確かにエルドは眠れずとも支障はなく、暇つぶし以外でしようとも思わない。

 だからこそディアンにベッドを使わせる予定だったが、その彼が強情であったのは少し予想外。

 とはいえ、今日の出来事は相当負担だったはず。その証拠に、こうしてエルドが頭を撫でても一向に起きる気配はない。


「昼のだって、あんなに近くで見なくてもよかったでしょう。しかも偽装魔法だと偽るなんて」

「負債の具合を見る必要があったし、瞳の色が変わってるのに気付けばまた混乱するだろ」


 昼の時点……村に着く前には発症の条件を確かめるために、様々な状況に置く必要があった。

 村でわざと距離を置いたのもそうだ。協会から雑貨屋までは近く、なにかあってもすぐ駆けつけられる。

 ディアンが理由なく他人に危害をくわえないと、そう確信していたからこそできたこと。……とはいえ、不安をあおったことはやはり謝るべきだ。

 瞳に関しては完全にエルドの誤算である。

 あそこまで分かりやすく付与するつもりはなかったが、なんせ初めての加護。加減も勝手もわからず、印は強く現れてしまった。

 それも、エルドとよく似た色だとはゼニスが呆れるのも仕方のないこと。

 まだ瞳でよかったといえよう。これが髪や他の部位なら、いよいよ誤魔化しがきかなかった。

 しばらくは偽装魔法、ということで騙せるだろう。ディアンがこのまま騙されてくれれば、の話だが。


「だからといって、あんなに顔を近づける必要はないでしょう。人間に対する過剰な接触と添い寝、しかも正式な婚約さえ済ませていない子どもに対してなんて……アルピスが知ればあなたでもタダでは済みますまい」

「ん゛っ……そ、それより、荷物は?」


 思わず呻き、慌てて話を逸らす男の挙動はあからさま。やりすぎている自覚はあるだけに、彼女に知られればいくらエルドと言っても無事ではいられない。

 なんなら、知られた時点で乗り込まれてもおかしくはない。

 こちらの話も聞かずに教会で保護させようとするか、無理矢理守ろうとするか……ともかく、ディアンも無事では済まないだろう。

 もう小言は十分だと本題に移れば、これ見よがしな溜め息が一つ。


「ご命令通りタハマの教会へ。必要があれば処理をするようにも伝えてあります。……ですが、」

「問題が?」


 女王経由とはいえ、ディアンの所持品を預けることは伝えたし、それは確かに受理されたはずだ。通達がうまくいかなかったとしてもゼニスが補足を入れたはず。

 では、言葉を濁す理由とはなんなのか。


「そのままお渡ししてよかったのですか? 解除も手間ではなかったはずですが……」

「あぁ……あれな」


 思い出すのは、ディアンが並べていた……今はタハマの教会にある、彼のなけなしの所持品。

 万年筆が数本とブローチ。その全てに追跡魔法がかかっていたなんて知っていれば、ディアンも持ち出さなかったはずだ。

 それぞれ過剰なほど丁寧にかけられていたが、特に異常だったのはブローチだ。

 肌身離さず持つよう言われたか、単に高価だったから持ってきたか。どちらにせよ尋常ではない。


「解除した時点でなにかあったとばれちまうだろ。むしろ、あのまま預けた方が邪魔をされずにすむ」

「彼の父親がかけた可能性は?」

「ないな。あの男はこの類の魔法は使えんし、そもそも質が違う。かけたのは別の、それも相当執着している人間だ。……でなきゃ、個人でここまでできるとは思えない」


 直接会話したことはないし、もう十年以上前の記憶だ。エルドたちにとってはほんの一瞬のようなもの。

 それでも、追跡魔法なんて繊細なモノを扱える器でないのは覚えている。

 これが教会の者なら不思議でもないが、同じく英雄と言われた司祭のモノでもない。

 可能性があるとすれば、まだディアンから伝えられていない第三者だ。

 本来、追跡魔法は長期間使えるものではない。時間が経てば経つほど、その効力を維持するのは難しい。普通の魔法使いなら、どれだけ頑張っても三日が限度だ。

 意識したときしか特定できないにしたって、かけ直された形跡は明らかにそれより前。

 万年筆にもブローチにも、魔術の効力を伸ばす石が使われていたが、それでもよほど相手に……ディアンに執着していなければ不可能。

 逆に言えば、感情だけでそこまで為しえる天才の所業、とも言える。


「で、捜索は?」

「途中様子を見てきましたが、変わりなく。あるいは表面化していないだけで、もう手配は済んでいるかと」

「まぁ、おおっぴらには探せないだろうしな。……それとも、気付いていないだけか」


 否定が入らないのは、その可能性が低くないからだ。

 どんな経緯でここまで捻れてしまったかはまだわからずとも、劣悪な環境であったのは間違いない。

 今日聞いたディアンの証言も、次に教会に寄った際に共有するつもりだ。

 成績の改善と、それに関する本人の供述。これで女王の目的は達成されたに近い。

 奴らに制限をかけるならこれだけでも十分だ。正式な処罰はいつでも下せる。

 そう、ディアンが聖国に辿り着けば。彼が保護されれば……すぐにでも。

 とはいえ、早く来るのを望んでいるのは別の理由からだ。政治的な理由だけなら頑として拒めるものの、彼女もまた人。

 偽りなく、ディアンの身を案じているからこそ保護を要求している。

 ……とはいえ、魔術疾患にかかっているのが分かった以上、すぐ隣国へ渡るわけにはいかない。

 無理矢理負債を抜くこともできるが、その場合の負担は相当なものになるだろう。そもそも、彼は保護を望んでいない。

 規定で言えば、正式な洗礼を受けていない者は成人とは呼べず。今でも同意なく保護することはできる。

 だが、ディアンは望んでいない。自分の足で、自分の意思で聖国に向かおうとしている。

 それを無理矢理ねじ曲げていい理由は誰にもないのだ。

 女王にも、彼の家族にも。……そして、彼を見守るエルドにも。

 とはいえ、聖国以外に向かおうとするなら止めなければならない。彼が本当の意味で自由になれるのは、全てが終わった後。

 全ての問題が片付き、彼が一人でも生きていけるようになってから。

 早ければ一ヶ月、遅ければ数ヶ月。エルドたちにとっては一瞬でも、人にとっては相当な時間だ。

 ……だが、あとそれだけ。それだけで、全てが片付く。


「ここまで来れば見つかる可能性は低いとはいえ、警戒は続けるように」

「承知しました。……で、本当に娶るつもりですか」


 終わったはずの話を戻され、唸りこそせずとも息は漏れる。腕の中の穏やかな表情を見下ろしても答えは変わらず。


「言っただろ、それを決めるのはこいつだ」

「……一時の戯れで済ませるだけなら、程ほどになさいませ」


 お互いのためにと、言葉にされなかった忠告を最後に静寂が戻る。否、響くのは寝息だけ。

 報われず、裏切られ続け。最後にはこんな男を信じるしかなかった……哀れな人の子の、穏やかな呼吸だけ。

 頑張ったのにと、泣く声を思い出す。出したくとも出せなかった、出すつもりもなかった、悲痛な叫びを。拒絶され続け、肯定されることを恐れた、震えた声を。

 そうさせてしまったのは。そもそもの原因は、彼の父親でも、彼を取り巻く環境でもなく……こうして腕の中に閉じ込めている、男自身。


「……すまない」


 呟いた謝罪に反応する声はなく。パタリと、床を叩いた尻尾の音が最後だった。

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