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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
第二章 初日

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50.覚悟

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 一度、瞬いただけだ。与えられた猶予は本当にそれだけ。

 どうして動けたのか、なぜ反応できたのか、ディアン自身にもわからない。

 理解よりも先に身体が動いたのだ。エルドの体勢が変わったと、そう思った時にはすでに……彼が振りかざした剣を、鞘で受け止めていた。

 光る剣身。腕に伝わってくる振動。遅れてやってきた衝撃に、ド、と打ち付ける鼓動。知らず飲んだ息の音が血潮に掻き消される。

 なにをするのか、そう叫ぶはずだった口は強まる圧によって呻きに変わった。

 重たいと認識するよりも先に身体を横にずらしたのは染みついた経験からだ。全体重を乗せた一撃など、まともに受け止められるはずがない。

 ここまで思考は回らず、ただ本能のままに腕を動かす。もし少しでも思考が働いていれば、次の一撃はまともに避けられなかっただろう。

 体勢が崩れたところへの追撃。その切っ先は、無防備だった首元へ。否、急所を狙われていると分かったのだって、咄嗟に腕を突き出してから。

 痺れの引き切らぬうちに続けて衝動を受け、重心の崩れた身体が地面に倒れる。咄嗟に手を出し、障壁を張らなければ……三度目の斬撃は、間違いなくディアンの頭を裂いていただろう。

 半透明の壁に阻まれ、ようやくエルドが止まる。与えられた僅かな猶予は、全てを認識するにはあまりにも短い。

 息が苦しい。腕が重い。足が動かない。斬りかかられた。――死ぬ、ところだった。

 事実確認が終われば、襲い来るのは疑問と混乱。

 振り返ったほんの数秒の出来事の中に、その答えは見つからない。


「な、にを、」


 問いかけたいのに問えない。呼吸がままならないのは急に動いたせいなのか、本当にそれだけなのか。

 障壁を解除できぬまま、鞘を握り直す手から力が抜けそうだ。指は震え、冷たく、まるでかじかむよう。

 見上げた男の片手に光るのは、確かに剣だ。だが、剣身だけでなく全体が薄く光っているそれは……魔力を凝縮させて作られたもの。

 自分の武器を失った時、その場を凌ぐための魔法だ。消耗量の多さのせいで大抵は数分と持たないし、そうでなくとも長期戦には向いていない。

 そもそも、なんらかの元素を軸にして構築するものだ。自分の魔力だけでなんて、そんなの聞いたことも見たこともない。

 どれだけ魔力量が豊富でもすぐに枯渇してしまう。普通の人間なら。普通で、あれば。


「……んー、まだだな」


 それなのに、剣の形は崩れず。エルドが疲労している様子だってない。

 先ほどと変わらぬ表情で障壁を指で叩き、呟かれる言葉は問いへの答えではない。


「咄嗟に張ったにしては上出来だが、悪いな」


 コン、コン。ぴしり。

 魔障壁に物理攻撃は効かない。それなのに、叩かれる度にヒビが入っていく。

 物理だけなら防げただろう。だが、術者よりも強い魔力に対してはあまりにも、脆く、


「俺にそれは効かん。――構えろ、」


 続く言葉はなかった。あったとしても崩壊する音で聞こえなかった。

 それでも理解する。してしまう。投げつけた鞘が男の顔を掠め、それでも向かってくる剣先に。咄嗟に受け流した、その一撃の音に。己に向けられた、瞳の強さで。

 ――死ぬ。

 肌を刺すのは殺気だ。遊びでも、ふざけているのでもない。本気で立ち向かわなければ死んでしまう。

 どうして。なぜ。やはり殺すつもりだったのか。

 浮かぶ可能性がすぐに否定される。違う、殺そうとしているけど、そうじゃない。

 殺すことが目的ではない。彼はなにかを確かめたいのだ。そのために剣を振るっている。そのために、自分を、殺そうとしている。

 ……でも、なにを、?


 耳障りな金属音。腕に伝わる重み。考える余裕はない。この場を凌ごうとする全てが、圧倒的な力の前に押し流されていく。

 受ける度に腕が痺れ、避けるごとに足が重く。剣先が己に向けられる度に、息が、上がる。

 後ろへ下がり続ける身体は防戦一方だ。隙なんてどこにもない。活路など見いだせない。考えようとした瞬間には振り下ろされている。見えているのに対応できない。わかっているのに身体が追いつかない。

 エルドが早すぎるのか、ディアンが遅すぎるのか。否、その両方。

 早さだけではない。腕力も体格も、何もかも劣っている。敵う要素がない。一つも。一つだって!

 だめだ、冷静にならないといけない。勝てないのはわかっている、だから、勝つのではなく耐え続けなければ……!

 右から切り上げられたそれを受け止めきれず、体勢が崩れる。

 間一髪で障壁を張り、立ち上がろうとした足は震え、突き出した手の痺れは強く、重く。それでも維持できている壁に、息を吐けたのは一瞬だけ。


「効かないつったろうが」


 まるで水に沈むよう、突き立てられた剣が呆気なく障壁を破る。最初からなかったように、存在すらなかったように。

 ジ、と。掠めた髪の悲鳴が鼓膜に響く。荒い呼吸は雑音でしかない。

 魔力で作られた剣なら、そのまま叩き切ることだって可能だと。そんな当たり前のことさえ、もう考えられない。

 動かなければ死ぬ。殺されてしまう。わかっているのに、わかっているはずなのに、頭が回らない。どうすればいいかわからない。

 逃げ続けるだけではいけない。守り続けているだけでもいけない。だけど勝てない。耐えきることもできない。なにも手段が残っていない!

 腕が、足が、頭が。自覚するどこもかしこが重くて、息が苦しい。吸っているのか吐いているのかもわからない。

 なにかがおかしい。だけど、なにがおかしいかもわからない。

 覚悟を決めるんじゃなかったのか。恐怖で強張っていては死ぬと、そう思い知ったはずではなかったのか!

 それでは生きていけないと、死んでしまうと。そう理解していたのは、またそのつもりでいただけなのか!

 本当に殺されることはないと甘えているのか。なにかを試すためだと。

 でも、エルドは殺すつもりできている。それほどの傷を与える覚悟だと、そう自分に言い聞かせていたではないか!

 それとも、あれは脅しではないと、その理解までもが自分の驕りなのか……!

 違う。示さなければいけない。ここで、今、この場で。自分の覚悟を。生き抜くと、死なないと、そのために足掻くのだと。

 どれだけ無様でも、それでも――なにもできないまま殺されるのでは、ないのだと!

 柄が指先から逃げようとして、もうまともに握っていられない。

 足だって震えて、立っているのがやっとだ。酸欠で頭の奥が呆けて、痺れて、それでも逃げるわけにはいかない。剣を下ろすわけにはいかない。

 目が動きを追いかける。理解は必要ない、感情もいらない。ただ、事実だけを。するべきことだけを。

 踏み出した足、振り下ろされた剣。左に避けた自分。僅かにできた、隙。無防備な左手。握られた凶器。

 今、いまだ。今しかない。今でなければ――!


「っぁあああ――!」


 恐怖を、戸惑いを、迷いを。叫び、吐き出し、残った力を全て込め、その剣は真っ直ぐにエルドの手へ。持っていた剣に向かって振り下ろされた。

 振り下ろされたのだ。確かに、間違いなく。それが最後。

 それが……ディアンがとれた最後の、行動だった。

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