42.良薬でなくとも苦し
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「……よし、着いたぞ」
それから、更に歩いて十数分。永遠に続くかと思えた森は、そんな声と共に終わりを迎えた。
遙か前方に登る白煙。僅かながら見えるのは住んでいる人々だろう。人数も外見もわからないが……ようやく、目的地が見えたことに力が抜ける。
慣れない獣道で、想像より体力を使ってしまっている。少し休みたいところだが、状況によっては最低限の準備だけで飛び出すことになるだろう。
父の追っ手はいるだろうか。教会から連絡は来ているだろうか。だとすれば誰が来ていて、連れ戻されるとすればどのような形になるのか。
手っ取り早いのは馬車だが、あんな村では目立つだろう。
用意されているかは、道に刻まれた轍だけで判断するのは難しい。通り過ぎるだけなら、それこそ何十台とあの村を通っているのだから。
歩いてきたのなら、同じく徒歩で連れ戻される可能性もある。ここまで来てとんぼ返りは……色んな意味で避けたいところ。
布を深く被り、頭部を隠す。髪はこれでなんとかなったが、問題は瞳だ。フードを被っている時点で怪しまれるし、目を隠そうとすれば余計に追求されるだろう。
エルドが庇ってくれるとは思うが、事情を知った後も同じように守ってくれるとは限らない。
目立たぬよう行動するしかないが……しかし……。
「疲れたか?」
「いえ……疲れはそこまでではないんですが……」
心配されるが、こればかりは素直に答えるわけにはいかない。追っ手だけでなく、教会に知られることも懸念しているなんて素直に伝えれば、なんと言われることか。
もう全て知られていることを前提に動くしかない。
早々に準備を済ませ、目立たぬよう村を出る。最悪は自分だけでも……。
「よし、先に休むか」
また考え込んだところをエルドの声に引き戻される。すぐに状況を忘れてしまうのは悪い癖だ。
「大丈夫です、早く行きましょう」
疲れてはいるが、動けない程ではない。こうしている間も父たちは動いているだろう。
ただでさえ予定が狂ってしまっているのだ。休んでいる暇なんてない。
自ら踏み出した一歩が、白い影に遮られる。足の周りを一周。それから元の位置に戻る間に、近くの岩に座り込む姿が映る。
「無理するな、顔色が悪い。焦らなくてもまだ昼前だ、店も閉まらん」
荷物も置かれ、いよいよ寛ぐ姿勢に入りだした男に眉が寄る。その表情こそが疲れている証明だということを、ディアン自身は気付かない。
「本当に大丈夫です。これ以上時間を無駄には……」
「ディアン、お前の今の仕事はなんだった?」
唐突な質問に言葉が詰まる。視線は一度俯き、答えを探すように左右へ。それでも口にできたのは確信のない答え。
「……旅の作法と、世間を知る……?」
「で、それを教えてるのは?」
「……あなた、です」
「理解しているなら結構。疲れたときに休む時間は無駄じゃない。焦りに任せて行動すると、いざというときに対応できなくなるぞ」
いいから戻ってこいと手を招かれては、無視するわけにもいかない。
反論を抑え、素直に戻ってきたディアンを薄紫は満足そうに見る。
隣に座るもそれを直視できず、すぐそこに見えている目標を眺めるディアンの表情は険しいまま。
どれだけ目を凝らしても、恐れている相手がそこにいるかはわからない。
「ほら、とりあえず水でも飲んどけ」
差しだされた筒を受け取り、蓋を捻る。そのままなにも考えず流し込み――思いっきりむせた。
「げほっ、げほっ……! なっ、これっ……ごほっ……!」
一体何が起こったのか。口内に襲いかかったのは猛烈な苦み一色。
酒かと思ったが臭いはないし、吹き出してしまったそれに色もついていない。だが、絶対に水でないことだけは確か。
「あ、悪い。こっちだった」
改めて渡そうとしているボトルを受け取る余裕はなく。口内を満たす苦味に悶絶し、呼吸さえままならない。
背中をさすられても楽にはなれず、視界は涙でにじむばかり。
ろくに抗議できないディアンの代わりにゼニスが吠えても、エルドが堪えた様子はない。
「大丈夫か?」
「っ……こ、れ、なん……げほっ……!」
「あー、ほら。ゆすげゆすげ、飲め飲め」
蓋を捻り、中身を傾け、ディアンの口元へ運ぶ動作はもはや看病どころか介護である。夢中で口にふくみ、それから吐き出しても舌の不快感は根強く残ったまま。
この世界にありとあらゆる苦味を煮詰めても、こんな味にはならないだろう。毒だと言われたって疑わない。若干痺れを感じているのは苦すぎるせいか、それとも本当に神経毒でも入っていたのか。
勢いのまま数口飲み込み、やっと呼吸が落ち着く代わりに視線は鋭さを増している。視線だけで殺せたなら、いくらこの男といえかすり傷は避けられなかっただろう。
「悪いな、普段はこれ以外飲むことがないから……あそこの雑貨屋で水入れがあったら買っとくか」
もちろん実際に傷付くことはないので、どれだけ睨まれても苦しむ様子はないどころか、呑気にそんな提案までしてくる始末。
「はぁ……っ……で、どんな毒を僕に飲ませたんですか」
「悪かったって、本気で忘れてたんだよ。毒でも薬でもないから、飲んだところで身体に害はない」
毒でも薬でもないのにこんなにも苦いのも、それを常飲しているのも恐ろしい。一体何があったら、こんなものを持ち歩くことになるのか。
害はないというが、この時点でも十分不調をきたしていると突っ込む気力はまだ戻らず。
「お詫びにイイコトしてやるよ」
「結構です」
「拗ねるなよ、本当にわざとじゃねえんだ。もう苦いのも痛いのないから」
拗ねてなどいない。ただ、年上の男性の言うイイコトに嫌な予感しかしないからだ。詫びなどいらないから、二度とあんなものを飲ませようとしないでほしい。
そう目で訴えても、エルドにとっては子どもが怒ったようにしか見えないのか。苦笑し手を招く姿は近隣のおじさんの姿に見える。
といっても、ディアンにそんな存在はいなかったし、想像でしかないが。
「いいからこっち向けって」
このまま無視するつもりだったが、あまりのしつこさに折れるしかなく。聞こえるように大きく息を吐き、目つきの鋭さはそのままに男の方へと向く。
なんですか、と。問うはずだった口はすかさず伸ばされた手に遮られ、頬を包まれたことで消散した。
「なんっ……」
「しー……そのままな」
じわり、包まれた頬が温かくなっていく。それは男の体温だけでなく、放たれる光からも与えられるもの。
至近距離で覗き込まれ、視線の行き場を失えば目を逸らすなと言われてしまう。
一体何をされているのか見当もつかず、手が離れるまでの数秒。無言で見つめ合うことを強要され、疲れはむしろ増していくばかり。
「ほら、終わったぞ」
言うやいなや、エルドの手の上に水が溜まり、数秒とせず浮かび上がった球体は薄く広がり、鏡のようにディアンの姿を反射した。
こんな高度な魔法も使えるのかと感心したのは、見つめ返す己の瞳を見るまでのこと。
――深い、紫。
髪色こそ同じ黒だが、見開き、瞬くその瞳にいつもの面影はない。
エルドのものよりも濃く、青みがかった紫。彼の色を空とたとえるなら、ディアンの瞳に嵌まったそれは花のようだ。
冬から春へと向かう、植物にとってはまだ辛い時期。肌寒い空気にさらされながら、懸命に花開こうとする自然の活力。
仮とはいえ、己の瞳をそう例えるのに恥ずかしさはあるが……力強さの中に、どこか優しさも感じられる。
エルドほどではなくとも不思議な色だ。一度見れば、忘れられそうにはない。
長い睫毛が混乱で震え、それからエルドを見つめる。その間も、その瞳は変わらぬまま。
「……偽装魔法、ですか?」
「一応な。黒目に黒髪は目立つだろ? あんまり使う機会がないから、成功するか怪しかったが……」
うまくいってよかったと、崩壊した鏡が地面に落ちる。跳ねる水を軽やかに避けたゼニスの涼しい表情は、残念ながらディアンの意識には入らず。
「あの……かけてくださったのはありがたいんですが、なぜ目だけ?」
黒目も珍しいほうだが、黒髪だって相当に目立つし、真っ先に目につく。
だから、大抵魔法をかけるのは髪の方が多いのだが……。
「久々で自信がなかったからな、下手な色になっても弱るし……それに他の連中も考えることは同じだ。瞳だけ偽装してるとは思わんだろ」
「それは……確かにそうなんですが……」
もう鏡は消えたので確かめられなくとも、色は変わったままなのだろう。見えないのに落ち着かないのは、この瞳が自分を見つめる物と似ているせいなのか。
他にも色はあったのに、なぜ同じ色にしてしまったのか。問うのはなぜか憚られ、立ち上がった男を見上げるだけ。
「よし、準備もできたし行くか」
手早く荷物を纏めたエルドに出発を促され、同じように立ち上がる。フードはより深く、視線は遠くに見える目的地へ。
不安はにじむが、それでも進むしかないと。踏み出した一歩は、心なしか先ほどよりも軽く感じた。
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