37.客間 ★
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あんなにも眩しかった夕日はどこにもなく、鼻から吸った空気は男を目覚めさせるのに十分すぎるほど冷え切っていた。
景色は目蓋の裏から目の前へ。重い皮膚を持ち上げれば、見慣れたものたちが映り込む。
火の気のない暖炉。置き去りにされたままのカップ。放られたままの書類。……全てが、ディアンが出て行ってから変わっていない。
額に手を当て、深く息を吐く。少し休むつもりが眠ってしまったようだ。
見やった時計の針は、とっくに真上を通り越している。こうして誰にも起こされなかった。
……それはつまり、誰もディアンの居場所を掴んでいないということ。
一度屋敷に戻り、それから家を出たところまでは報告があがっている。問題は、そこからどこへ行ってしまったかだ。
シスターたちに後を追わせているが、まだ保護に至っていないか、怯えさせないために距離を取っているか。
あの子は聡明だ。追われていることを前提に動けば、彼女たちに気付く可能性は十分にある。
疲れ果て、休んだところを保護するなら……続報が来るのは明け方になるだろう。
……あの時、扉を開けるべきではなかった。
ペルデの対処ならアリアがしていたのに、どうして確かめに行ってしまったのか。なぜ、あの手を離してしまったのか。
ようやく彼を保護できる正当な理由を手に入れたのに。その証拠も、証言も、全てが揃っていたというのに。
ようやく彼を……助けられる、はずだったのに。
教会の権限で保護できるのは、当人が未成年である間だけ。成人を迎えれば、同意がなければどれだけ正当な理由があっても許されない。
まだヴァンの屋敷は静まっている。抜け出したことに気付くのは、早くても明日の朝になるだろう。
彼らより先にディアンを見つけてしまえば、保護したときの年齢はどうとでも偽れる。
ディアンもその規則は知っている。だが、判明した時点ではまだ未成年だった。それで通す他ない。
女王には咎められるだろうが、今回ばかりは許されるだあろう。
全てはディアンを守るため。
彼が着の身着のまま家を飛び出し、野外に行こうとするのに比べれば……数時間遅れた誤差など、問題にもならない。
本来ならここで。この場所で。彼はその身体を休めていたはずだ。
父に怒られると怯え、その身に受けた仕打ちに混乱しながら。それでも、誰にも虐げられることなく、誰にも否定されることなく。
やっと報われるはずだった。その日がようやく来たのに。どうして、あの手を掴んだままでいなかったのか。
「……なにが、逃げ込める場所だ」
自責に返される言葉はない。安心したなど、よくも思えたものだ。
実際、彼はここには来なかった。家を飛び出し、街門を超え、この街から去ってしまったじゃないか。
あんな後では仕方ないなんて思えるはずがない。迷惑をかけてはいけないと、そう彼が考えたことだってわかっている。
だが、今だ。今こそ、彼を助けなければならなかったのに。
他のいつでもない。この日のためにずっと自分たちは、自分は耐えてきた。
――それなのに、なぜ。
終わらない後悔は、控えめなノックによって切断される。
シスターなら聞こえるように叩くだろう。気付かれなくてもいいと滲む音の正体は一人しかいない。
「入りなさい」
体勢を整えることなく、短く告げた言葉に暫くの沈黙。
三秒ほど経ち、ようやく開いた先にいたのは……想定していたとおりの相手。
「と……父さん」
最後に見かけた時と変わらぬ服は、着替えることすら忘れ考えていたためか。
その頭の中でなにを悩んでいたかは定かではないが、碌なことではないだろう。
「まだ休まないの? 明日の朝だって早いのに……あ、あいつだってもう家に戻って――」
矢継ぎ早に綴られる言葉を遮ったのは己の溜め息だ。大きく肩が跳ね、揺れる瞳が逸れていく。
忘れていたつもりはない。ただ、緊急性がないことを優先する気がなかっただけ。
シスターはまだ戻らず、連絡もない。
……それは、気が乗らずとも問題を片付ける時間はあるということ。
互いに向き合うことを望んでいなくとも、それから目を逸らすことはできない。
ペルデがいかに逃げたがっていようと、彼は……グラナート自身は、それを許すことはできないのだ。
「ペルデ。なぜ、彼を追い返そうとした」
「っ……そ、それは……」
目は合わない。望んだ答えも得られない。時間を稼げば稼ぐほどに、グラナートの脳裏で鮮明になっていく記憶。
シスターに呼ばれて向かった裏口。そこで無理矢理扉を閉め、更には危害を加えようとした息子の姿。自分の名を呼び、必死に扉を叩くディアンの悲鳴。
本当に……悪夢のような、光景だった。
他の誰かなら、許しはできずとも受け入れられただろう。
ここが教会ではなく別の場所で……そうしていたのが、己の息子でなかったのならば。
「彼が来た時は必ず通すようにと、私は常に言っていたはずだ」
「で、ですが! もう夜も遅かったし、裏口からなんて失礼じゃ……!」
「どんな状況でも関係ない。……そう朝にも伝えたはずだが、もう忘れてしまったか」
覚えていないなど言えるはずもない。
今朝だけではなく、日頃からそう伝えている。ディアン・エヴァンズが来た際には、自分かシスターを必ず呼ぶようにと。間違っても追い返してはならないと。
教会にいるとはいえ、正式には従事していないペルデに理由は伝えられない。
それでも、これが教会の意向であることは何度も伝えていたのに。
「言いつけを守らなかったばかりか、盗み聞きまでするとは……お前がしていることは教会、しいては女王陛下への反逆とも捉えかねない。その意味を理解できるな」
本来なら、命令を遂行できなかった時点でなんらかの罰則が与えられる。
だが、それは教会に属していた場合だけだ。まだ成人でないペルデは、あくまでも手伝いでしかない。
彼を守らなければならない理由を明かせない代わりに、処罰に課せられる立場ではない。……今、この時点で、彼を裁く方法は存在しないのだ。
「っ、でも……!」
「ペルデ」
声を遮るのは、ディアンを叱る己の親友と同じか。
不満を抱く顔に、無理を強いていると自覚しているだけマシなのか。そう思いたいだけなのか。
それでも……このままでは、ダメなのだ。
「……納得できないのはわかる。お前に辛い思いをさせていることだって理解しているつもりだ。だが、お前が私に倣い教会に従事したいのであれば、どれだけ不満でも受け入れなければならない」
明確に言葉にはできない。だが、言外で伝えることはできる。
ディアンに関する全てはグラナートの我が儘でも心配だけでもなく、教会からの命令。つまりは、女王陛下からの指示であると。
今のペルデならば。彼ならば、分かってくれるはず。
「時が来れば……洗礼を受ける日になれば、お前にも説明できる。だから、今はむやみに詮索しようとするな。私がお前を守れるのは、私の言うことを守っている限りのこと」
俯く表情は見えない。だが、まだ納得も理解もできていないだろう。
息子との対話が足りないのは自分の親友と同じ。違いは自覚の有無だけで、その本質は変わらない。
それでも、答えられない。教えるわけにはいかない。
己の息子とはいえ、冷たい言い方をすれば、まだ部外者だ。家族であろうと、その内を知るには値しない。
知ってはならない。探してはならない。自ら暴こうとするなど、絶対に。
そうでなければ、グラナートは……彼を、自分の息子を、罰さなければならなくなる。
そうさせてくれるなと、念を押す前に響いたのは不満ではなくノックの音。荒々しいそれは返事を待たずして開き、早足で近づくシスターたちを迎え入れる。
その表情はどちらも固く、保護するはずだった彼の姿はどこにもない。
「歓談中失礼します。グラナート様、至急お伝えしたいことが」
一人は目の前に、一人は散らかったままだった書類をまとめ。後から入ってきた一人が、ペルデの後ろへ。それだけで、望まれていることは理解できる。
「ミヒェルダ。ペルデを部屋まで送ってください」
「父さん……!」
疑うのかと、見つめる瞳が非難する。信じてくれないのかと、自分に似た薄茶色がグラナートを突き刺している。
今度こそ大丈夫と信じたい気持ちと、過ちを許してはならないという葛藤。
揺れる天秤は、それでも使命を全うするべく傾いた。
「……そうされることをしたと、自覚しろ」
ミヒェルダと呼ばれたシスターが促し、ようやく部屋を出た足取りは重く。彼女が見張りに立っている間、今度こそ邪魔は入らないと改めて二人に向き直る。
「彼は、今どこに」
ディアンがここを飛び出してすぐ、彼の後を追わせた人数は三人。そのうちの一人に、家を出たことを報告されてから数時間。
そばにいないのは既に別室にいるからだと、抱こうとした希望もその顔を見れば諦めざる終えない。
「……結論から言えば、見失いました」
込み上げた息を喉の奥で殺す。予想していなかった、と言えば嘘になる。
魔術も剣術も、他の者に比べても劣らず。自己評価こそ低かったが、咄嗟の判断力も優れていた。
追われていると気付いた彼が逃げようとするのは当然のこと。こちらの正体を明かす間もなく振り切られたのなら、彼女たちを責めることはできない。
ただ、それでも見失うとは思っていなかった。確かにディアンは普通の子よりは強い。だが、彼女たちだってただのシスターではないのだ。
女王陛下直々に派遣した、選りすぐりの精鋭。知識はもちろん、その武力だってお墨付き。
そう簡単に逃げられるなど、グラナートもシスターたち本人も思っていなかったはず。
あるいは、その油断があったからこそ、この結果になったのか。
「最後に見たのは?」
それでも、場所の候補が絞れれば行き先は突き止められる。おそらく一番近い村で身支度を済ませるつもりだろう。
伝令を飛ばし、あちらの司祭に引き留めてもらえれば……念のため北に向かった可能性も考慮し、森の捜索も考えなければならない。
まだ取り返しはつく。彼が無事なら保護できる。ヴァンよりも先にあの子を助けなければならない。
それをあの子が望んでいなかったとしても、グラナートはそうしなければならないのだから。
彼のために。自分の、ために。
だから、希望はあると思っていたのだ。
「『候補者』が襲われているところを、我々よりも先に『中立者』が救助。その後、魔術過剰と思われる発作で気絶した後、『中立者』が連れて行きました」
……そんな考えさえ甘かったと、突きつけられるまでは。
「引き渡しを要求しましたが、命令には逆らえず……女王陛下にご報告したところ、指示を待つようにとの仰せです」
「っ、なぜ……!」
立ち上がり、声を荒げ、返された視線の温度に口を閉ざす。昂ぶったところで答えは得られない。騒いだところで、何も変わらない。
陛下に報告が終わっているのなら、今できる最善は全て終わっている。望んだ形ではないとはいえ、ディアンの安全は保証された。
……ならば、グラナートができることは、言われたとおり待機することだけ。
「……ご苦労でした。どうか、休んでください」
「……グラナート司祭も」
労る声は響かず、揃って出て行く二人を見送る気力もなく。崩れ落ちた身体がソファーに受け止められても衝動が消えることはない。
『候補者』は、教会内でのディアンの通称だ。そして『中立者』は……ディアンに、最も接触するべきではなかった者。
あり得ないことは分かっている。それでも、もし、他の『候補者』がいたなら。ディアンが『候補者』にならなければ、こんなにも心が乱されることはなかっただろう。
いや、そもそも『候補者』なんて呼ぶ事態にならなければ。最初から、間違っていなければ。
確かに、誰よりも安心できる場所だ。あの家よりも、この教会よりも……悔しいが、グラナートのそばよりも、ずっと。
こんな感情を抱くべきではない。教会に従事しているからこそ、そう考えてはいけない。それでも、振り下ろした拳は机を叩き、鈍い痛みが骨を伝う。
その程度で緩和できる怒りならば、最初から抱くことだって。
歯を食いしばり、拳を握り締め。深く吐いた息が、かの者に届くはずもなく。
「なぜ……今さらなのですか……っ……!」
……そう吐き捨てた言葉が、天から罰せられることもなかったのだ。
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