382.無意味と変化
屋敷に戻ってきてからも、メリアがディアンのそばを離れようとはしなかった。
初めての襲撃に、直接的な被害。ヴァンがダガンたちの処理のために現地に残ったことも、彼女の不安を煽る要因だったのだろう。
食事はいらないと拒絶し、大好きな本も読まず。メイドたちも退室してからは二人きり。
添い寝とまでは言われなかったが、ベッドに入ったメリアはディアンの手を握って離さない。
「メリア。もう悪い人たちは捕まったから大丈夫だよ」
一晩寝ずに明かすのも苦ではないが、メリアは違う。夢の中で睡眠不足になるなんておかしな話だが、今の彼女にとってはここが現実であり、負担としてのしかかってくるだろう。
思うところはあるが、苦しむ姿が見たいわけではないと。繰り返し聞かせた言葉に、やはり返答はなく。より、ディアンの手を握る力が増すばかり。
「……どうして」
散々泣き腫らした目元が痛々しい。冷やせばマシになるかと、メイドを呼びつける鈴よりも先に声が転がる。
か細く、弱く。震えたそれは、制御できない恐怖から。
「あの人たちは、『花嫁』なのに、ひどいことをしたの……?」
緑が滲み、赤みが増す。見つけた際にも聞かれた言葉だ。
『精霊の花嫁』なのに。皆に愛される存在なのに。特別なのに。そうだと教えられてきたのに。
正しくも歪んだ認識だが、メリアを責めることはできない。
初めは父の盟約。次にフィリアの暴走。
期待する民と、否定しなかった教会。そして、サリアナの欲望と……エルドの意地。
全てが絡み合って、『精霊の花嫁』は作られた。全てに責任があり、されど、彼女自身も無罪ではない。
全てを許されると誤認し、いくつもの罪を犯した。たとえ自覚がなくとも、利用されただけとしても。魅了の力を得たメリアの脅威もまた、害を及ぼすもの。
……だが、今の彼女はまだ知らない。いや、思い出せない。
だからこそ、本当にわからないとディアンに問いかけ、泣いている。
正しく伝えたとしても、現実は変わらない。しかし、目的を果たすためには必要なこと。
「なぜ『精霊の花嫁』が特別か、分かるね」
「……精霊の王子様の、お嫁になるから」
「そう。精霊の伴侶になるのは、精霊が選んだ人間だけ。精霊が伴侶として求めるほどの存在なら、普通の人だって一緒にいたいと思うし、仲良くしたいとも思う。でも、中には選ばれたことに嫉妬して傷付けようとしたり、自分だけのモノにしたいと閉じ込めようとする人もいるんだ」
「みんなから愛されているのに、そんなの、おかしい」
「愛の形が、全て温かくて優しいとは限らない。中には、悪い人に頼んで連れ去ろうとする者もいるし、逆にそんな人たちに渡そうとする者もいる。特別ということは、価値があるということだ。金さえ手に入るのなら、どんなことでもする人だっている」
今日のようにと言い含めれば、腕に爪が食いこむ。布越しの痛みは小さくとも、薄れはしない。
「だから、『精霊の花嫁』を守るために、お前の傍にはいつも兵士やメイドがいる。今までなにもなかったのは、お前が一人で行動しなかったからだ」
これまでのメリアなら、ここで喚き、怒り、ひどいと詰っていただろう。
だが、唇を噛み締め、目を逸らす姿は、自分に非があると認めている。
そして、前だったなら。一人で行動したことを頭ごなしに怒り、否定していたディアンも、冷静だからこそ違和感に気付く。
確かにメリアは我が儘だ。耐え性もない。……が、一人で勝手に飛び出すなんて今までなかった。
何か興味があるものを見かけても、必ず許可を取ってから出ていたはずだ。ダメと言われる回数が少なかったのもあるが、こんなあからさまに無防備な姿を晒すことはなかった。
「メリア。いつもは待てるのに、どうして今日は一人で飛び出したんだ?」
一層優しく、柔らかく。普段はいい子なのにと言外に伝えながら、握り締める手へ触れる。
ほんの少しだけ力が弱まって。小さな声に、耳を澄ます。
「……綺麗な、花を見たの」
「……花?」
「赤くて、大きくて、綺麗で……見たことがなかったから、もっと近くで見たいと思って……気付いたら、馬車を飛び出して。でも、近づいても近づいても遠くなって……」
そうして、最後にはダガンに捕まったのだろう。
花と聞いて真っ先に浮かぶのはフィリアだが、彼女を表す色と言えば桃だ。
メリアを探している最中に、目を惹く赤を見た記憶はない。単に気付かなかった、というわけではないだろう。
禁止区域に出店された露店と、意図的にディアンたちを阻んだ人だかり。状況を考えても、例の精霊が関与していると考えるべきだ。
メリアが操られたのなら、意識せずに行動したのも説明がつく……が、目的がわからない。
ディアンからメリアを離したいのなら、グラナートが介入したのはなぜ?
ペルデの行動から整合を取ったとしても、助けに来るのは精霊にとっても不都合のはず。
これまでも襲われてもおかしくなかった、という潜在意識を表面化したには大がかり。ダガンが巻き込まれた可能性は……どちらかと言えば、否定したい気持ちが大きい。
「お兄様」
「なんだ?」
「また、こんなことが起きるの……?」
一度は弱まった力が、再び食いこむ。今度は明確に、感じるほどに強く。
「『花嫁』だから、ひどいことをされるの?」
「……メリア」
「だったら、もう『花嫁』なんてなりたくな――」
「メリア!」
緑が大きく揺れる。驚きと、恐怖と、混乱と。見開かれた瞳に反射するのは、ディアン自身の焦り。
正しい道かもわかっていない。他に方法があるかもしれない。
だが、メリアを『精霊の花嫁』にするのが、ディアンに示された唯一の道である以上。今、諦めさせてはいけない。
……いや。まさか、精霊もこれを狙っていた?
であれば、メリアを『花嫁』にする仮説は……正しい……?
「……メリア、怖かったのはわかる。だけど、そうならないように、皆がお前を守っているんだ。今までだって、父さんや他の人の言うことを聞いていたから、ひどいことは起きなかっただろう?」
「でも、怖いの」
「大丈夫。屋敷の中も、部屋の外も、強い騎士が守ってくれている。僕もここにいるから、知らない人が来ても大丈夫」
根拠のない言葉だ。その場しのぎの、宥めるための言葉。
それでも、今はまだ投げ出さないでほしいと。諦めさせてはいけないと、焦りと嫌悪を押し殺し、何度も何度も言い聞かせる。
まるで、自分自身に言い聞かせるように。この道が、エルドの元に戻れるように。
「……ずっと一緒に、いてくれる?」
「ああ」
「眠っても、ずっと?」
「朝まで見張っているよ。大丈夫。……僕だけじゃなくて、ゼニスもいるから」
散々抱かれて苦痛だっただろうに、仕方ないと肩をすくめたように見えたのは、間違いなくディアンの錯覚。犬にすくめるほどの肩はない。
さすがに睨まれることはなく、空気を読んで腕に入り込んだゼニスを抱きしめながらも、ディアンと繋がった手は離されないまま。
「眠らないと、明日が辛くなる。……いい子だから、おやすみ」
「…………うん」
頭を撫で、シーツをかけ直せばようやく目蓋が伏せられる。
夢の中で夢を見るかはわからないが、少しでも穏やかに眠れるようにと魔術をかければ、眉間に寄っていた皺はすぐにほどけ、寝息が響きはじめる。
無防備な顔から、自分の首元へ。引き出した首飾りを手に取って、橙色の光を見つめる。
大丈夫。……大丈夫だ。
これは夢であり、現実は変わらない。何が起きようとも、変わったように偽られようとも、エルドと自分の繋がりが切れるわけではない。
だから大丈夫。……そうだと、今は信じるしかない。
意図して強く握り締めても、返るのは鈍い痛みだけだった。
◇ ◇ ◇
静寂の中、ゆっくりと扉が閉まる。
ただでさえ無人。唯一見るだろう相手も離れた場所にいると理解してもなお、細心の注意を払ったのは、ここがグラナートの自室だから。
自分以上に殺風景な室内。とても司祭の籍を与えられたとは思えないほどに質素。物欲がないのか、あるいは教会の重責は皆、似通うものなのか。
仮にも息子とはいえ、入った記憶は数える程度。不在のまま許可なく、なんてこれが初めて。
幼い頃なら恐れていただろうが、怯えるには知りすぎたペルデの足に迷いはない。
違和感は常にあった。ペルデの認識から補っているとしても、主部分がディアンの記憶から作られたならばと逸らし続けた認識。
受け答えに始まり、対応、仕草、自分に接する態度。挙げていけばキリがないほどに細かく、あまりにも小さなものばかり。
先日の書庫の一件も、夜に交わした言葉も、まだ可能性でしかなかった。
全てが疑わしいからこそ、深く考えすぎていると。最もよく知るからこそ粗が目立ち、嫌悪も相まってそう思い込んでいるのだと。
……だが、もはや誤魔化せない。
ディアンなら騙し通せただろう。実際、彼が気付いている様子はなかった。
状況こそ疑っていても、真相に辿り着くことはないと断言できる。
あのバケモノは知るはずもない。見逃すことのできない、違和感では片付けられない、決定的な違いを。
整合性であろうとも、ペルデの認識も交えているのなら。ペルデの知るグラナートならば、『精霊の花嫁』とディアンが襲われていて、あんな行動を取るはずがない。
必死だからこそ、絶対に。出るべきはずの手が出ないなんて、あり得ないのだ。
ペルデのものより一回り大きな机の上。放置されているのは、書庫から持ってきただろう古い本と、日誌らしい分厚い表紙の本。それから、ミヒェルダにもらった木彫りの飾りと、ペンだけ。
ご丁寧に挟まれた栞を辿り、中身を確かめた榛が、木彫りの小物を見やる。
偶然か、必然か。ペルデの記憶にも残っている記述を流し見て、日記へと手を伸ばす。
使い込まれているはずの傷みに対し、記載は一割にも満たないほどに薄く。そんなことも気にならないほどの事実の前に、榛が見開かれる。
初めから終わりまで。最後の一文を刻んだペルデの中に、もう疑惑はなかった。
――自分がこの夢から出られる術が、ここにあるのだと。





