378.まだ嵐は遠く
長い廊下の先。扉を開けば、途端に差し込む光量に目を細める。
雲一つない空、照りつける太陽。従者が差し出す傘の影が、ディアンにかからないところまで、全て同じ。
真っ直ぐに続く石畳。整えられたトピアリー。風にそよぐ花と、その間を進む自分たち。
違うのは、噴水に辿り着くまでもなく、彼女の足が止まったこと。
「いい天気。これなら、外でお茶をしてもよかったわね」
屈み、花を眺め。見上げる瞳は、少女のように無邪気なもの。
ディアンの好意を疑いもしない。疑う必要もない。無垢で、おぞましい、透き通った光。
「覚えてる? よくここで、二人きりで話をしたでしょう?」
「……ええ、そうですね」
覚えているし、忘れられない。あのトピアリーの群れの中。
ずっと一緒だと囁かれ、断り。そうして……騎士になる誓いを立てさせられた場所。
訳もわからぬままに叱られ、咎められ、なじられ。幼い子どもに、従う以外の方法はなかった。
強いた本人は、ディアンが騎士にならなくてもよかったはずだ。単に、騎士という役職が都合がよかっただけのこと。
ディアンの本当の魅力を知っているのは自分だけでいい。
自分のためだけに努力するディアンを、愛している。
フィリアの加護だけでは説明できない、歪んだ欲望。本質的に、彼女は精霊に近い場所にいたのだろう。
あるいは、二人の精霊から加護を与えられた影響なのか。……いや、フィリアに加護を与えられる経緯からして、やはり傾向はあったのだろう。
その執着が国に向かえば、ラインハルトを優にしのぐ、ノースディア初の女王として君臨していただろう。
それだけの知識と力を彼女は持っていた。……だが、その全てを注いだのは、ディアン一人だけに。
「ねぇ、ディアン。本当はなにがあったの?」
不意に立ち上がったサリアナがディアンに詰め寄る。一歩引かなければ、その手は再びディアンを手首を捕らえていただろう。
あの日のように強く。逃がさないように、キツく。
「なにが、とは?」
「今までなにもしてこなかったのに、今になって教会が関与するなんて考えられないわ。……グラナート司祭にお願いしたんでしょう? 私にはわかるわ」
以前なら、ペルデにお願いして聞き出していたことだ。今回は勘か、あるいは整合性か。
サリアナなら勘付いてもおかしくないと、その予感がそのまま目の前に現れているのか。
「あの日のことが原因なの?」
「……殿下」
「お兄様の言うことなんて気にしなくていいの。ディアンは本当に頑張ってきたんだもの。ただの偶然じゃないわ、あなたの実力でお兄様に勝ったの!」
見ていなくて分かると語る言葉は優しいものばかり。
ディアンを褒め、励まし、味方なのだと言い聞かせるもの。自分だけが本当のディアンを知っていると、繰り返し洗脳するもの。
その言葉の重みが。期待が。応えられない不甲斐なさが、どれだけ辛かったか。
……それも全て、彼女が仕組んでいたこと。
「もしかしたら次は負けるかもしれない。でも、ディアンが勝ったのは事実だもの! ええ、そうよ。こんなことであなたが学園に来ないなんておかしいもの!」
「殿下」
「そうだ、もう一度お兄様と対戦しましょう? ディアンなら次も絶対に……」
「サリアナ殿下」
興奮する口は、名を呼ぶことで止まった。
かつての自分なら、ここで押し込められていただろう。そうして、次は負けていたに違いない。
もっと強い負荷魔法と、あるいは彼女自身の妨害によって。やはり偶然だったとされて、再び心を折られただろう。
見え透いた未来だ。……だが、そうでなくとも、もう学園に用はない。
「いいんです、殿下。皆が誤解しようと、認めずとも、私の道は既に決まっています」
「ディアン……?」
首を振る顔に、自然と浮かぶ笑みは穏やかなもの。
もし、これが夢でなく、過去をやり直していたとしても。ディアンは同じ道を選んだ。
いくつか反れたとしても。全く同じにならずとも。その最後だけは、絶対に間違えることなく掴み取ったのだ。
エルドの元に。あの人の傍で生きる未来を。
「私は今、その道を進むために行動しているんです。……他の誰の言葉も、私には必要ありません」
不当な評価も、心ない言葉も、過剰な期待も、疑いも。
クラスメイトも、ラインハルトも、サリアナも、父も。誰の声だって、ディアンを揺るがすことはできない。
後悔するなら、彼と一緒に。共に生きて悔いるのだと、誓いを立てた心はまだ折れてはいない。
まだ、その心は折れはしない。
こんなに穏やかな気持ちで対峙したのは初めてだと、ディアンも自覚している。
今まさに、サリアナが目の当たりにしているのは、エルドの伴侶としての覚悟。
「でも……それは、学園に通ってもできることでしょう?」
「そうかもしれません。ですが、私は教会の指示に従うだけです」
サリアナの笑みに、若干の焦りが見える。彼女が取り乱したのは、ディアンが伴侶になったと突きつけたあの時だけ。
感じ取っているのだろう。告げずとも無意識に。認めずとも、彼女自身の本能が、ディアンが奪われていることを。
取り込まれているのか。あるいは、演じているのか。答えは、まだ出ない。
「ディアン。私との約束は、覚えてる?」
「ええ、もちろん」
「じゃあ……!」
「ですが」
あからさまに眉が揺れる。
終わった今でも忘れなかった。強く、ディアンの記憶に刻まれていた傷。全ての始まり。望まない願い。思い込まされていた道。
だからこそ、ディアンはもう選ばない。
「道は一つではありません。そして、違うと思ったのなら、いつ変えてもいいんです。誰でもない、自分の意志で」
責務や義務はあるだろう。それらを度外視してまで、全員がそうしろとまでは言わない。義務あってこその道も存在し、それに伴う選択もある。
だが、今この時。この瞬間に限っては、断言できる。
私欲のために強いられた道を進む必要はない。従う必要だってない。
これは閉ざされた道。過去の出来事。ディアンの未来にいらないもの。
切り捨てることに、何一つとて、後悔はない。
「ディアン? どうしたの? 自信をなくしてしまったの? もう十分あなたは努力しているわ、だから……」
「殿下」
震える声を、確かな響きが遮る。揺れる青を貫く紫は、かの者の加護を受けて輝く。
決して、今その声を聞けずとも。その存在を感じ取れずとも。その想いは間違いなく、その中に息づいていると証明するように。
「努力だけでは、どうにもならないこともあるんですよ」
「――あ、いた! お兄様!」
揺れる青から、呼びかける声に。こちらに駆け寄るメリアと、後ろから追いかける二人を捉え、向き直る。
「メリア、走ると危ないよ」
「お兄様、ライヒが精霊の本を貸してくれるって! 炎と水の精霊とか、フィリアの本もたくさんあるって!」
嬉しそうにはしゃぐメリアに、ラインハルトもペルデも複雑そうな顔だ。あのメリアが精霊の本を読むこともそうだが、こんなにも喜ぶとは想像もしていなかったのだろう。
ペルデに至っては聞いていてコレだ。ディアンは慣れたが、サリアナも意表を突かれたのか、ディアンへの問いかけも止まっている。
「……大量に借りたがると思いますが、大丈夫でしょうか」
「問題ない。こちらで運ばせる」
視線は依然鋭く。いや、ますます憎悪が増しているように見えるのは、まさに今見えている光景からか。
自ら駆け寄るメリアなど、それこそ、精霊の本以上にあり得ない光景だったはず。
……彼にとっての違和感は、メリアに絡めれば気付かせることができるかもしれない。
「ありがとうございます。……よかったね、メリア。でも、クッキーの欠片で汚さないように気を付けて」
「そんなことしないわよ!」
「じゃあ、フィガリの本に挟まっていたのは?」
「そ、それは……」
「でも、『精霊の花嫁』であるメリアが、食べながら本を読むなんてことはしないだろうし……僕の気のせいだろう。もし食べるとしても、メリアなら本に落とさないように気を付けているだろうしね」
注意ではなく、少しの皮肉を混ぜて。『精霊の花嫁』だから完璧だろうとくわえれば、逆上することなく素直に言うことを聞いてくれる。
当然よ、と胸を張った以上は二度としないようにと自覚してくれる。
もうすっかり、メリアの扱いにも慣れてしまった。
「それより、早く! お兄様も選んで!」
「その前に、手洗いに行かせてくれないか? それまでサリアナ殿下に選んでもらうといい。ラインハルト様も、サリアナ様も精霊史にとても精通いらっしゃる。フィリアの面白い話を聞かせてくれるかも」
「本当!? ね、ねっ! 早く行きましょう!」
「あっ……ま、待ってメリア……! そんなに急がなくても……!」
メリアの腕をとり、勢いのまま廊下へ。不意を突かれすぎて、留まるよう説得することはできなかったらしい。
まるで引き摺られるように連行される姿に、いつぞやの断罪を思い出し……そこまで重々しくはないかと、遠ざかる影にそっと息を吐く。
「本当に、教育は順調みたいだな」
「うん。ラインハルト殿下も驚いていただろうね」
柱の陰から出てきたペルデと合流し、向かうのは手洗いではなく、地下への道。
「そっちも問題は?」
「今のところは。……あとで色々言われそうだけど」
「何したんだよ」
「少し、道を違えることを匂わせただけだよ」
「そりゃあ……荒れるだろうな」
ク、と喉で笑う音は、かの王を思い出させる。
まだ蘇らない半年。それでも刻まれている記憶が、自然と彼を似せるのだろうか。
……記憶がなく、自覚がなくとも繋がっているペルデと。全てを覚えているのに、どれだけ願っても掠りもしない自分と。
比べる意味はないのにと触れた首飾りからは、やはり感じ取ることはできなかった。
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