363.☆現実にて
「……ひとまず、道は確保できた」
深緋が見つめるのは、ベッドに横たわったまま目を覚まさないペルデの姿。
生気を失ったままの肌。規則正しい呼吸。時折揺れる眼球は、今も夢の中に囚われている証拠。
ペルデに寄り添う自分の妖精から目を上げれば、長く沈黙していたジアードに各々の視線が刺さる。
その中でもとりわけ険しいのは、この状況を引き起こした元凶といえる存在。その薄い紫もすぐに落ち、目覚める気配のない己の愛し子へと注がれる。
一度は目覚め、されどすぐに引き戻され。未だ助ける手段を見つけられないディアンの容体は、ゆっくりと。だが、確実に悪化の一途を辿っている。
「これで定期的に情報は伝えられるだろう。……私が意識を繋げてから何分経った」
「……まだ数分だ」
「あちらでは一日が経過していた。時間の流れも異なる。ペルデの記憶は剥奪されていたが、ディアン自身は覚えていると断定していいだろう」
ペルデには見ていないと伝えたが、正確には今後は見られないという意味だ。
中の出来事を垣間見ることはできても、詳細までは潜り込まなければわからない。
ほんの数分、意識下に潜り込んだだけでも魔力の消耗はひどく、何度と繰り返せるものではない。
機を窺う過程で確かめた中の状況も、概ね想定通り。
「それから、貴殿の気配はディアンには届いていないようだ」
純粋な精霊なら常に繋がることもできただろう。だが、ジアードに与えられた負荷は未だ身を蝕み、本来そうしたいエルドは未だディアンと通じることができていない。
脱力する手に力を込めようと、その魔力も呼びかけも響いていないと。改めて伝えられたエルドから漏れるのは、奥歯を噛み締める音。
怒りはディアンをこの状況に陥れた精霊へ。そして……なにより、そばにいながら守れなかった自分自身に対して。
ディアンが再び引き摺り込まれてから、半日。
エヴァドマで監視していたメリア・エヴァンズとラインハルトが黒い霧に襲われ、昏倒した報告を皮切りに各地で異変が発生した。
アンティルダではペルデとジアードが襲われ、各教会に至っては魔物が凶暴化し、スタンピードの兆候が現れたとの報告が相次いだ。
異常は人間界には留まらず、精霊界でも。
妖精が次々に倒れ、妖精樹自体の魔力も枯渇。辛うじてアケディアが対処したことで最悪の事態は免れたが、彼女の意識も今はない。
内部にて懲戒されているアプリストスも生存は確認できたが、彼の魔力も無に等しい。
現在は王宮内に限定し門を開き、何名かの精霊がロディリアに代わり指揮を担っているという。その中に、彼女の憎きシュラハトも含まれているが、やむを得ないこと。
魔物関係はシュラハトが。精霊界に留まっている精霊たちは、精霊樹の維持と原因の究明を。
そして、渦中にいるディアンの救出に回されたのは一人だけ。
「なぜ、こうなるまで放置した」
「……なんだと?」
「何らかの兆しはあったはずだ。門さえ閉じれば大事に至らぬと思っていたのか?」
深緋と薄紫が交差する。
内情を知らないアンティルダとすれば、そう考えるのは道理だろう。だが、事実、今日まで何の兆候もなかった。
門を含め、あらゆる侵入経路を封鎖し。少しでも異常が見られた時点で儀式を執り行う手取りだった。
本来ならば今日、ディアンを人間界に戻した時と同じように、ネロの助力を得て向かう手はずも整っていたのだ。
今日まで何一つ異常はなく、精霊界側からも観測できなかった。万が一を想定し、夜を共に過ごしてまで、ディアンを守り通そうとしたのだ。
それなのに、なぜ。この腕の中にいたのに、連れ去られてしまったのか。
ほんの一瞬、意識が途切れたことだけ覚えている。
精霊であるエルドが眠気を覚えることはない。ましてや、意味もなく意識が途切れるなど。
気配もなく、前兆もなく。気付けば、ディアンは連れて行かれた。
一度は目覚めた彼を、繋ぎ止めることもできなかった。
怒りを、無力さを、誰よりも強く感じているのはエルド自身。
鋭くなる薄紫に精霊の圧がくわわろうとも、ジアードが怯むことはない。むしろ、その光を帯びてなお煮えたぎる怒りは、深緋をより濃く輝かせる。
「真に守りたかったというのなら、なぜ契りを結ばなかった」
「説明する義務はない」
「関係ないとでも? その関係ない我が伴侶を危機に晒したのはお前たちではないか」
僅かに目蓋が揺れる。決別の一連を見届けたのは他でもないエルドだ。
ディアンとの決別を。二度と聖国に交わらない道を。そうして、己の意志で選んだペルデに関わらないことで、エルドは祝福と代えた。
精霊として加護ではなく、中立者としてでもない。これまで巻き込み、狂わせてきた彼の人生への、せめてもの謝罪として。
彼の道、彼の望みが叶えられるようにと。ディアンと共に黙することが、ペルデの願いであると。
……だが、彼はこの地に戻り、今は命さえも奪われようとしている。
彼の恐れたディアンと共に。
「件の精霊を警戒し、精霊界に繋げるのを躊躇していたのだろう。なら、精霊界ではなくこの地で儀式を行えばよかったこと。そうすれば、少なくともこの事態は起きなかった」
「言うだけならたやすい。我々の儀式にはしかるべき理由が伴う。お前の形をなぞらえただけの婚儀とは違う」
ジアードとペルデが婚儀を結んだことは、再会した瞬間から理解したことだ。
魔力を介し、肉体を繋げ。愛し子ではなく、正式な伴侶として彼らは繋がりあった。
それは純粋な精霊ではなく、半分が人の血であったからこそできたことだ。
どれだけディアンがエルドの魔力に馴染んでいようと、同列には語れない。
形骸化された儀式とは違う。
「そのお遊びの儀式であっても、我が愛し子は繋がりを得たからこそ、私の呼びかけに反応した。……それに対し、貴様はどうだ?」
握る手に力が籠もる。だが、ディアンから返される反応はない。
声も、魔力も。今もエルドを求め、足掻いていると知っているのに。今もここにいるのに。
「守ると豪語しながら、実際になにができた? ……いいや、なにもできなかったではないか」
淡々と責める声に、反論する権利はない。明らかな挑発とも理解している。
事実、エルドはなにもできなかった。巻き込まれた側としての怒りは当然。
だが……いや、だからこそ。いかに無力であるかわかっているからこそ、突きつけられる現実に怒りは抑えきれず。
「守るだの、必要だの、本当に言うだけならたやすいな。あと何人の命を犠牲にすれば気が済む」
「黙れ」
「我が伴侶は、貴様の愛し子を守るために道を捨てたのではない。……ましてや、貴様ら精霊に殺されるために諦めたのではないぞ!」
立ち上がったのは同時に。方や行き場のない、方や訴えるに正しい。双方の憤怒が空気を震わせ、一歩間違えれば惨事になっただろう。
「座りなさい、ヴァール」
威圧感に息さえできぬ中、静かな制止が響く。
少女のように愛らしく、されど成熟した女性よりも艶めかしく。有無を言わさぬ響きは、双方の中央。愛し子たちが横たわるベッドの間から。
それぞれの愛し子と手を繋いだまま、淡々とエルドを呼び止める声に、普段の様相は鳴りを潜めている。
細められた緑の瞳。揺れる桃色の髪。
彼女――フィリアがここにいる現状に冷静さを取り戻し、座り直したエルドを咎める視線は、ジアードにも向けられる。
ただし、それは同族ではなく、僅かな慰めも含む目。
「あなたもよ。伴侶を巻き込まれて怒るのは当然。でも、その気力は後のために取っておかないと。今のあなたが動けている理由を忘れないでちょうだい」
深緋が僅かに横に逸れ、鼻で笑うのはせめてもの皮肉か。
襲いかかった精霊の影響は、今もジアードを蝕んでいる。本来なら倒れていてもおかしくない状態で思考し、さらにはペルデを介して夢に潜り込んでいるのだ。
直接魔力を供給されていなければ、すでに倒れていただろう。
繋ぎ止めるのは、愛し子と交わした盟約。ペルデを助けるという意志。
そこに己の加護の片鱗を見た緑が煌めき、この場にそぐわないほど柔らかく歪む
「それに、私たち精霊と人間の契りは、長い時間をかけて魔力を馴染ませなければ愛し子が死んでしまうの。あなたは人間の血が流れているからこの子も耐えられたでしょうけど……人と精霊の違いは、そう簡単に埋まらないわ」
今のディアンは、限りなく人とから離れた存在だ。エルドと時間を共にし、伴侶になる覚悟を固め。もう人とは呼べない領域までエルドの魔力に馴染んだ。
……だが、それでもディアンはまだ人間なのだ。
「たしかにディアンはヴァールの魔力に馴染んでいるけど、儀式には到底耐えられないわ。それに、人間界で契りを結べば儀式の過程で周囲の魔力の薄さに耐えられずに死んでしまう。守る代わりに殺すなんて、本末転倒でしょう?」
「……フィリア。本当にお前の仕業ではないんだな?」
見やる緋色は一つではなく、より鋭い方――デヴァスが改めて問いかける。
すでに否定された答えを問いただすのは、これまでの彼女の行いもあるだろう。
より愛し合う二人の絆が深まるように。より二人の愛が育まれるように。
そう言って試練を与え、無邪気に傷付けたことは数えきれず。首謀ではなくとも、件の精霊に協力したならば重罪。
最後の最後、僅かに残っている信用からの問いに、フィリアから笑みが消える。
「そうね。この精霊は間違いなくディアンを自分のモノにしようとしている。伴侶と宣言した愛し子を奪い取るほどの執着は、アプリストス以上かもしれない。……でも、これは愛ではないわ、デヴァス。私を語りながら、だけど求めているものは大きく違う」
滲む怒りは、なおも関与を疑われたことではない。
執着心は認めよう。精霊王、聖国、なによりヴァールが常に守りながらも、ここまでの事態を引き起こした実力もある。
まだフィリアが協力したと言われた方が納得できるほどに。
だが、その衝動も、渇望も、愛ではない。
フィリアを語りながら、真に求めているのはフィリアではないのだ。
それは精霊への冒涜。彼らが決して許せないもの。許してはならないもの。
「私を疑うより、他にできることがあるでしょう? ……これは私の領分よ、デヴァス」
「……分かり次第戻る」
部屋を出る際にエルドに投げかけられた視線は慰めか、エルドの中にまだ残っていた疑惑に対する答えか。
エルドはフィリアを憎んでいるし、嫌悪している。こんな状況でなければ、共にいることすら許していない。
だが、精霊としての在り方は認めている。
怒りを抑え、意識は壁の中。張り巡らした聖水を通じ、書庫へ。
「イズタム。現状は」
『――メリア・エヴァンズ、ラインハルト両名とも意識混濁のまま。ペルデ同様、取り込まれている可能性は高いです』
「ヴァン・エヴァンズの確認はいつになる」
『門を制限しているため早くとも明日になります。また、アンティルダの鉱石についての解析も難航中です』
「……わかった。分かり次第報告を」
メリアたちの状況は変わらず、被害が国外に及んでいる以上、ヴァンの安否も確かめる必要がある。
妹が取り込まれているなら、ディアンの記憶により深く結びついている父親が巻き込まれている可能性は高い。
もし無事であっても、得られる情報はある。本来なら、あの場にはディアンの母もいなければならない。
正確に過去を模写しているのならば、見過ごせない相違点。当人が既に流行病で亡くなった以上、事情が聞けるのはヴァンだけ。
これ以上の被害を出さないため、人間に門を使用させるわけにはいかず。通信石も、流刑の地に用意はない。
結局、得られた情報は少ないと焦りが募り、見つめるディアンが目覚める気配は、まだ遠く。
「大丈夫、まだ加護は切れていないわ。そのために私がいるんですもの」
普段は煩わしく思う響きも、今だけ心強く聞こえるのは、フィリアの強大さを知っているから。
エルドがディアンを強く想うほどに。ジアードがペルデを助けたいと願うほどに。彼女の力は、彼らの救いとなる。
形は違えど、どちらもフィリアの加護。ただ魔力を繋ぎ続けるだけでも、想い続けるだけでも足りない。
愛し子と精霊の繋がりを保つ役に、彼女以上の適任は存在しない。
……そして、ディアンを繋ぎ止められるのはエルドだけ。
彼を愛し、加護を与え、今も彼を助けたいと願う精霊だけなのだ。
たとえ彼自身にできることが少なく、魔力を注ぎ続けるというたった一つしかできずとも。それこそが、ディアンを救う唯一の方法なのだから。
「……ディアン」
後悔も、怒りも、苦痛も呑み込み。ただ目覚めを願う声に、紫の色が覗くことはなかった。
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