362.☆錯乱
「ペルデ?」
ノックに肩が跳ね、弾かれるようにして振り返った扉に恐れた影はなく。薄暗い空間に、自分がどれだけそうしていたかを気付かされる。
「な……なに、ミヒェルダ」
「具合が悪そうだけど、大丈夫かしら」
あのバケモノが去ってから、もう数時間。日はとっくに落ちて、教会の扉も閉められた。
頭痛と倦怠感に悩まされながらも張り上げた声に気力はなく、ペルデの疲労を知るには十分。
心配されるのも当然かと、吐き出しかけた息は喉の奥につかえたまま。
「なんでもないよ。……でも、できればそっとしておいてほしい」
「わかった。食事は置いておくから、食べられそうなら食べて」
深く追求されないことに安心して、遠ざかっていく足音に力を抜く。
ペルデの調子が悪いとき、様子を見に来るのは決まってミヒェルダだった。
気にかけてもらえる安堵と、父でないことに落胆する気持ち。
言い換えれば、よくあるペルデの日常で……だが、今の一連も本物ではないことを思い出し、和らぎかけた表情が再び沈む。
向き直った机は綺麗なまま。頭が重いままに突っ伏せば、吐いた息は頬へ跳ね返る。
生温い風。じわりと冷めていく温度。少し肌寒い空気。指先で触れる机の感触。
全てが本物にしか思えないのに、あのバケモノは夢だと言った。
信じる信じないの話ではない。今日一日だけでも、歪さには十分気付かされた。
ディアンの瞳に対し、誰も反応しないこと。考えられないほど機敏に動く身体。
ディアンに執着しているはずのサリアナさえも無反応で。自ら与えた首飾りを付けていないことさえも、触れることなく。
ペルデの知っている彼女なら、あの時点で狂乱していたことだろう。詰め寄り、喚き、そうしてまたお願いしていたはずだ。
なのに、誰も指摘するどころか、気付く素振りすらなかった。
ミヒェルダも、バケモノが信頼している、父でさえも。
ディアンの言う通り、この世界のすべてが夢なら、与えられた違和感にも説明がつく。
彼の記憶を元に作られた幻。現実では一年経っていて、その間に何もかもが終わっていたと。
ノースディアは滅び、メリアもサリアナも裁かれて……バケモノは、正しくバケモノだと、証明された。
本当に、夢でなければ説明がつかない。あまりにも都合が良すぎる。
ずっと望んでいたことだ。ずっとずっと、ペルデが抱き続けていた願いだ。
形容しがたい恐怖も、違和感も。いっそ愛し子であればと願っていたすべてに、理由が与えられるなんて。
そう、正しくディアンは人ではなく。そう認識していた自分は、狂ってはいなかったのだと。
この夢が偽物だろうと、本物だろうと。バケモノの狂言であろうと、ペルデにとっては些細なこと。
夢というなら、いい夢とさえ思った。あの一言がなければ、ペルデだって悪夢とは称さなかった。
いつもいつも、ペルデは思っていた。なぜディアンは耐え続けるのかと。
明らかに異様な環境で、到底人には耐えられない状況で。弱音一つ吐かず、ただ真っ直ぐに。挫けることなく、腐ることなく。
大人達に囲まれ、責め立てられ。誓わされた願いを叶えるのだと、ただその一点で進み続ける姿を。
一方で、『花嫁』というだけで許される存在をゆるす歪さを受け入れてしまった矛盾を。
逃げてよかったのだ。怒り、喚き、泣いて。そうして、誰かに助けを求めたなら。
自分を否定し続ける父でも、騎士になれると盲信しきった悪魔でもなく、ただひどいと喚く妹でもない。
グラナートでも、ミヒェルダでも、アリアでも。本当に、誰でもよかったはずだ。
助けを求めれば、逃げたいと願えば、いつだってその手は彼を掴んだはずなのに。
ペルデが抱いていた違和感も、恐怖も。ぜんぶ、ぜんぶ、正しかったと証明されたはずなのに。
もう巻き込まれず、悪魔に脅かされることもなく。穏やかな日々を過ごせたはずなのに。
そうだ。助けを求めればよかった。いつだって、逃げ出してよかった。
――なのに、どうして。掴んだのが自分の手だったのか。
唇を噛み締め、滲む視界を睨み付けて誤魔化す。泣かないのはペルデの矜持だ。
ディアンに指摘されなくてもわかっていた。
いよいよ何かがおかしくなっている。
自分が狂ったわけではなく、純然たる事実として、この世界の方がおかしいのだと。
どれだけ正気を装うとも誤魔化しきれない。なにかが、絶対に違うのだと。
そして、これが夢なら、いつかは醒めると。醒めなければ……それは、いつか破綻する。この幸福が続くことは、ないのだと。
それでも、自分になにができるというのか。
強く見据える紫を思い出し、身体が震える。
人ではない光。バケモノたる証拠。それが、自分に助けを求めたのだ。
あの瞬間、恐怖よりも嫌悪が勝った。ああ、そうだ。関わりたくないと望んだのだ。
ペルデは人間だ。
特別な加護もない。魔力も強くない。知識に秀でているのでも、鍛えているわけでもない。
そんな自分が、ディアンを助ける? あのバケモノを? 無理に決まっている。
ディアンでさえできないことを、どうして自分ができるというのか!
こんな形で助けを求めてほしかったんじゃない。自分ではない誰かに。ずっと待ち望んでいた父に縋るべきだった。
それで終わると思ったのに。やっと、平穏な日々が来ると、思っていたのに。
だが、事実。この夢は永遠には続かない。夢は醒めるからこそ夢であり、現実にはならない。
いつか綻びが出る。そうなれば、取り込まれている自分はどうなるのか。
今度こそ狂ってしまうのか。あるいは、その自覚を得ないまま、死んでしまうのか。
でも、自分にできることなど、なにも――
『随分と疲労しているな』
唐突に響いたのは、ペルデの恐れていた幻聴か。こんなにも早く夢が崩壊したのかと、顔をあげても誰もいない。
『ああ、あの程度で追い詰められたか。この頃はまだ可愛げがあったようだな』
一度目ならば追い詰められたゆえの空耳。ならば、二度目になれば狂人への一歩か。
立ち上がり、周囲を見て。だが、やはり見えるものはない。
疲れすぎているのだと頭を振る。違う、まだ。まだ狂っていない。まだ自分は、おかしくなっていない。
『お前の意識に直接語りかけている。耳を塞いだところで意味はないぞ、ペルデ』
今度こそ、すべてを疑う。目を、耳を、意識を。息を呑み、後ずさった足は机に遮られて逃げられず、そこでやっと、理解する。
――あのバケモノの、声じゃない。
「だっ……誰だっ!」
『そう叫ぶな。この声はお前にしか聞こえていない。気が狂ったと思われるぞ。……今のお前にとっては、その方が救いだろうが』
呆れるような、哀れむような。耳障りな低音が鼓膜から剥がれない。耳を押さえ、首を振り、否定しようとも語りかける声はペルデの内側から響くかのよう。
「お、お前がっ! この夢の犯人か!?」
『単純な思考はこの頃からか。新鮮だが、あいにくと遊んでいる時間はない』
「くそっ、うるさい! 俺は関係ない!」
『ああ、そうだ。お前はもう関係なかった。なにも知らず、なにも悩まず、幸福に生きる権利があったはずだ』
「なにを知ったように!」
『知っているとも、ペルデ・オネスト。お前の苦痛も、怒りも、お前の恐れるすべてを。俺だけは受け入れられる』
頭が痛い。声が、うるさい。知っているはずがない。都合のいいことばかり並べたところで、理解されるはずがない!
どれだけ自分が、あのバケモノを恐れているか!
どれだけ開放されることを夢見て、なのに、どうしてっ……どうして!
「だまれっ! 俺を巻き込むなっ! どいつもこいつも、なんで、俺ばかりっ!」
もはや、なにを口走っているかもわからない。叫んだところで救われない。誰もペルデを助けはしない。
だって、一番見てほしかった父でさえも見捨てたのに。理解してくれなかったのに。
認めてほしくて、なのに――どうして、こんなことを、知っている?
話を聞いてくれたことなんて一度もなかったのに。その機会さえも与えられなかったはずなのに。
どうして、見捨てられたと、覚えている?
『……今のお前には酷なことだが、嫌でも思い出してもらおう。俺の目的のためにもな』
答えは待たない。ただ、淡々と与えられるのみだ。
ペルデの意思に関係なく。そうであれと望まれるまま。これまで通り、都合よく。抗おうとも嘲笑うように。
『耐えろ、ペルデ。……そして、俺を恨み、許すな』
閃光が走る。いや、それは光ではなく、痛みゆえの錯覚。
これまでの頭痛の比ではない。脳を直接割り開かれ、神経が引きちぎられているかのよう。
だが、もっとも耐えられないのは、流れ込む膨大な光景。感情の波に呑まれ、肺が押し潰されて息ができない。
苦しさに喘ぎ、のたうち。耳を支配しているのが己の悲鳴か、耳鳴りか。それすらも、呼び起こされる記憶が覆い尽くしていく。
拒絶も、否定も、許しも、懇願も。切り刻まれ、混ざり、溶かされて。
判別できるはずがないのに、わかる。聞き取れないほど膨大なのに、理解してしまう。
気が狂う最中。ペルデを正気に引き戻したのは、たった一言。
――それでも、私はお前を、守りたかっただけなんだ。
気付けば、ペルデは床に倒れていた。
いつからそうしていたのか。いつまで、そうしていたのか。
まるで息を吹き返したように、ゆっくりと心臓が鼓動を刻む。
いいや、確かに今。ペルデは生き返ったのだろう。
あの日、父とわかり合えぬと理解し、一度死んだのと同じく。忘れ去ろうとした現実は、ペルデの元へ戻ってきた。
床に手をつき、立ち上がる榛に恐怖はない。
ギラつく光に宿るのは、純然たる怒り。
……ああ、結局は、こうなったのだと。
『思い出したか?』
問いかける声には答えない。声の正体はわからなくとも、聖国の誰かというのは確かだ。
随分と意地が悪いと睨み付けても、そこに声の主人は存在しない。少なくとも、この夢の中には、形すらもないのだろう。
『その様子だと途中までのようだな。聖国にいる間のことはどこまで思い出した?』
「……俺の中にいるなら、聞かなくてもわかるんだろ」
『意識に語りかけているのであって、お前と共存しているわけではない。それから、恨めとは言ったが拗ねろとは言っていない。必要なことだ、答えろ』
「…………聖国で住みだした以降は、なにも」
『それだけ覚えていれば十分』
満足げな声に舌を打ち、荒く口元を拭う。
頭の中で光が飛び交う。
ディアンが消えたと知った喜び。グラナートに切り捨てられたと理解した絶望。なおもディアンを求め、自分を利用するサリアナへの怒りと恐怖。
すべてに裁きが下されても、何も終わらなかったことへの、虚無。
ああ、覚えている。この記憶が真実だと、他でもない自分の身体が覚えている。
あれから一年。大して状況は変わっていないのだろう。
自分はまだあのバケモノを恐れ、司祭は贖罪に固執し、自分は終わりを待っていたのだ。
ディアンがあるべき場所に導かれ、目の前から消えるその日を。
そうして、やっと開放される時を。……それは、もう目の前にあったはずなのに。
込みあげる怒りを、今は抑え込む。自分の意志が関係ないことは、いつものこと。
必要なのは、この最悪な夢から抜け出すための方法。……そして、疑問に対する答え。
「あんた、何者だ。聖国の人間じゃないだろ。……どうして俺の記憶を蘇らせた」
女性しか許されない禁制の場所。例外が何人も存在するはずがない。
ディアンではなくペルデに接触したことも異常だ。単純な味方とは言えない。
「お前の目的とやらに、どうして俺が関係している」
『その通り、俺は聖国に関与していない。お前の記憶を戻したのは目的のためだが、理由を話してやる義理はない。だが、我々は協力しあえる』
「協力?」
『俺は目的を果たすためにお前を利用し、お前はこの悪夢から出るために俺を利用する。悪くない話だろう?』
目的とやらを明かす気はないらしい。なぜそれに自分が関与しているかも同じく。
あのバケモノを加護する精霊がいながら、この事態が引き起こされた。その時点でエルドを上回る精霊ということだ。
ディアン一人だけではどうにもならない。そして、ただの人間がどうにかできる話ではない。
……だが、単純に助けると言われるより、まだ信憑性がある。
「なんて呼べばいい」
『好きなように呼べ。……ただし、俺の存在は誰にも明かすな』
「ディアンを助けにきたんじゃないのか」
『この対話が、現実と夢を繋ぐ唯一の手段だ。ディアンが気付けば、そこから犯人に干渉されかねん。我々は最後まで、この事態を引き起こした精霊を欺かなければならん』
「……なら、共犯ってわけだな」
『ああ、それがいい。俺のことは共犯者と呼べ』
精霊も、精霊に魅入られた者も。この世界ごと騙し通せとは無茶を言う。
助かる手段があるのに、それを共有しないのは、一種の裏切りにもなるだろう。
秘密を抱えるのはお前も同じと呟けば、声の主人は存外気に入ったらしい。
『よく聞け。いつでもお前と話せるわけではない。定期的にこちらから繋ぐ。その間、どんな情報でもいいから仕入れておけ』
「俺を観察できるわけじゃないんだな?」
『繋いでいる間だけだ。また、報告は口頭のみ。覚え書きだろうと、物理的に残る手段は禁ずる』
「忘れず全部覚えてろって?」
『お前なら容易だろう?』
ふつ、となにかが途切れるような感覚。頭の中ではなく、自分の奥底。もっと根本から抜け出すような、言い知れぬ喪失感。
独特の感覚を不快に思う間もなく荒い足音が近付き、扉が開かれる。
飛び込んできたのは赤い光。見上げた顔は、焦りに満ちたもの。
「ペルデ!」
肩を掴まれ、覗き込まれる。反応が遅れたのは、思い出してしまった弊害のせい。
誰から見ても、息子を案ずる親の姿。実際、グラナートはペルデを心配してここまで来ただろう。
普通の反応だ。ディアンの言う整合性というのにも一致している。
違和感を抱くのはペルデだけ。
……違和感ではなく、不快と呼ぶべきだったか。
「大丈夫か? なにがあった?」
「すい、ません。虫がいて、驚いた、だけです」
「虫が? ……そ、うか」
見え透いた嘘。わかりきった建前。それでも追求することなく、すんなりと離された肩に残る熱。
覚えているのに、思い出せない。でも、確かにあったという、埋め切れない空白。
「申し訳ありません」
「いや、なにもないならいいんだ。……おやすみ、ペルデ」
淡々とした対話。閉じられるドア。大きく息を吸って、吐く量は小さく。
そうしても落ち着かない鼓動は、共犯に至る一連ではなく、未だ残る温度。
思い出しきれなかった記憶の一部よりも、重くのしかかるのは確かに蘇った悪夢。
――お前を守りたかっただけなんだ。
「……その結果がこれなんだろ、父さん」
呟いた声は、聞かせたい相手には届かず。
やはり分かりあうことはできなかったのだろうと、榛は静かに閉じられた。
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