356.二度目の悪夢
ということで、結婚式前夜編改め、疑似転生編開始です。
肌寒い空気。殺風景な部屋。素足に触れる床の感触。膨らむ肺と、穿つ鼓動。握り締めた首飾りの固さと、返される痛み。
もし初めからこうだったら、過去の夢を見ているだけと思っただろう。
シャツに手を通し、ボタンを留める感覚も変わらず。肌に沿う布の質感だって、現実と相違ない。
もう見るはずもなかった制服姿を眺め、ゆっくりと息を吐く。
どれだけ現実に似ていようと、ディアンは分かっている。
これは夢であり、自分はなんらかに巻き込まれたのだと。
状況から考えれば、件の精霊だと断言できる。
精霊界から人間界に戻る際、ディアンを妨害し、半年前の婚約式でもペルデを襲った存在と同じ。
聖国も精霊も、引き続き調査を進めていたが、その正体は判明しなかった。
精霊樹の養分となったサリアナが……という可能性もなかったわけではない。
だが、いかに魔力を有していても、何人の精霊から加護を賜っていても、彼女は人間だ。精霊を超える力はないと判断された。
アケディアも調査を行ったが、確信を裏付ける答えしかなかった。
アプリストスほど顕著ではなくとも、ディアンを狙っている精霊は多かった。その内の誰か、と片付けるにはあまりに不可解な状況。
強い魔力の痕跡から特定できると思われたが、実際は誰にも該当しないことだけが確認された。
婚儀を急ごうにも、門を開けば襲撃に遭う可能性があるかぎり、強行もできなかった。
残り半年の猶予は、ディアンが人間として過ごせるのと同時に、彼が無事に精霊界に渉る手段を整える時間ともなった。
以前に聖水を供給する門を広げたのと同じように、直接精霊界の道を繋ぐのは容易なことではない。
できうる限りの手段は取った。門は閉鎖し、あらゆる策を講じ。そうして、明日を迎えるはずだったのに。
荷物を手にし、扉を抜ける。廊下も、壁に飾られた絵も。よりディアンの記憶どおり。
一度目でも違和感があったのは、自分に接する者の反応だ。
メリアも、父も、サリアナも。グラナート司祭も、ペルデも。本物に見紛うほどに精巧で、だからこそ受け入れられなかった違和感。
通り過ぎたメイドに無視されたことから、今回はよりディアンの記憶に寄せているのだろう。
先ほどと同じようにはいかない。それだけの強い意志と目的を、ディアンは今まさに突きつけられている。
自分の記憶が正しければ、この後に待っていることは想像がつく。
そして、それを確かめることこそが、今のディアンにできる唯一。
情報が足りない。どこまでが自分の記憶通りなのか。自分を夢に落とした精霊の目的は。どこかに、この窮地を脱するための手がかりはないのか。
確かめなければならないと、開いた扉の先。必ず顔を出していた食卓も、ディアンの記憶の通り。
「遅いぞ、ディアン」
……だからこそ、ディアンの顔が強張り、呼吸が止まる。
座っているのに、上から押さえつけるような圧迫感。貫く視線の色は、今は失われたはずの加護の色。
だが、違和感などあるはずがない。その姿こそディアンが記憶している通りの、父の姿なのだから。
「いったいなにをしていた」
「……申し訳ありません」
口から自然と出た謝罪は、この家にいる間に何百回と呟いたものだ。
普段の鍛錬。試験の結果。些細なミスに、メリアへの対応。
一つ一つを思い出すにはあまりにも些細すぎても、当時の自分にとっては重くのしかかっていたもの。
非を認めなければさらに咎められ、受け入れようとしても受け入れきれず。
自分の努力が足りないせいだと。悪いのは、実力に昇華できない自分自身だと。英雄の息子と呼ばれ、その期待に応えられない自分だけが、悪いのだと。
辛い訓練も、理不尽な叱咤も、そう思わなければ耐えられなかった。その果てに、いつか父に認められることだけがディアンの支えだったのだ。
……故に、真実を知ったあの日。どれだけ絶望したか。
今でこそ理由を知っている。サリアナの影響を受けていたことも、耐性のない父に抗うことが難しいことも。
そう。どう足掻いても、ヴァン・エヴァンスは自分を認めることはなかった。
過去として受け入れたからこそ怒りはなく、虚しさと、淡々とした事実だけを受け止める。
自分の居場所はここではなかった。自分が求めている場所は他にある。そして、自分を大切にしてくれる人は、そこで待っている。
今も、自分のそばで。感じずとも、確かにそこで。
「なにを呆けている。早く座れ」
「……はい」
握り締めた首飾りを離し、かつての定位置に。
だが、イスを引きかけたところで違和感に気付き、手が止まる。
母が座っていた場所になにも置かれていない。
メイドが忘れたと言うよりも、最初から誰もいないように扱われている。
明確な相違点。だからこそ、新たに浮かぶ疑問。
……この夢に、母は存在しない?
「ひっ……!」
息を呑む音は、ディアンではなく扉の元から。仮説が正しいならば、あとに入ってくるのは一人だけ。
薄桃色の光を放つ金の髪。透き通るほどに白い肌。『精霊の花嫁』と呼ばれるに相応しい愛らしさを授かった姿も、やはりディアンの記憶の通り。
一度目に見せられた夢と変わらず。
……だが、新緑を思わせる大きな瞳はより見開かれ、つぶらな唇は指に隠されている。
「どうした、メリア」
問いかける声は優しく、父として見せる姿は記憶通り。
それがメリアに与えられた加護の影響だとしても、ディアンが覚えているのは今の姿だけ。
ただ、メリアの反応だけが噛み合わない。
その目はまるで、恐ろしいものを見たかのように。
「お……お兄様の目、変よ」
「なにがだ」
「おかしいじゃない! だって、こんな色じゃなかったわ!」
指を差し、叫び。異常だと喚く妹の言葉を理解するのに時間がかかったのは、ディアン自身が完全に忘れていたからだ。
鏡を見てもなお気付けなかったほどに馴染んでしまった薄紫は、この時にはまだ授かっていないエルドの色。
どんな加護を持ってしても変わらぬはずの黒は、彼の存在を裏付けるように、薄い色素をたもっている。
言われなければ気付かなかった。そして、本来であれば気付くはずがないのだ。
これが夢の中で、ディアンだけの中で完結しているのなら。自意識にないことは具現化されないはずだ。
ならば、なぜ。メリアは喚き、怯えた顔をしているのか。
なぜ、ディアンが気付けなかった違和感を指摘できたのか。
「なにを言っているんだ、メリア」
「だって、お父様!」
「早く座りなさい、食事が冷めてしまう」
宥める口調はディアンの記憶にあるのに。確かに過去をなぞっているのに、今はその対応こそが強い違和感を放つ。
ディアンが自覚してなお、指摘されない現状。瞳の色が変わったのなら、真っ先に考えるのは精霊から加護を与えられた可能性。
だが、指摘どころかおかしくないとまで言われた。これは、ディアンの知っている父親からあまりに乖離している。
ようやく座るも納得できていないメリアの視線はもう合わない。
自分だけが違和感を抱いていることへの混乱と、ディアンに抱く不快感。感情を隠しきれず表情に出ているが、困惑しているのはディアンも同じ。
存在の消えた母親。変わっていない瞳の色。そして……気付いたのが、メリアだけという事実。
まだ理由はわからない。だが、目覚めるための手がかりは、ここから掴めるはずだ。
そして……そのための情報は、まだ足りない。
啜ったスープが夢と思えないほどに冷たくとも、ディアンを夢から起こすことはなかった。
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