351.結婚式前夜
吐息が壁に跳ね返る音が聞こえなくなれば、再び静寂が身を包む。
もう何度読み返したかも覚えていない本を閉じ、蝋燭を消しても目は冴えたまま。
椅子に座り直しても気持ちは落ち着かず、窓があれば外が見えたのにと考えて、夜明けの遠さを自覚しただけだろうと天を仰ぐ。
見慣れてしまった白一色の天井も、今夜で最後と思えば感慨深くもなる。
煌めく紫が目蓋の裏に隠れようとも眠気は来ず、よぎるのは長いようで短かったこの一年。
家を出てから聖国へ来るまでの一ヶ月。精霊界で過ごした期間。本来行うつもりのなかった婚約式。
様々な出来事が脳裏をよぎり、より遠ざかる眠気の代わりに触れたのは、冷たい感触。
「もういい加減、寝るべきでは?」
湿った鼻先から、頭部へ。手の平を押す感覚が変われば、続けて柔らかな毛の感触も。
忠告が入る頃だとわかっていただけに、抱くのは驚きではなく少しの申し訳なさ。
ディアンを守ってくれているゼニスに睡眠は不要だが、それが起きていていい理由にはならない。
「ごめん、あと少し――」
「十分前にも聞きましたよ」
呆れた声はエルドに対するものと同じぐらいに冷たく。だが、声ほどには怒っていないことも、ディアンはもう知っている。
怒られていることには変わりないかと苦笑すれば、吐き出された息は少しだけ大袈裟なもの。
視線は無意識に握っていた首飾りから戻り、紫と蒼が交差する。
「眠れませんか」
「……いろいろ考えてしまって」
部屋に戻って、かれこれ数時間。
つまり、ディアンがベッドに入る時間からも同じ時間が過ぎていることも示している。
今まで観察していたのなら答えもわかりきっているだろう。だからこそ、これは質問ではなく自分への配慮だと気付き、素直に言葉にする。
気遣いの方法がエルドに近いのはゼニスが似たのか、彼が似たのか。
聞けばそれこそ怒られるだろうと苦笑すれば、心中を知らぬゼニスの視線は優しいまま。
理解しているからこそ、見逃してくれていた彼も、日付を跨ぐまでは許してくれないらしい。
明日も朝は早く、儀式は午前中に執り行われる予定だ。
女王も、イズタムも、トゥメラ隊も。そして、エルドだって。明日の為に、細心の注意と準備を進めてきた。
儀式の当事者が寝坊するなんて、万が一にも許されないこと。
わかっていてもベッドに向かえないのは、眠れないとわかっているから。
当然だ。いよいよ明日、ディアンは精霊の伴侶として、この人間界を去るのだから。
厳密に言うなら、また戻ってくるつもりだ。
エルドの隣がディアンのいたい場所。エルドが人間界に留まりたいのならば、ディアンもそうしたいと願うのは道理。
精霊界の空気に馴染んだ後に戻る苦痛は筆舌に尽くしがたいと聞かされたし、何度も説得されたが、最終的には精霊王からも許可が下りた。
徐々に身体を慣らしていく予定だとは聞かされたが、まずは明日の婚儀が終わってからのこと。
数年単位で終わるとはディアンも思っていない。十年、二十年。あるいは、数百年。
短期間に戻ってこられたとしても、そこは既にディアンの知る人間界ではなくなっているだろう。もちろん、自分によくしてくれた人たちも、その頃にはいない。
女王陛下やイズタムたちは変わりないだろう。
アンティルダに行ってしまったペルデに関しては分からないが……グラナートとの挨拶は、先日終わらせた。
自分の父は元より会うことはなく、メリアも今は生きているかさえも不明。
今もどこかで。できれば、彼女を最後まで守ろうとしてくれたラインハルトがまだ一緒にいてくれることを願っている。
後悔はないと断言できるのに、次々に思い浮かぶ記憶を振り払えず。やっぱり眠れそうにないと息を吐いて、見守ってくれる蒼を見つめ返す。
「最後まで、ゼニスには迷惑かけっぱなしだったね」
「否定はしませんよ。特に最近は誰に似たのか、我が強くなっているようですし」
「そうかな」
「ええ、人間界に戻ると精霊王を説得したあたりなんてそっくりです」
最初は我が儘すら言えなかったのにと、懐かしむような口調でもしっかりと棘を刺され。
エルドに似たのはむしろ自分の方かと笑みに苦味が増せば、蒼が綻び煌めく。
「諦めようとした時に比べれば、今の方がいいと思ってますよ。個人的にはね」
雪解けを思わせる、透き通った光の中。思い出すのは、聖国へ向かう途中に、彼から与えられた助言。
……本当に、彼にはずっと、助けてもらってばかりだ。
旅をしていた間も、聖国に来てからも。そして、今だって。
「撫でてもいい?」
無言は肯定だと解釈し、そうでなくても目を見れば分かると、床に膝をついて手を滑らせる。
犬扱いされることを好まないのに許してくれるのは、彼の優しさなのだろう。
「不安になると、撫でる癖は変わりませんね」
「ごめん、つい」
「後悔していますか」
指先が止まる。近くなった蒼の中、煌めく紫は揺るがない。
不安かと聞かれたなら、否定はしなかった。
父親のこと。メリアのこと。サリアナ、ラインハルト、ペルデ。考え出せばキリがなくて、それでも割り切るには大きすぎるもの。
この先も、切っ掛けがあれば思い出してしまうだろう。
いい記憶ではなくとも、ディアンが人間だった頃の証明だ。詳細を忘れても、完全に忘れきることはできない。
……それでも。
「それだけはないよ、ゼニス」
「……ええ、そうでしょうね」
わかっていたと笑われ、自然と肩の力が抜ける。
ゼニスもずっと見守ってきてくれたのだ。
ディアンの思いも、その言葉に偽りがないことも。ゼニスもエルド同様に理解してくれている。
「……ありがとうゼニス。あなたがエルドと一緒にいてくれて、本当によかった」
彼がいなければエルドに思いを伝えることもなかったし、今のエルドもいなかっただろう。
成り行きであっても、彼がエルドの従者だったから。彼が、エルドと共にいてくれたから。
ディアンはエルドの唯一であり、たった一人の愛し子。特別だと自覚はしていても、彼の立場に代われるものではない。
長い年月を共にしたからこその関係。築いてきた信頼。
彼がエルドの友で本当によかったと、込みあげる気持ちのままに伝えれば、ないはずの肩をすくめる動作を空見する。
「お礼は無事に婚儀を終わらせてからにしてください。……それと、感謝の言葉を向ける相手は他にいますよ」
示された扉の先。近づいてきた魔力の気配に気付けば、もう他のことは考えられない。
音もないまま扉が開き、暗がりの向こうから見えたのは、誰よりも見慣れた姿。
見開かれた薄紫はすぐに細まり、呆れ混じりの溜め息に混ざるのは、隠しようのない柔らかさ。
実際に姿を見たディアンが驚かないのは、きっと来ると思っていたから。
それでも、実際に姿を見て、確かめて。綻んでしまう顔を、戻すことは難しい。
「……エルド」
「まだ寝てなかったのか」
手の中からすり抜けた温もりは、ベッドのそばにある定位置へ。
出る幕はないと早々に丸まった彼から視線を戻せば、扉の前にいたエルドはもう目の前に。
差し出された手から伝わるのは、ゼニスよりは低い体温。だが、ディアンにとっては、なによりも優しい温もり。
「すいません。色々と考えてしまって」
「まぁ、そうだろうな。……どうした?」
問いかけた本人もわかっていただろう。
あえて聞いたのは咎めるためではなく、謝罪させたいわけでもないことを、ディアンもまた理解している。
姿勢を戻し、向き直る。その一連で蘇った記憶に笑みを深めれば、真っ当な問いかけが落ちてくる。
「いえ。思えば、眠れない時はいつもそばにいてくれたなと」
出会ってからオルレーヌに向かう旅の間も、聖国に着いてからも、添い寝こそ許されなかったがずっと一緒にいてくれた。
ディアンが自分から探した日もあるが、隠そうとした時もエルドの方から会いに来てくれたのだ。
それはきっと偶然ではなく、休めているか確かめていたから。
ディアンが思う以上に、エルドはこうして来てくれたのだろう。
……明日を控えた今も、同じく。
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