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【書籍化】『精霊の花嫁』の兄は、騎士を諦めて悔いなく生きることにしました【BL・番外編更新中】  作者: 池家乃あひる
~婚約式編~

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閑話⑪救済の国

閑話更新月間ラストは、いつかあっただろう精霊たちの会話です。

三月からは番外編③の更新を開始いたしますので、よろしくお願いいたします!

 ひどく、乾いている。

 ヴァールがこの国に入ってからずっと、土も、空気も。感じられるあらゆる全てが渇きを訴えている。

 魔力に至っては、人間界に馴染んでいるヴァールでさえも苦痛を感じるほど。

 王宮を進むごとに緩和されてはいるが、普通の精霊では耐えられなかっただろう。

 だが、精霊界への帰還を命じられてから数百年。

 すでに人間界にいる精霊の数は減り、残っているのも限られた者ばかり。

 自らが消えると理解してもなお、留まらせるほどの存在があったからこそ、彼らは人間界に残ったのだ。

 ……それは、今から会う彼女も同じ。


「こちらです」


 先導する男が、ゆっくりと扉を開く。兵士たちの鋭い視線を甘受し、踏み入れた中は想像よりも質素な部屋だった。

 広さこそ、国の長に相応しく。だが、飾られている装飾品は城下で見かけたものばかり。

 彼女を慕う民からの捧げ物と気付くのはたやすく。寝台が窓辺に置かれているのも、民を見ていたいという彼女の希望からだろう。

 城下から部屋へ。そうして、客人を見つめる穏やかな赤い瞳。

 差し込む光に照らされた同色の赤にデヴァスの姿を重ね、より深い色合いに違うものだと改める。

 開かれた扉の外。まだ鋭い視線を投げる兵士とは違い、彼女の視線は穏やかなもの。

 何百年経とうとも、記憶に変わらぬ姿。明確な変化は、その腕に抱かれた赤子の存在だろう。

 髪飾りに手を伸ばし、シャラリと擦れる音に笑う姿は、人間の子どもと相違ない。

 だが、母を見上げる瞳は紛れもなく、人ならざる光をもった者。


「久しぶりね、ヴァール」

「……ああ」


 想定していた最悪こそ回避できても、再会を懐かしむには複雑だ。

 精霊としても、互いに背負ってしまった立場からしても、手放しに喜べる状況ではない。

 だが、困惑しているのはヴァールだけ。緋色は穏やかなまま、案内した男へと視線を移す。


「大丈夫、古い友人なの。……少し、二人きりで話したいわ」

「外で待っていても?」

「忙しいのに大丈夫なの?」

「妻の無事を確かめるぐらいの時間はある」

「まぁ」


 クスクスと笑う声の中で、彼女と同じ緋色が薄紫と交差する。

 名目として与えられた役職ではなく、精霊として。自身の伴侶の友人としての対応に兵士たちの警戒も少しだけ緩まるも、完全に無くならないのは当然。それだけ彼女が人に求められて、慕われてきたということ。

 だからこそ、まだ彼女はここに存在しているのだ。

 ……いつ消えてもおかしくはない、この不安定な状態でも。


「せっかく来てくれたのに、ごめんなさい。近くへ来てくれるかしら」

「……今のが、お前の愛し子か」

「ええ、私の大切な伴侶よ。可愛いでしょう?」


 ヴァールの記憶が正しければ、精霊が人間界を離れる前に選定していたはずだ。

 彼と、彼の守る民を守るために。その為に、自分は残るのだと。

 そう言葉を交わしたのは、かつては一瞬と呼べた年月。自分たちにとってはもう、遠く長い昔のこと。


「彼に限らず、この国にいる人間はみんな可愛いわ。ふふっ、確かに横になってばかりだけど、あの子たちより強いのは変わりないのに」

「それだけ慕われているということだ。……相変わらずのようで、安心した」


 一層緋色が柔らかく笑む。

 何百年経とうと、彼女の国は変わらない。たとえ住み慣れた土地を追われ、安寧を奪われ、全てが無に帰し、やり直すことになっても。

 その過程でどれほどの怒りに触れ、絶望に揉まれ、否定されようとも。彼女は彼らを愛し、求め、守り続けてきたのだ。

 そうして、今も変わることなく。


「あなたも変わっていないわね、ヴァール」

「そうでもない。……色々と、やるべき事が増えた」

「ここに来たのも、その為でしょう?」


 明確な否定に対し、彼女の笑みは崩れない。唇は緩く弧を描き、分かっていたと答える声には何も滲まない。悲観も、怒りも、諦めも。

 ただ確かめるように、ヴァールが差し出した書簡を見つめるだけ。

 染められた便箋の色は、聖国の色と定められた蒼。

 シュラハトが犯した愚行。一方的な略奪。非のない人間たちを、自分が存在したというだけで多く失わせた事実。

 かの簒奪において失われた命はなくとも、結果としていくつもの人間を失うこととなった。

 流れた血の赤を掻き消すような深い深い蒼は、ロディリアの罪の表れでもある。

 二度と精霊によって、人が脅かされることのないように。二度と同じ過ちが繰り返されないように。

 決意を込めた深き蒼は、ヴァール――否、エルドの纏う正装にも含まれている。

 エルドがアンティルダに訪れたのは、かつての旧友に出会うためではない。

 ロディリアの代行者として。正式な教会の代弁者として。そして、唯一の『中立者』として、エルドはアンティルダへ来たのだ。

 精霊と人間、双方の共存のために。


「オルレーヌ女王陛下より、こちらの書状を預かって参りました」

「……そう。シュラハトの子は、もうそんなに大きくなったのね」


 差し出された手紙を受け取ることなく、視線は腕の中へ落ちる。母の髪を掴み、躊躇いなく口に運ぶ姿は、やはり人の子と変わりない。

 それを見つめる彼女の視線も、知らなければ母親にしか見えなかっただろう。

 同じ愛し子。同じ、精霊と人の間に生まれた子。されど、境遇はすでに異なっている。

 方や望まれずに産まれたと殺されかけ、方や望まれ慈しまれている。

 アピスも、ロディリアを愛していなかった訳ではない。エルドから見ても、母としての愛情はあった。

 それ以上に、アピスは彼女に強さを求めたのだ。

 いつか離れ、二度と会わぬ子が。助けを求めても助けることのできない我が子が、重責に潰されないように。

 こうして抱いた姿こそ、エルドは数える程しか見ていない。だが、その笑みだけは、アピスも彼女も相違なく。


「愛し子の成長って、思っていたよりも早いのね。どれぐらい大きくなったの?」

「……」

「女王陛下についてのいかなる情報も内密のこと、だったかしら」


 笑う声は変わらず。視線もまた、移らず。書簡はエルドの手に残ったまま、開かれることはない。


「そろそろとは思っていたけど、本当に来るなんて。さすがのあなたでも、ここの空気は辛いでしょう?」

「……知っていたのか」

「ええ。その手紙も、シュラハトの行為に対する謝罪と、聖国のできうる対策についてでしょう?」


 溜め息は、取り繕うことへの諦め。そもそも、同じ精霊相手になにを偽る必要があると力を抜いてしまえば、ベッドの端を促されることにも抵抗できない。

 彼女の言う通り。ロディリアから託された書簡の内容は、アンティルダから土地を奪ったことへの謝罪と、支援の申し出。そして、両国の和解。

 これまでの仕打ちを考えれば、許されないことは明らか。許されずともロディリアはアンティルダへの支援を行うつもりだ。

 海にこそ面しているが、年中を通して乾燥している気候のせいで雨は降らず、内陸に近づくほどに魔力は枯渇している。

 本来なら妖精が魔力の循環を担うが、この地に精霊門はなく。今はまだたもっているが、やがては滅んでしまうだろう。

 他の地域に残った精霊の対処はすでに整った。残るはアンティルダだけ。


「閉ざされた国ではあるけど、それぐらいを知る力はまだ残っているわ」

「代理で来たとはいえ、ロディリアの気持ちに偽りはない。直接出向くと言った彼女を俺が止めたんだ」

「当然でしょう? そう簡単に国を治める者が来るべきではないわ」


 むしろ止めていなければ怒っていたと寄せられた眉は、すぐにほどけていく。

 聖国の王というだけではない。愛し子が人間に与える影響は強い。環境が整うまでに、どれだけの被害があったか。

 魔力を持つ人間でさえそうだ。アンティルダの民は無事ではいられなかっただろう。

 この王宮にいるのも、まだ魔力を有している者だけなのは入った時から気付いていた。

 十年、二十年。遠くない先で数は減り、やがては一人もいなくなる。

 彼女の愛した愛し子と、その間に産まれた子以外は。


「お前の赦しさえあれば、すぐにでも門を設置する準備ができている。食料と水、他にも必要な物資は可能な限り用意しよう。対価も恩も求めていない。これは、聖国がアンティルダに対し行うべき贖罪だ」


 彼女一人に対し、シュラハトは他の武具に関わる精霊を引き連れて譲与を求めた。元々力を持たぬ精霊に暴力で訴えたことは、エルドの記憶にもまだ新しい。

 当時を知る人間はすでに還ろうとも、その傷と苦痛が癒える訳ではない。

 精霊同士の諍いは昔からあったことだ。奪い、奪われ、仕返し。愛し子を巻き込んだ闘争など、数えきれないほどに。

 だが、ロディリアにとっては違う。何と言おうと、否定しようとも、彼女にとっては己の罪だ。

 自分が産まれなければ、犠牲になる人間はいなかった。

 快適というだけでシュラハトが与えようとしなければ、関係ない者たちが死ぬことはなかった。

 アンティルダの一連を知ったあの日から今日まで、ロディリアが悔やまなかった日は一度だってなかった。

 門の設置も、物資も、食料も。全ての手はずは整っている。

 赦しもいらない。恩を与えたいのでもない。

 求めるのは、アンティルダの地に足を踏み入れる許可のみ。


「シュラハトの行為はともかく、何も知らなかった赤子を恨むほど落ちぶれてもいないわ。謝罪こそ受け入れるけど……その提案に関しては受け入れられない」


 たまらず名を呼び、絡む緋色に揺れはなく。怒りも悲しみもない、強い意志に、受け入れかけた自分に首を振る。


「分かっているんだろう。このままだと、お前の身体はもたない」

「そうね。良くて五十年……もっと短いかしら。愛し子がどれだけの早さで育つかはわからないけど、大人になるまで見守れそうにないわね」

「わかっているのなら――」

「ヴァール」


 声が落ちる。言い聞かせるように強く、どこまでも優しく。穏やかな瞳は外へ注がれ、つられて薄紫も窓を見る。

 遠くに見える町並み。蠢く小さな影の全てが、彼女の愛し子たちの姿。


「この国に来て、どう思った?」

「……よく、生きていると」


 エルドでなくとも、聖国に携わる者なら同様に抱いたはずだ。

 他国との交易もなく、食料も水も限られている。そんな中でも経済が回り、人が営み、家畜まで育てているとは正直予想していなかったことだ。

 豊かとは言えず、環境も過酷だ。それでも、魔力の乏しいこの地で、彼女の愛し子たちは懸命に生きている。

 彼女の加護の力もあるだろう。だが、他の地に比べれば微々たるもの。到底土地を支えられるものではない。

 それはつまり、精霊の加護なしでも、人間たちが生きているということ。


「ええ。魔力が薄いから緑も少ないし、水も十分とは言えない。かつての場所に比べれば、ここは人間にとって辛い場所だったわ。でも、野菜を育てることもできるし、地下から水が湧いている場所もある。愛し子たちはみな知恵を振り絞りながら、今日まで命を紡いできたの。……私の加護がなくても、十分にね」

「それは……」

「聖国の補助があれば、この国の抱えている問題は全て解決するでしょうね。私はこの子たちの成長を見守ることができるし、民は苦しみから解放される。伴侶の煩いも消えるし、いいことばかりだわ。でも、聖国の施しを受け入れるのは、精霊の支配を受けるということ」

「……支配?」


 呟きは、存外大きく響く。あらゆる返答を想定していたエルドでも、その言葉は意外でしかなかった。

 いや、そんな発想さえなかったのだ。

 精霊は人間を求め、愛し、加護を与える。故に人間は精霊に感謝し、祈り、存在を肯定する。

 与えたからこそ返ってきたものだ。その循環を強要したわけではない。

 人間が自ら与える感情でなければ意味がない。ましてや、無理に引き出したとて満たされるものではないはずだ。

 なのに、彼女はなぜ支配と呼ぶのか。


「聖国はあなたの助力を得て、精霊への信仰を確固たるものへと変えていった。それは、他の精霊がここに存在していた当時よりも厚く、決して代替のないものにまで昇華したわ」

「……これ以上、精霊の数を減らすわけにはいかなかったからな」


 たった百年。精霊にとってはほんの一瞬。

 それでも、存在を忘れられた者の数はあまりに多く。彼らの中に自分たちを繋ぎ止める為には、絶対的な信仰が必要だった。

 精霊は加護を与え、祝福し、見守る。実際に特別な加護を与えられた愛し子が存在し、力を発揮する度に、人々は精霊への畏怖を抱く。

 全員が信じなくとも、数百、数千となれば誰かは繋ぎ止める。教会はその為に存在し、広め、伝える。

 たとえそれが、人間にとって都合のいい言葉であろうとも。精霊たちを納得させるためには、そうするしかなかったのだ。


「別に責めるつもりはないの。干渉できない距離をたもったまま、私たちの威厳を守るには、教会の仕組みが最善であることも理解している。これから先、人間と私たちが共存するためにはロディリアのような緩衝材が必要だわ。……それでも、私たちはどうしても人間を求めてしまうし、見守らずにはいられない。あなたが一番分かっているでしょう?」


 否定はできない。できるわけがない。

 人の生きる姿に魅入られ、惹かれ。あの決断を見た瞬間からずっと、ヴァールは囚われ続けている。

 ただ彼らを見守り続けたいから、人間界にしがみついてきた。

 誰よりも人を求めている。他の精霊に理解されなくとも、この衝動を抑えることはできない。

 それが、自分という……否、ヴァールという存在なのだから。

 だからこそ、口を噤んだ男を彼女は認め、細めた目の奥に見えたのは男の執念に似た煌めき。


「数百年前のあの日、シュラハトに明け渡してからこの地へ辿り着くまでに、失ってしまった愛し子の数はあまりに多かった。皆が怒りを抱き、嘆き、悲しみに暮れ。この魔力の乏しい地では彼らを癒やすこともままならなくて。……大勢が、私たちを否定したわ」


 お前が悪い訳ではないと、慰めの言葉こそ無意味だ。

 たとえシュラハトが他の連中を引き連れなくても、彼女ではシュラハトには勝てなかった。

 どれだけ手を尽くそうと、どれだけ数を揃えようとも。この未来は変えられなかっただろう。

 抱く怒りは、実際に苦しんでいる民を前に、何もできなかった自分自身へ。

 守れないと判断したからこそ逃げて、それでもなお、差し伸べることのできない苦痛。

 いかに今が満たされようと、決して薄れることのない後悔が、今でも彼女を蝕んでいるのだ。


「でもね? 私を求める人が他の国から集まってきたの」

「……集まった、っていうのは」

「言葉の通りよ。この場所に来る道中も、この地が最も荒れていた時も。そうして、今も。精霊を恐れる人間が、安寧を求めてアンティルダへ来ているのよ」


 不思議でしょうと、笑う顔に陰は無く。本当に満たされたように微笑む彼女に、エルドの理解は追いつかない。


「だが、精霊は……お前は確かにここにいるだろう」

「今はそうでも、この先は違うわ。それに、今だっていないようなものだし。私の存在を知っているのは、本当に限られた人間だけ。いつかは皆、忘れてしまうわ」

「なんだってそんな、」

「私がそう願ったからよ」


 明確に理解を拒み、叩きつけられるような衝撃に息すら止まりかけた。

 彼女越しに見える空のように晴れやかで、どこまでも穏やかな笑みに、見ている景色が錯覚ではないかという疑いまで抱いてしまう。

 エルドは知っている。彼女の人間に対する愛を。その執着を。

 人間界に残った精霊は誰もが抗えず、消えると理解しながら残り続けた者たちばかりだ。

 だが、決して消えることを受け入れたわけではない。

 残りたいと。まだそこにいたいと。見守りたいと。求められたいと。そう願いながらも消えてしまった。

 自ら消失を望んだ者は一人も存在しない。目の前の彼女を除いては


「世界を見て回るあなたなら、アンティルダがなんと呼ばれているか知っているでしょう? 加護のない国。精霊に見放された地。大抵の人間はこの場所を恐れて近づくことはない。……でも、それは精霊の手が届かない唯一の場所とも捉えられるわ」

「それ、は……」

「アンティルダだけではない。私たちによって傷付けられた人間は、私たちが思っている以上に多いことを私は知ったの。傷付き、恐れ、怯え。貧しい土地と知りながらも、餓えと熱さに苦しみ、命すら失うと理解しながらこの地に来た子たちは、誰もが安らぎを求めていた」


 見つめる先から、実際の民の声は届かない。だが、脳裏に浮かぶのは、同じ光景。

 王宮前に広がる街。日々を暮らす彼女の愛し子。大人も子どもも、男も女も。この地に安定はなく、平等もなく。

 ……それでも、どこか満たされた顔をした彼らの姿。


「精霊が人間を求めるのが本能であるとの同じく、人間は精霊を恐れるものよ。たとえどれだけ強い加護を授けても、その恐怖まで受け入れられるわけではない。……そして、その恐怖は同じ恐怖を知る存在にしか理解できない。精霊を受け入れ、信じる者には決して理解されないわ」


 口が開き、吐いた息は震え、唇を噛む。

 否定はできない。だって、エルドは覚えている。永遠に忘れることはない、あの一瞬を。

 精霊が最初に加護を与えた瞬間。恐れながらも惹かれた人間が、加護を得ることも選択した。あの輝きを。

 自分たちとは違う、圧倒的な力を前にして。怯えながら、それでもデヴァス(精霊)を受け入れたからこそ、エルドは惹かれたのだ。

 ああ、そうだ。人は最初から、自分たちを恐れていた。ただ、求めるが故に見えなくなっていただけだ。

 力なき者が力ある者を恐れることは、生の本質に最も近いはずなのに。


「弱い彼らにとって、この国は唯一の救いの場所。もちろん、この国に来た者が全員そうとは言わないけれど……救いを求めに来た子は、決して少ない数ではないわ」


 エルドの耳には届かずとも、彼女には伝わっている。

 自分自身(精霊)を拒絶しながらも、アンティルダ(自分)を求める声が。

 愛する人間たちから不要だと示され、いつか消えるのを待つだけの日々。それは、あまりにもエルドの想像を絶するもの。


「人間界だって広いんだもの。こんな小さな国ぐらい、精霊がいらない場所であってもいいでしょう?」


 それなのに、彼女は笑う。それがいいのだと、まるで最善であるかのように。


「……それは、お前自身を含めてか」


 緋色が煌めく。肯定は、それだけで十分だった。

 精霊を求めぬ地が精霊によって統治される矛盾は、やがて自分の消失によって正されるのだと。


「お前が消えた後は、どうするつもりだ。魔力がない以上、人が生きるには限界がある」

「私の意志を継いでくれる存在なら、ここにいるわ」


 返事ではない。明確な言葉ですらない声は、覗き込まれた赤子から発せられたもの。

 人と精霊の間の子。人ではない煌めきを携えた者。ロディリアと同じ、愛し子。


「お前の伴侶は」

「確かに、今のアンティルダがあるのは彼と、彼を信じてきた民がいたからこそ。……それでも、人間である以上、いつか耐えられなくなる」


 予感ではなく、そうなってしまうと。ほんの僅かに狭まった瞳に覗く、一抹の寂しさ。

 自分たちは知っている。人間が自分たちの思う以上に強いことも、自覚しているよりももっとずっと脆いことも。

 人の寿命はとうに過ぎ、肉体こそ変わらずとも、精神は摩耗している。

 彼女の伴侶が長い年月を耐えられたのは、互いの存在があるからだ。片方でも欠けたなら、いつか朽ちてしまう。

 ゆっくりと、抱いた希望を蝕むように。されど、終わらせることもできないまま。

 あまりにも惨い仕打ちであり、精霊にとっても望む結末ではないはずだ。

 ……それでも、彼女は自ら選ぼうとしている。


「お前の伴侶は、納得したのか」

「納得はしてないでしょうね。でも、理解はしてくれたわ。この国の在り方も、その必要性も。そして、この子の役割も」


 咥えられそうになった髪飾りをそっと払い、代わりに差し出した指に吸い付く小さな姿。

 産まれながらに宿命を背負わされた姿がロディリアと重なり、薄紫が細まる。


「息子か」

「ええ、そうよ。名前はジアード。二人授かって、この子はお兄さんの方ね」

「もう一人は?」

「人の血が濃く出てしまったから、あまりそばにいられないの。……必要なことは、私が消えるまでにこの子に全て伝えるつもりよ」


 すでに、なにかしらの不調が出てしまったのだろう。同じ腹から産まれたといって、存在までが同じになることはない。

 精霊が近くにいることで、魔力負荷により体調を崩す者もいた。母とはいえ、弟にとっては毒であったのだろう。

 そもそも、人間の国でも長が二人では崩壊を招く。ならば、より適性のある者をと考えるのは道理。

 片や精霊の代理として国の長になることを定められ、片や精霊とも人とも違う生き方を強いられる。

 だが、ロディリアが人間と精霊の間を担う存在だからこそ生を許されたのと同じく、彼らの生きられる地がここである以上、制約からは逃げられない。

 

「母親としては失格ね。……でも、この子たちにとっても、ここが唯一の場所には変わりないわ。そして、この国の在り方を決めた時点で、私が存在することはできない。どれだけ人間に寄り添おうとも、その恐怖を根本から理解することは、私にはできない。精霊でも、人間だけでもない、両方を知って初めて、この国は真に救いある場所になる」


 人間の血が混ざっていようと、半分は精霊。普通の人間のように暮らすことはできないし、どうしたって影響を与えてしまう。

 人間界にいようとするなら、聖国のように隔離するしかない。それは、このアンティルダでも同じ。

 完全な精霊でもなく、人間でもない。望まずに生まれた者も、望んで生まれた者も違いはないのだ。

 されど、与えられた宿命は真逆のもの。この先も相容れることはない。


「それまで何百年かかるかわからない。何千と変わらぬ日々に耐えるのは、とても辛いことだわ。その間、得るもの以上に失うものも多いでしょう。……状況が違えば、ロディリアの良い話し相手になったかもしれないわね」

 

 エルドがロディリアに寄り添っても、抱えた葛藤を理解しきれなかったように。同じ境遇でなければ晴らせない思いがある。

 世界に三人。その真意を理解するなら、たった二人だけ。

 もしかすれば、支え合う未来があったかもしれない。

 理解し、同調し、自分たちでは選べなかった、想定もできなかった新たな道へと自ら踏み出したかもしれない。

 だが、もうそれは叶わないことを、エルドも彼女も分かっている。


「ヴァール」


 再び、視線は外へ。彼女が見続けてきた、見守り続けてきた国を見渡し、緋色は煌めく。


「私は、このアンティルダを愛しているわ。彼らが私を求めないと理解していても。どれだけ加護を与えても満たされないとわかっていても、私は彼らを愛さずにはいられない。私がいることで解決できる問題も多くある。だけど、私にしかできないことは一つだけ。その為なら、私は恨まれようと、消え去ろうともかまわない」


 これまでずっと、彼女は見守り続けてきた。

 人々が自身の力で切り開く様を。絶望し、挫け。それでも立ち上がり、生き続ける力強さを。

 自分がいなくても、この国は残り続ける。その為にすべきことを、彼女はもう選び取ったのだ。


「……だからこそ、あなた方の援助は受け取りません。ここは私の国、私の守るべき場所。たとえ全ての民が精霊の恐怖を忘れ去ろうと、もう二度と脅かすことは私が許さない」


 決意を携えた光が男を見る。選択はすでに成され、そこに後悔はないと。

 求める者の為に自らが消えることも恐れず。それこそが、自分のすべきことだと宣告した。

 ヴァールに対し、断言することがどれほどの意味をもつか、彼女は理解している。その選択を、ヴァールが違えさせないことも。自分自身が妨害することもないと。

 男の目が細められたのは、その決意を見た満足感と……自分ではできない選択への、形容しがたい感覚から。


 ああ、そうだ。自分は選べない。選べるはずがない。

 彼女の中にも、見守り続けたいという思いはあるはずだ。この国を、伴侶を、我が子を、愛し子たちを。

 人を、人々を愛しているからこそ、彼女は人間界に残り、苦しみながらも手放せず。今日までこの地を加護し続けてきた。

 それなのに、自ら離れることを選ぶなんて。消えることで、守ろうとするなんて。

 あまりにも強く、眩しく。嫉妬すら抱くほどに、眩しくて。

 それでも……ああ。自分には、できない。

 彼女の選択を軽んじることも、自分が倣うことも。

 まさしくそれは、精霊(自分)たちと相容れぬ、最たる証拠。

 深い息に込められた感情が乾いた空気に馴染み、吐き出しきった胸に残る想いまで乾かすよう。


「わかった。聖国はアンティルダに関わることなく、アンティルダも聖国と交わることはない。もう二度と、交わした盟約を違えることはないだろう。……お前が存在している限り、ヴァールの名にかけて誓おう」


 中立者としてではなく、精霊として。女王に従事する者ではなく、覚悟を見届ける者として。

 彼女がいなくなった後も、聖国からは手を出すことはないだろう。エルドの説得に関係なく、ロディリアも受け入れる予想をしているからこそ。

 いつかその腕に抱かれた子らが育ったとき。彼女の意志が紡がれなかった際は、関わりを避けることはできない。

 だが、せめて今は。彼女が彼女であり、まだ精霊であると呼べるうちは平穏を脅かすことはない。

 誓えば一層緋色は煌めき、これ以上ないほどに美しく微笑む。


「お前の選択に立ち会えたことに感謝する」

「誰に感謝されることでもないわ。これは全部、私の我が儘だもの。……でも、最期に会えた精霊があなたでよかった」


 結論が出た今、エルド(中立者)がここに残る意味はなく。そして、拒絶された今、ヴァール(精霊)がこれ以上留まることは許されない。

 立ち上がり、薄紫と緋色が絡んだ時間は長く。実際は、あまりにも短く。


「さようなら、ヴァール。あなたと、あなたが見届ける者たちに、幸多からんことを」


 自分のいなくなった先の未来を。それでも、変わらずに人々の選択を見守り続けるエルドへの祝福を。

 そうして、見守られる者たちへの祈りを紡ぎ、笑う。

 ――それが、エルドの知るアンティルダ(彼女)の、最期の姿だった。

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