閑話⑨バケモノを恐れた者の決意
閑話更新月間二週目は、アンティルダに迎えられてからのペルデとジアードです。
「まだなにか隠してるんだろ」
張り上げたつもりはなくても、静かな空間では囁きだろうと強く響く。
ちょろちょろと滲み出る水源の音に、波を立てる音が続く。ジアードによって源の間、と名付けられたの地下に入れる者は限られている。
聖国では、精霊界から王宮に。そうして循環した聖水を海へと流す過程で人間界の空気と馴染ませ、人体に影響がない純度にまで落としているのだ。
アンティルダも仕組みこそ整いつつあるが、源泉から与えられる影響までは軽減できていない。実用に至るには長い時間がかかるだろう。
ただの人間では近づくだけでも心身に影響を及ぼす。魔力に耐性のないアンティルダの民ならば、なおのこと。
それは人だけではなく、長年魔力に飢えていた土地も同じく。無闇に与えれば新たな問題が生じるだけ。
現在、源の間に近付けるのは、現国王であるジアードと、彼の伴侶と成り得るペルデ。
精霊と人間の間に設けられた愛し子と、そのジアードから正式ではなくとも加護を賜った人間。
望まずして人から遠い存在になってしまった彼は、アンティルダでもっともジアードに近い存在と言える。
聖国から。それも女王と関係のあるペルデに対し、従者からの反発も覚悟していたが……ここに来て一か月経っても、陰口すら耳にしていない。
上手く隠されているのか、自分が鈍感すぎるのか。
初めはペルデも疑っていたが、時間が経つにつれて本当に受け入れられていると自覚した時には、正直ペルデも面を食らった。
誰からも頭を下げられる状況にも、丁重に扱われることにも抵抗がなかったと言えば嘘にはなるが……違和感に気付いてからは、まだ受け入れられるようにはなった。
ジアード以外に関わる人間は多くない。だが、誰もの瞳に宿るのは軽蔑ではなく畏怖と憧憬。
その瞳を、ペルデはよく知っている。
恐れと、理解されぬという苦痛は、毎日鏡で見続けてきたのだ。
人ではない存在への。理解できない者への恐れを。口には出せず、されど隠しきれない恐怖を。
……そう。彼らはペルデを伴侶としてではなく、ジアードと同じ存在として見ている。
だからこそ、この場所に入るのに許可は求められず、入り口で硬直した衛兵のそばを通り抜けて来た訳だ。
とはいえ、ペルデも足を踏み入れたのは二度目。
アンティルダに連れてこられた時以来、入る事のなかった景色に変化はない。違うのは、水に浸かっているのがジアードというだけ。
「珍しいな、わざわざここに来るほど退屈だったか」
ゆっくりと、振り返った男の馬鹿にするような笑みに怒りは抱かず、むしろ顔色の悪さに呆れが勝るほど。
あれだけ仕事を与えておいてよく言う。おかげで聖国どころか、時間の感覚さえ忘れるほどに忙しかった。
連れ去った翌日からあれやこれやと言いつけられ、同意したのを早速後悔しかけたほどだ。
今だって、弟の残党を排除した余波がこの王宮を取り巻いている。
表だった混乱こそ起きていないが、対策をしていても細部にまでは手が回っていない。
くわえて、土地へ魔力を与える段取りと、現在も生じている問題への対策。ノースディアとの交易がなくなった影響だって、まだ強く残っている。
ペルデが関わっているのは、せいぜい魔力に関することばかりだ。
それでも膨大な業務に押されている。正直、こんなところに来る暇などない。
……だが、暇はなくとも、問い詰める機会を見逃すほど馬鹿でもない。
「誤魔化すなよ。アンタだって隠せるとは思ってなかっただろ」
ペルデが気付かなければ、隠しておくつもりだったのは間違いない。だが、徹底して隠すつもりもなかったのは、これまでの行動を見ても明らか。
この男が本気になれば、隠し通すことはできたはず。
隠す気がなかったか……あるいは、最初から騙し通せないと分かっていたかだ。
そして、今回は後者であると確信を持ったからこそ、ペルデはここにいる。近づきたくはなくとも、ここが二人きりになれる唯一の場所だから。
指摘されたジアードの眉が僅かに上がり、鼻から抜けた息は嗤いにも疲れにもとれる。
「まだ知る必要がないという意味なら、間違いではないな」
「ここに俺を近付けさせたくないことに関係しているだろ」
「制限をかけた覚えはないが?」
「目は口ほどに、っていう言葉はアンティルダにはないのか?」
「さぁ。市井の言い回しまでに気を使うほど暇ではないからな」
否定はされても、僅かな沈黙がすべてを物語っている。ただのはったりだったが、裏付けるにはそれだけで十分。
「俺を、……」
言いかけて、踏み込むべきかと考え。見据える深緋に一度、息を吐く。
ここで止めたところで、いつかは明かされることだ。ペルデからか、この男からかの違いでしかない。
そして、もう分かりきっていることを先延ばしにする理由はないのだ。
「俺をここに連れてきたのは、ロディリア女王陛下の同意を得たからだな?」
違和感ならずっと付き纏っていた。ただ、感情の整理が追いつかなかっただけだ。
あの状況ですぐに対応できたゼニスは、まだ精獣だという理由で納得もした。
聖国の動向が一切ペルデの耳に入らないのも、ペルデ自身が望んだからだと理解もした。
だが、あまりにも。それは順調すぎたのだ。
いくら不可侵条約があるとはいえ、目の前で攫われたペルデを放置するとは考えられない。
ゼニスの前で同意を示したとはいえ、アンティルダと聖国の盟約があるように、ペルデと女王の元にも誓約があった。
あのバケモノの最後を見届けるまで聖国に留まる権利は、まだ形だけとはいえ失われてはいない。
一切の情報を切断されていることも考えたし、ペルデだってこうなることを望んだのは間違いない。
だからこそ、ペルデの違和感を確信に近付けたのは……他でもない、目の前の男。
「さすがに分かったか」
沈黙はほんの数秒。肯定は呆気なく与えられ、無意識に唇から漏れる息がやけに響く。
含まれたのは落胆か、怒りか。どちらも信用からくる感情であることに目を瞑り、榛は深緋を睨む。
「俺を聖国に戻すつもりか」
「まさか。私を求めている民を自ら精霊の元に返すほど酔狂ではない。……が、お前を完全に人の道から外す理由もない」
「それも嘘だったのかよ」
思わず舌を打ったペルデに瞬いたのは、そこまで気づいていなかったという失言か。
思わぬ収穫を喜べるほど馬鹿にはなれない。
自身が人から外れていることは、ここに残ると決めた理由の一つにもなった。決断は揺るがなかっただろうが、騙されたと感じるのは当然。
「俺は一度も、お前が人でなくなったと言った覚えはないが」
「どの口が」
「お前も薄々勘付いていただろう。……まぁ、勘違いしやすいように言ったのは否定しないが」
ク、と鳴る喉に眉が狭まる。確かに思い返せば、この国に連れてこられた時も言葉を濁された。
ペルデが勝手に勘違いしただけと言い逃れはできる。
「選択肢は多いに越したことはないが、当時のお前に確信のないことまで理解する余裕もなかっただろう? 離れてはいるが、辛うじてまだ人とは呼べる。お前に蓄積した負荷を取り除いて元に戻れるかはともかく、試す価値はある」
「加護を与えた時点で結局バケモノになってるんじゃないのか」
「表面的な繋がりを得ただけだ。完全に外れるには、まだ必要な工程を踏んでいない。そもそも、あれは他の精霊に取られないための処置であり、伴侶にする為の儀はまた別にある。同意を得ずに進めるつもりがないのは嘘ではない」
水面が揺れ、波紋が広がる。水をかき分け進む足はペルデの方へ。
ひたり、と素足が床に触れれば榛は見上げ、光は見下ろす。
「隠していたのは、ただでさえ慣れぬ地で過ごすお前の憂いを減らすためだ。頃合いを見て伝えるつもりではいたが……そこまで勘付いたなら、今のお前がいかに不安定であるかを自覚させる必要もあるな」
「……人でもバケモノでもないって状態なら、今までと変わらないだろ」
ディアンの最期を見届けるために、聖国で過ごした半年で与えられた影響は計り知れず。
人と言うには離れすぎて、バケモノと言うにはまだ足りない。中途半端な状態は、聖国にいた時から変わっていない。
なにを今さらと、鼻で嗤うペルデを見据えるのは細まった瞳。そこに強い光を垣間見て、自傷的な笑みが無に戻る。
「お前と、お前の称するあのバケモノとの決定的な違いは、正式な加護の有無だ。お前は俺の愛し子であり、現在アンティルダの庇護下にある。不可侵条約がある以上、本来なら聖国や普通の精霊連中もお前には手を出さない。……だが、それも絶対ではない」
「精霊に普通もなにもないだろ」
「否定しないが、俺が警戒しているのはあの黒い精霊だ。……まさか、忘れたとは言うまい」
指先が心臓を叩く。一度、確かに止まった鼓動。与えられた死の概念。一方的に与えられる、途方もない幸福感。抗うことのできない、恐怖。
呼び起こされ、下がった体温に身体が震える。
忘れてなどいない。……忘れるはずが、ない。
「ロディリアや精霊王も馬鹿ではない。あれがいかに異様であるか理解しながら対処しないのは、正体を掴めていないからだ。あのバケモノと精霊との婚姻を意地でも早めないのも、それに関係している」
「……侵入を塞ぐ手立てがない以上、門が繋がる状態である限り、襲われる可能性があると?」
「精霊界から帰還した時のような強硬手段をとることもできるだろうが……最終手段と言ったところだろう。これまでの状況を考えれば、門を閉ざすのは当然の判断だ」
ペルデをここに連れてくると決めた時には、そこまで話がついていたのだろう。
もはや不干渉と主張できる状況ではない、ということなのか。
「盟約がある限り、ロディリアはお前に強制できん。かといってあのまま王宮に置けば、それこそ人ではなくなる。お前の身の安全を守るためにも、アレはお前の誘致を許したというわけだ」
「そんなの……説明されれば俺だって、」
「素直に聞き分けて、もう期待していない義父と二人きりで待機したと?」
言葉に詰まったのが答えだ。
納得はしても、意志を曲げることはなかった。無理矢理連れてこられなければ、意地でも固執していただろう。
違う。今だって。本当にあのバケモノが自分の前にことを、ずっと恐れている。
その姿を見届けても、恐怖から逃れられることはないと分かっているのに。この目で確かめることに、まだ、未練が残っている。
……その事実すら知れないことを望んだのは。救われたいと望んだのは、他でもないペルデのはずなのに。
「ロディリアは盟約を破ることなくお前の安全を確保し、俺は優秀な民を手に入れる。利害は一致し、事は急く。そのうえ、お前の意思が関係ないなら、説明する必要はないだろう」
「聞く権利はあった」
「だから今、こうして説明しているだろう?」
なにを言おうと、ペルデの納得する返事はしない。それが的を外れていることは、答えている本人が誰よりもわかっているのだから。
「此度の選定、聖国も万全の対策を練る必要がある。あのバケモノは元より、無関係な人間に害が及ばないようにもな。再び現れる可能性が高い以上、門のないこの地に逃がすのは最善といえる」
「あんたは正体が分かってるんじゃないのか」
「あくまでも予想であり、確信には至らん。俺が掴んでいる程度の情報など、とっくに向こうは把握済みだろう。でなければ、聖水の流通まで目を瞑っているはずがない」
聖水と黒い靄と、なんの関係があるのか。
顔に出た疑問をジアードは一瞥し、かと思えばいつの間にか履かれた靴が音を刻む。
「ついてこい。お前は知っておく必要がある」
◇ ◇ ◇
かしずく頭を脇目に廊下を抜け、辿り着いたのは……なんてことはない。ジアードの自室だった。
王らしく誂えられた部屋。最奥に置かれた寝台に使われた形跡がないのは、彼が眠らないと知っているからこそ。
整えられたのとは違う、どこか冷たい空間からジアードへ視線を移し、息を吐く。
「話だけなら、移動しなくてもよかっただろ」
源の間と違う落ち着かなさは、この部屋に入った記憶も数える程しかないからだ。
その逆も同じく。ジアードなりの線引きか、必要性がないかは、ペルデが掘り下げる必要のないこと。
「ああ、話だけならな」
否定はされない。だが、それだけではないと言外に含まれ。意図を問う前に扉が叩かれる。
上擦った声が入室の許可を伺い、入ってきたのは兵士に囲まれた従者の姿。
普段ペルデと接している者とは、纏う衣類の質が違う。薄汚れた恰好は、宮殿内でも雑用を命じられている者だろう。
見ているペルデが哀れになるほどに震え、必死に目を合わさないようにする様は、王族相手と言うよりはバケモノを相手にしているようだ。
……対象に、自分が含まれていることは間違いない。
近づくにつれて感じる猛烈な違和感は、間違いなく彼が持ってきた盆から発せられているもの。
周囲にいる兵士に耐性があるのは納得できる。だが、もっとも近い従者がなぜ平気でいるのか。
無言で示した机に盆ごと置かれ、去って行く姿を程ほどに見送る。そうして戻した視線は、放置された異物の元へ。
布の下から出てきたのは、なんの変哲もない石だ。一切の光を通さない、塗り潰したような黒。
見覚えがあるどころの話ではない。アンティルダでのみ採れる鉱石だ。
この国の兵士なら誰もが帯剣しているし、ノースディアと繋がりがあった頃は外にも流通していた。
だが、胃の中がひっくり返るような不快感も、おぞましい感覚も、ただの石から感じていいものではない。
特有の嫌悪感は、紛れもなく――。
「こんな物をあの場所で出すわけにはいかないからな」
「……なんだ、これ」
気持ち悪さのあまり口を押さえ、一歩後ずさる。
反応に満足したらしい男の表情こそ変わらないが、同じだけの不快感は感じているはずだ。
「アンティルダで採れる鉱石の、本来の状態だ」
「本来のって……」
「今まで流通させていたのは、特殊な処理を施し、これらの影響を取り除いた物だ。魔力を持たない者には影響はないが、僅かにでも魔力を持っている者には多大な影響を及ぼす。……お前も身に覚えがあるだろう」
改めて答えるのも馬鹿馬鹿しい。間違いなく、ペルデに襲いかかった黒い霧と同じだ。
大きさは手の平ほどもないのに、望まず耐性を得ているペルデにも影響を与えている。
「採れるのは決まって地下深くだが、どの地域、どの環境においても一定の影響を及ぼす。あの霧とは違い無効化できるが、魔力を持つ者でなければ処理ができない」
「……アンティルダの愛し子誘拐は、それが理由か」
アンティルダが幼子を誘拐していたのは周知の事実。
実際、あのバケモノは一行と共にアンティルダに連れて行かれようとしていた。
わざわざ愛し子を選んだ理由は、魔力の耐久と、使えなかった場合に少しでも高く売るためだろう。
紛れもなく国家ぐるみだったと、鋭く見つめたペルデに男は肩をすくめる。
「信じないだろうが、少なくとも誘拐を含める不正な流通に関して俺は関与していない。愚弟も魔力はあったが、コレのおぞましさまでは理解できなかったようだからな」
「把握していたのなら、止めることもできたんじゃないのか」
「ああ、実際に元凶はすでに亡くなり、不当に誘拐された者のうち、希望する者は聖国に帰還させている。他の対応こそ追々ではあるが……それは本題ではない」
小言は後だと流され、赤はペルデから黒へ移る。
ほんの小さな欠片。ありふれた小石。なのに、そこにあるだけで異様で、不快で、意識せずにはいられない。
「直接関係ないとはいえ、俺も放置していたわけじゃない。なぜ我が国でのみ採掘できるのか。この異常の原因はなにか。浄化した石が本当に安全であるか。まだすべてを明かせたわけではないが、その過程で興味深いことが判明した」
「勿体ぶるほどのこととは思えないけど」
「いいや、十分に。……この鉱石は、一定期間聖水に浸すと消滅する」
「消滅?」
「文字通り、跡形も無く。他でも試したが、消えたのはこの鉱石のみだ」
ペルデも無駄に半年を過ごしていたわけではない。ディアンと一緒に、イズタムからある程度の教育は受けている。
秘匿にされていたなら別だが、そうだとしても隠す理由はわからない。
「それだけではない。鉱石が溶けた聖水を獣に与えたところ、凶暴性が増したという結果が出ている。とくに、魔物には顕著に出たともな」
「……人には試してないだろうな」
「あいにく、手頃な囚人がいなくてな。まぁ、投与するまでもなく実害があるのは明らかだ」
本当にやりかねないと眉を寄せれば、冗談が通じないと鼻で嗤われる。
そういうところだと睨むペルデに、向けられる赤もまた鋭い光を放つ。
「本来、魔力は聖国で濾過された聖水と、精霊門を通じて来た妖精によって循環され、精霊樹へ還る。この鉱石は、その循環がなにかしらの理由で滞った産物と仮定した」
「……つまり、その循環は魔力だけではなく、なにかを取り払う役割もあったと?」
「それならアンティルダでのみ採掘できることも説明がつく」
門がない国も多少は存在するが、その場合は雨や妖精が供給の役割を担う。
一年中乾燥したこの国で、雨が降ることは稀。十分に供給されていたとは言えない。そして、循環も同じく。
「この鉱石と件の霧、そして聖水の繋がりが見えた以上、精霊界の関わりは明らか。無効化させれば影響を与えないことは判明しているが、件の精霊と関係ある以上、放置しておくこともできん」
「だから、女王陛下は聖水の供給を許したと」
「門のない我が国でアレが出る可能性は限りなく低いが、相手は未知の存在だ。聖国としても、できる限りの対策はとらねばな」
再び呼びつけられた従者が石を回収すれば、纏わり付いていた不快感から解放され、力を抜く。
……いや、結局は自分だけが振り回されていたと理解した故の脱力だったのか。
「それで、無事にすべてが終わったら元通りにすると?」
「そう拗ねるな。言っただろう、お前の意思なく聖国に渡すことはない。あくまでこれは、お前との誓いを果たすための措置だ」
「約束?」
「我が民として、守るべき存在として。お前がもっとも恐れる存在から解放する。……お前が望む限り、お前を脅かすことはない」
蘇るのは、この国へ連れてこられた時の言葉だ。
自分を選べと差し出された腕。ペルデへと告げられた、誓いの言葉。
「一世一代の誓いを、よもや忘れられるとはな」
「忘れたわけじゃない、けど」
「万が一にも、あの精霊がお前に関与した場合、お前は再び化け物に対峙することとなる。……仮であろうと、愛し子との盟約を守るのは当然だろう」
これで納得したかと細まる深緋を見上げたペルデが唇を閉ざす。
納得できていない。だが、理解はできる。
元よりペルデが望んだことだ。あのバケモノと関わらないことを。知ろうとしても知れない場所へ逃げることを。どう足掻いても、その行く末の分からない場所に辿り着くことを。
それだけなら、人でも化け物であっても関係ない。無駄に人を止めさせる理由だって存在しない。
……だが。
「……万全を期すというのなら、まだやれることがあるんじゃないのか」
「現時点で打てる対策はすべてとったつもりだが、他に名案があると?」
「伴侶の儀」
一瞬だけ。だが、ようやくジアードから笑みが消えた。
自分から言い出すとは思っていなかったのだろう。その反応こそが、答えているのも同然。
「表面的にしか繋がっていないから不安定だっていうなら、儀式を執り行えばいい」
「……すぐに自棄になるのは相変わらずか」
呆れを隠さない溜め息。だが、視線に含まれるのは苛立ちではなく、ほんの少しの哀れみ。
「それとも、あのバケモノと同じになりたいという願望でもあったか?」
「とっくにそうなっていると思って過ごしていたんだ。思い込みが現実になるだけだろ」
「自ら道を捨てる必要はないと言っている」
すでに膨大な魔力に侵された身体が、完全な人に戻れる可能性は低い。だが、無ではない。
負荷を抜ききることができれば、普通の生活ができるかもしれない。
伴侶として迎えることもせず、まだ愛し子というだけで留めることができるかもしれない。
それでも、ジアードは約束を守るだろう。もう二度と、あのバケモノに悩まされることも、怯えることもない平穏な日々を。
だが、ペルデは知っている。与えられた安堵が踏みにじられる怒りを。与えられた希望が目の前で摘まれる絶望を。
絶対なんて言葉は存在せず、どう足掻いたって逃げられないことを。
どんな手段を講じても。どれだけ安全な場所にいようと。それは、常にペルデのそばにあることを。
「あんたは、俺を無理矢理連れてきたと思ってるんだろうし、俺が納得するように言葉を選んだと思ってるんだろう」
事実、ペルデは今日まで騙されていた。それがペルデのためであると決めつけられて、説明されず、秘匿され。
逃げ場はないと言ったその口で、本当はまだ選べるのだと示されて。苛立っていないと言えば、嘘にはなる。
だが、ペルデが口にしたのは衝動ではない。諦めでも、怒りでも、麻痺でもない。
「あんたこそ忘れたんじゃないのか? ……俺は、自分で、ここに残るって決めたんだ」
睨みつけた緋色が揺らげば、映る自身の姿も大きく歪む。
それでも、抱いた覚悟までは滲まない。
「言ったよな。ただそばにいるだけでは、生きてないも同じだと」
意志を持たず、選択もできず。与えられるまま受け入れ、流され、諦めて。
そうでよかったペルデに、熱を思い出させたのは他でもないこの男だ。
抱え続けるにはあまりに重く、辛く。耐えがたい程に苦しい感情を。
それでも、その感情こそがペルデのすべてであると思い出させた元凶を、強い光は逃さない。
「これを含めて、俺はここに残るって決めたんだ。それとも、もう俺には飽きたって?」
「……まさか」
顎を持ち上げる力は、動作に似合わず優しく。交差する光に先ほどの哀れみはなく。覗くのは人ではない光。
「いいだろう。他でもないお前の望みだ。……伴侶の願いは、叶えてやらねばな」
網膜を焼かんばかりの強さに、鼓動が強く穿つ。
「……後悔するなよ」
「今さら」
最後の忠告を笑ったペルデを引き寄せる腕は強く。だが、触れた唇は柔らかかった。
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