349.そうして道は別たれた
「……だとしても、こんな形は望んでいなかった」
それでも、視線と共に声は落ちる。
思い描いていた理想とは大きく違う。いつかこうするにしても、自分なりのケジメは付けておきたかった。
見届けたところで恐怖から解放されずとも。聖国の機密を知りながら逃げたペルデを聖国が許さないとしても。その一年はディアンへの猶予と同時に、ペルデの猶予でもあったのだ。
「だろうな。だが、あの場でみすみす見逃せるほど俺も愚かではない。半年後に自分から来たのでは間に合わなかったからな」
「……間に合わないって、なにが」
機会が今だけ、というのなら、まだ分かる。だが、間に合わないとはなんのことか。
期限が定められているものなんて、ディアンの婚姻ぐらいしかないはず。
「今年、お前は二度目の洗礼を受けるのだろう? 洗礼を受けた後では、精霊との繋がりはより確固たるものになる。たとえ愛し子でなくとも、確定した後では加護の略奪に値する。いくら精霊を必要としないとはいえ、娶るともなればそれなりの筋を通さなければならない。いくら水に枯渇しているとはいえ、いつぞやのように水没されては――」
「ちょっと待て!」
この男がペルデの誕生日を把握していることは、この際いいとしよう。筋を通さなければならないというのも分かる。
ペルデを加護する精霊についても、その逸話を考えれば警戒するのは当然だが……。
「今、なんて、」
「ただの興味や気まぐれで、俺がここまですると本気で思ったか? 単なる退屈しのぎに連れてきたと?」
深く、深く。あまりにも深すぎる溜め息は、隠す気もない呆れ。
本当に気付いていなかったのかと、寄せる眉の下。ペルデを見つめる目は、それでも柔らかなまま。
「まぁ、俺はどこぞの暴君とは違う。婚姻を結ぶかはお前の意思を尊重するが、精霊に奪われるぐらいならば手元に置くぐらいはするだろう」
「あんた正気か!? 数日しかいなかった相手を娶るって!?」
「一か月で婚姻を結ぶと決めた前例があるなら、四日も大して変わらん。それこそ、人によれば一目会っただけで結ぶ者もいるぐらいだ。時間などただの指標に過ぎん」
それを言うなら政略結婚というのもあるし、愛がなくとも結婚する例はいくらでもある。一方的に気に入ったという理由で無理矢理嫁がされたのは、精霊も人間もよくある話だ。
だが、それで納得できるはずがない。
たった四日。ほんの数日しか共にいなかったのに、なにを考えればそこへ至ったのか。
「言っておくが、最初に惹かれたのはお前の方だろう」
「なにを根拠にそんな……」
「お前はアンティルダを。己の安息の地を求めていた。お前を蝕む恐怖からの解放を願い、求める地が真に己を救うことを期待し、そうしてアンティルダに希望を見出した。……精霊にとって、求められることはなによりも勝る喜びだと、俺は説明したはずだ」
ざぶり、水が動く。ペルデに当たった波紋は跳ね返り、波は男の足へ戻る。
見上げる光は強く煌めく。炎とは違う、血を煮詰めたような。されど、なによりも熱い光が。ペルデを求める深緋は、決して逸れることはない。
「半身とはいえ、俺にも精霊の血は流れている。たとえ本質とは異なっていても……あれほど強く求められたなら、俺もお前を求めるのは道理というものだ」
もはや、それは抗えない本能だと。苦笑する顔は、それでもどこか満たされたように歪む。
獣が肉を求めるように。人が生に固執するのと同じように。それは、求めてしまうものだと。
理解してなお振り払えず、それでもまだ、ペルデの意思を問うというだけ、抑制が利いているのか。
それこそ、ペルデが真に理解することはできないのだろう。
「……俺にも、人を止めろっていうのか」
「そこまで酷なことは言わん。……だが、お前も薄々勘付いていただろう」
この男は、どこまでもペルデの逃げ道を塞ぎたいらしい。
言われなくとも気付いていた。ほぼ源水に近い聖水に触れながらこの程度の不調で済んでいるのだ。
そうでなくとも、妖精が見えていた頃から道を外れかけていた。
……もうとっくに、この身体は引き返せない。
「精霊界からの異質な魔力にくわえ、あれだけの聖水に呑まれたんだ。本来なら耐えきれずに命を落とすだけの力にお前は耐えた。……少々荒い治療も一因ではあるが、遅かれ早かれ、お前はこうなっていた」
たとえあの一件がなくても、辿り着く先は同じだっただろう。
わかっていた。分かって望んだのはペルデだ。
人をやめたかったのではない。あれと同じバケモノになるなんて、それこそ願うはずがない。
それでも離れられなかった。
愚かと笑われようと、嘆かれようとも。その衝動を振り払うことはできなかったのだ。
この恐怖を打ち消すために。その先に進むために。そうして、自分が生きるために。
「さりとて、お前の怒りが消えるわけではない。恨みを忘れる必要もない。そして、許しを受け入れる必要もない」
それはお前だけのモノだと、男は語る。それこそがペルデの生きる意味なのだと。これからを導く全てだと、人の形をしたバケモノが囁く。
これまでのように、ペルデに刻みつけるように。
「この地は精霊の加護を求めず、与えられず。そして、精霊から逃れられる唯一の場所。お前がそれを恐れ、救いを求めるのならば、お前もまた俺の守るべき民になる資格を有している」
光は告げる。
たとえ、この身体にアンティルダの血が流れていなくても。そうだと願う限り、それは自分の守るべき人間だと。
その願いがある限り、加護を与えると。ペルデを見つめる光は、貫く。
「言い訳ならいくらでも与えてやろう。お前は己の意思とは関係なく誘拐され、聖国に帰る手段も閉ざされた。この国で生きる術を持たぬお前が俺の加護を離れれば、それこそ命の保証はないだろう。お前は生きるために、仕方なく俺と共にいる。……だが、ただ傍にあるだけでは、それは生きていないと同じ」
手が伸ばされる。先ほどと同じ、されどその意味は大きく異なる。
この手を取る意味を、ペルデが知らぬフリはできない。
「俺を選べ、ペルデ」
ペルデの意思で。ペルデ自身の選択で、ここに残ることを。それは、迫る。
「教会に利用され、精霊に弄ばれ、ようやく自由を得るお前をここまで連れてきた俺を憎み、恨み、怒りを抱け。お前の覚悟を知りながら、それでもお前を求めた俺を許すな」
教会でも、精霊でも、あのバケモノでもなく、自分を生きる理由にしろと。人でもなく、精霊でもなく。それでも、この地を守ると決めた男は求める。
その選択がどれだけ酷で、己の信念と矛盾しているかを理解しながら。それでも抗えないのだと。
「それでも、俺はお前を守ろう。我が民として、私が守るべき存在として。お前の願いを果たすため、お前が最も恐れる存在から解放するため。お前が望む限り、お前を脅かすことはないと誓おう」
だからこそ、ペルデの意思で選んでほしいと。強く。強く。光はペルデを貫いて、剥がされることはない。
それでも、榛色は動く。自分を縫い付ける深緋から、差し出された指先に。その僅かな震えに、気付いてしまう。
そう、言い訳なら十分過ぎるほどに。戻る手段もなければ、ここから出て生き延びることもできない。
全てはこの男のせいだとなじり、今までのように諦め、流されるのが楽であることも知っている。
抗うのも、拒むのも、そうして与えられる虚しさも。ペルデは、知っている。
……だが、ペルデが手を伸ばすのは、諦めからではない。
怒りがペルデの命を繋いだというのなら、それを思い出させたのはこの熱こそが、ペルデを生き返らせた。
死した感情を蘇らせたのは、誰でもない、この男。
あまりにも唐突すぎて、全部受け入れきれるわけがない。納得できていない部分だって多すぎる。
だが、その手を取るだけなら。ここで生きると決めるのなら。それだけで十分だと思ってしまった。
その感情に名をつけることは、まだできなくとも。そうだと認めることは、きっとできなくとも。
魅入られたというのなら、それは。それは、ペルデも同じだったのだ。
あの時、出会った時にはもう、きっと。
「婚姻とかはともかく、後で飽きたとか言っても出ていかないからな」
「…………まさか」
それこそあり得ないと、笑う男の手を掴む。焼けるような熱に引き上げられ、繋がったままの手は強く、熱く。それこそ、二度と離れないと思うほどに。
伝播した熱を冷ますことは叶わず、逸らそうとした目は、先に細まる赤から離れる。
「――いま見た通り、この者は自らの意思で我が元に残ると決めた。異論はないな」
張り上げられた声に、ペルデの視線がつられる。見つめた先、光を浴びて輝く白い毛皮を見間違うことはない。
薄氷の瞳に貫かれ、身が強張る。最初からそこにいたのだろう。ただ、ペルデが気付かなかっただけ。
一連を見届けたゼニスはなにも語らず、音もなく立ち上がる。
風が吹いたと、そう思った時には既に影はなく。遠ざかる駆け足は、もうペルデの届かぬ位置へ。
「難儀なものだな、ここまでして見届けたいとは。……結局、どれだけ人に添おうとも、あの男も精霊ということだ」
「……じゃあ、今のは、」
「あの男も、お前がこちらを選ぶとわかっていたんだろう」
その目を通して、ペルデの選択を見届けたのだろう。その隣にはディアンもいるはずだ。
あいつはどこまでこの件に関わり、そうしてペルデのことを知っていたのか。彼もまた、ペルデが選ぶと気付いていたのか。
それを知る方法も、必要もなく。本当に最後なのだと、息を零す。
思い返せば、ミヒェルダも気付いていた。それが今になるとは思っていなくても、いつかこうなることは……ペルデを見守り続けていた彼女なら、きっと。
ならば、混乱しているのはグラナートだけだろう。
叫び、ペルデを呼んだ声が木霊する。
最後までわかり合うことはなく、もう聞くことも、見ることもない。
実感するほどに込みあげる開放感と、その奥から滲む鈍い感覚。
これでよかったのだと繰り返すのは、自分への言い訳か。それとも、誰かに肯定されたいからか。
それは不安か、それとも……後悔なのか。
「別れの言葉でも言付けてもらえばよかったか?」
「……いや」
揺らぐペルデを、男が引き戻す。
もはや道は定まった。この先がどうなろうとも、それはペルデの意思。ペルデの選択。
どうなろうとも、それは、ペルデだけの想いなのだから。
「もう、終わったことだ」
「……そうか」
瞳は揺らがず、熱は灯る。その覚悟を捉えた男は、ただ静かに微笑んだ。





