33.忘れていた日
「……今の、王都にいる司祭様と面識は?」
良い趣味だと悪態をつく代わりに、口に出たのはグラナート司祭のこと。
実際に知っているかどうかは関係ない。書いてもいない手紙を託すこともなければ、伝言を頼むことだって。
なにも告げず別れてしまったのは気になるが、真実を知ればあの人は匿おうとするだろう。
そして、遅かれ早かれペルデから情報が漏れてしまう。
その法則が成り立っている以上、こうするしか手段はなかった。そう割り切らなければ、前には進めない。
「英雄様の一人だったか。実際に会ったことはないが、そいつを見せれば関係者とは分かる」
そいつ、と指された手の中。握ったままだったメダルを改めて見つめる。
より明るい場所で確認したそれは、やはりオリハルコンで作られたものだ。市場には滅多に流通しない高級品。加工にも相当の腕が必要になる。
それを証明書として使うなんて贅沢ができるのは、精霊から直接卸している聖国にしかできないこと。
だからこそ唯一無二であり、模造品はすぐに分かる。騙されるのはよほど教会に関心がないか、本物を見たことがないかだ。
よく使われるのはミスリル、少し凝ったものなら虹結晶。もちろん教会には通用しないが、商店や一般人を騙そうとするならそれでも十分。
ディアンも本物を知らなければ騙されていただろう。これがそうかは分からずとも、本物を確かめる方法は存在する。
そう。まだ幼い頃にグラナートから教えてもらったはずだ。貴重な物なので一度だけしか見せてもらえなかったが……。
朧気な記憶を手繰り寄せ、メダルを裏返す。周囲に掘られたレリーフ以外、なにも記載されていないように見えるその場所。
無意味な空白ではないのだと、笑う男の声は記憶の中でも薄れることはない。
親指に魔力を込め、そっと表面をなぞる。まずは表面にも刻まれた太陽の紋が浮かび、それから綴られていく文字を目で追いかける。
一定の魔力に反応する隠し細工。紋と文字の二重加工。この技術は聖国の一部にしか伝わっておらず、この時点で本物であることは証明された。
これ以上の検証は不要。だが、ディアンの目も思考も止まることはない。
過去にグラナートに見せてもらった文字は、日常で使っているものと同じだった。だが、今目視しているのは古代文字。
遙か昔、まだ精霊がこの地にいた時に使われていたもので……今は失われている言語のはず。
多少勉強はしていたが、解読に自信は無く。だからこそ、必死に文字を追いかける。
最初の文字は、聖国女王陛下の名前だ。『ちう』……違う、後にこの単語が入っているから『ちゅう』のはず。
あとはおそらく任命でいいはず。だが、肝心の役職の部分は解読できない。
……ああ、それ以前に女王陛下の名前があったということは、彼女直々にこの証を賜ったことになる。それだけで相当の地位に属することは確かだ。
少なくとも、こんな場所で野宿をしていいような相手では、ない。
「本当に馬鹿じゃないんだな」
顔を上げる。見据えた瞳の距離は遠いはずなのに、含んだ光に鼓動が跳ね、息を呑む。
じわじわと治されていく足は、まだ解放される兆しはない。
……読めたことに、気付いている。無意識に口に出していたのか、それとも顔に出ていたのか。
「そうなると、本当に余裕がなかったわけだな。今日中に出なければならない程の……そうじゃなきゃ、もっと準備もしてただろ」
ディアンの返答は待っていない。彼の中では答えが出ているのだ。否定しても軽く流されるだけ。
そもそも、なにを否定するというのか。
準備期間があれば、本当に万全の体制で出られたのか。
資金を蓄え、誰にも知られぬまま衣服を揃え、そうしてなんの不安もなくあの家を出ることができたのか?
「……どう、でしょう。旅なんて考えたこともなかったので」
向けられた視線は、敬語になったことへの反応か。さすがにもう偽物と疑うほど馬鹿ではないし、女王に親しい者と知ってまでため口でいられるほど豪胆ではない。
適切な対応のはずだが、手のひら返しに思ったのか。責めることはないし、視線もすぐに手元へ戻る。
「今と変わらない格好だったと思います」
「少なくとも、今より厚着はできただろうな」
「……たぶん」
夜は冷えると分かっていても、そもそも買いに行けたとは思わない。
日頃から監視されていたとすれば、変な物を買った時点で報告されていただろう。そうして没収されるか、責められるか。
こうだと断言できないのは、そもそも寄り道自体を禁じられていたからだ。許可されていたのは本屋か教会だけ。他の店は、露店すら見るなと厳しく言われていた。
そんな場所へ行く余裕があるなら鍛錬をしろと。そうだから、お前は弱いのだと。騎士になるためには、遊んでいる暇なんてないと。
一度だけ連れて行ってもらえた祭りも、剣術大会に出るためだけ。煌びやかな装飾も、見世物も、食べ物も。許されたのは妹だけで、ディアンは視線を向けただけでも怒られた。
こうして思い返すだけでも相当な扱いだ。でも、それは全てディアンが弱いせいだと。未熟なせいだと、自分を思って厳しく躾けてくれているのだと思っていたからで。
……そうでないと知った今、この胸に渦巻く感覚をなんと名付ければいいのか、わからない。
「ガキつったが、実際は? 何歳だ」
問われ、瞬き、口を閉ざす。音は息にすらならず、形容しがたい感情は込み上げた衝動で押し流されていった。
「言いたくないか」
「ちが、……あ……えっと……」
沈黙を拒絶と捉え、咄嗟に否定しても次の言葉が出ず。どうにも視線が定まらずに俯いてしまう。
「……そ、の……」
言い出せぬまま、わだかまった言葉を吐き出し。もういいと言われると思ったが、治療を続ける男の視線は逸れぬまま。
答える義務はない。だが、辛抱強く待つ姿は、焦らなくていいと言ってくれているようで。無意識に握った拳を、そっとほどく。
「……今日が、誕生日だったなと……気付いて」
思い返せば予兆はあった。サリアナの言っていた早い祝いも、絶対に来るようにと言っていたグラナートも、ディアンの誕生日を覚えていたのだ。
父も、母も、妹も。その本人でさえ忘れていたというのに。
この数日があまりにも慌ただしくて、大切な日を忘れていた。
他の年ならなんてことはない。ただ一つ増えるだけだ。
だが、今年は違う。今回だけは……ディアンが最も、恐れていた日。
「おぉ、そりゃあめでたいな。で? 何歳になった」
「……十八、です」
「なら成人か。ますますめでたいな。んじゃあ洗礼は……受けてるわけねぇか」
ギュウと痛んだのは足首ではなく心臓だ。悪意はない。
誰にとっても十八を迎える日は特別だ。成人になり、二度目の洗礼を受け、そして精霊から加護を授けるに相応しい人間になったかを見定められる。
ほとんどが一度目と変わらぬまま。よほど相性が悪いか相応しくなければ別の精霊から。
どうなろうと取り上げられることはない。最初から加護を授からない人間なんて、存在しない。
……存在しなかったのだ。ディアンが生まれる、その日までは。
通例であれば、誕生日の午前中に教会へ赴き洗礼を受ける。
日付が変わって暫く経ったとは思うが、どの町の教会も開いていないし、そもそも受けられるのは日が昇ってからだ。
目指す村にも教会はあるが、そこに立ち寄る予定は……誕生日であると知った今も、入ることはない。
「……洗礼を受けないと、なにか罰則はありますか」
気付けばそう尋ねていた。明示はされていない。なぜなら、受けない理由なんてないからだ。
行けば誰もが加護を授かり、精霊の力を賜ることができる。その力で自らの生活を豊かにし、そうして生きていくのだ。
どの精霊から授かったかで人生が大きく変わることだってある。だから、知らないまま生きる者はいない。それを自ら選択する者なんて、いない。
だからこそわからない。受けなければどんな目に遭うのか。教会から罰を与えられるのか、それすらも定まっていないのか。
過去に例がないとして……それをどのように、判断されるのか。
「怖いのか?」
「……たぶん」
答えは疑問で返される。はぐらかされたこと自体が、前例がないと肯定しているようなものだ。
「煮えきらねぇな」
想像以上に刺さった言葉に追求はできず。曖昧な回答に男は苦笑するだけ。
「なにを恐れている」
「……些細なことです。それに、言ったところで信じないでしょう」
今回も加護が得られない。そんなの、他人にすればどうでもいいことだ。そして、誰も信じない。
この世界では加護を授かるのが当然。生まれてすぐ捨てられた孤児でも、どんな悪事を働いた者でも、精霊に愛され力を授かる。
一度目がただの事故だったとして。それが二回続けば? 二度目も、同じだったら?
あの日のように囲まれ、見下ろされ、口々に皆は言うだろう。
――ああ、やはり英雄の息子は落ちこぼれであった!
「本当に些細だと思ってるなら怖がることもない。そして、信じるかどうかはお前じゃなくて俺が決めることだ」
自然と、顔が上がる。再び絡んだ視線、その紫は呆れも笑いもしていない。
ただ、細められた瞳の中。火に照らされたその光は柔らかく、温かく。
「話してみろ。どんなことでも笑ったりしない」
信じる要素はどこにもない。出会って数刻も経っていないうえに、気絶までさせてきた男だ。いくら教会関係者と分かっていたとしても、こんなことを話す理由にはならない。
理解している。頭では、分かっている。それなのに力は抜けたまま、歯止めは利かない。
話したってなにも変わらない。……わかっている、のに。
「……一度目の洗礼の時、ぼ――私は、加護を授かりませんでした」
するり、こぼれ落ちた言葉が響く。眉は上がらず、目蓋も開かれず。唇も動くことなく、続きを促したのは視線だけ。
「皆、それで悲しんで……父は、その……功績を立てた偉人なのに、私は剣術も魔術もダメで。いや、それは結局正当ではなかったのですが、でも落ちこぼれであることは変わらなくて……」
そう、結局は落ちこぼれだ。魔法で妨害されていないのに、魔法もろくに放てなかった。剣ではなく即席の武器でも、身体は重く鈍かった。
死にたくないと願いながら何一つ敵うことなく……この男がいなければ、こうして語ることだって。
確かに、ディアンの成績は捏造されたものだ。しかし、今さらその評価が変わることはない。
ラインハルト殿下の足元にも及ばず、英雄の息子として誇れるものなどなにもない臆病者。
今さら加護を授かったって、その評価は変わらない。
だが、本当になにもいただけなかったら。今度こそなにもないと証明されてしまえば、自分は……。
「分かっているんです。洗礼を受けずとも結果は変わらないと。知らないままでいれば楽だから、知りたくないということも。……どれだけ逃げていたって、いつかは受けなければならないことも」
その日はいつか来るだろう。ディアンが精霊名簿師を目指すのであれば、教会に赴くことになるのならば、遅かれ早かれ確かめなければならない。
「それでも、せめて隣国に着くまでは……それまでは、洗礼を受けないままでいたいと……」
怖いからだけではない。洗礼を受ければ名簿に名前が載る。そこにはいつ、どの教会で受けたかも記載されるのだ。
各所で共有されているかはわからないが、調べようと思えば調べられるだろう。そこから足取りが割れてしまえば、連れ戻される可能性だって。
それがどれだけ僅かなものでも、ディアンにとっては脅威でしかないのだ。
ここに留まって暫く経つ。もういい加減ディアンがいないことを報告して、先に村に向かわれているかもしれない。なにもかもが手遅れで、無駄な足掻きかもしれない。
それでも……それでも、できる限りのことを。
「隣国っていうとオルレーヌか。……なるほど」
約束したとおり、男は笑うことはなかった。否定もせず、ただなにか納得したように頷いている。
そうかそうかと繰り返す独り言にどう反応すればいいかわからず、まだ治らない足を見つめる。
「……よし!」
響く張りのある声は、治療を終えた掛け声ではない。光がおさまっても足は解放されず、笑う男の顔を見つめ、
「ここで受けるか、洗礼」
「……はい?」
……そんな突拍子もない提案に耳を疑うのが精一杯だった。
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