346.終幕
実際にして、それは十秒にも満たない出来事だった。
近距離で展開された門の影響により、崩壊した源流から溢れ出した水は、あっという間にその場にいるほとんどを外へと押し流した。
被害が手前の部屋で済んだのは、ジアードが展開した防御壁と、それによって守られたロディリアによる制御があったからだ。
辛うじて流されなかったトゥメラ隊がすぐに適応したことも、被害を食い止めたといえる。
もし、あの勢いのまま山を下ることがあれば、城下どころか周辺地区にまで被害が及んだだろう。
源水は人間界になくてはならないもの。されど、その濃度を薄めなければ、人の命を脅かす劇薬となる。
普段から慣れているトゥメラ隊でさえ、ここまで浴びれば不調が現れるだろう。
――ならば、普通の人間であったペルデにとって。それはもはや、死に等しいもの。
吹き飛ばされ、階下に叩きつけられた身体は動かない。
甲高い耳鳴りも、頭を割るほどの痛みも、臓器が全てこみあげているのではと思うほどの嘔吐感も、その身体にはない。
それは、ただの『無』だった。
弛緩した顔、開かれたままの瞳。覗く榛色に光は宿らず、微動することもない。
何も映らず、何も入らず。喉が動いていなければ、それこそ死んだと錯覚していただろう。
されど、聞こえる呼吸は掠れ、小さく。いつその灯火が消えてもおかしくはない。
明滅する視界。朦朧とする意識。それでも、ペルデができることは死を待つだけ。
「っ……ペルデ!」
名を呼ばれても反応はない。そもそも、聞こえてすらいないのだろう。
それが、自分が父と呼んだ存在であることも認識できない。
ただ、そこにあるだけ。ただ、死を迎えようとしているだけ。
目の当たりにしたグラナートが叫ぼうとも変わらない。なにも、なにも。
騒音で駆けつけた先で、目の前で姿を消した息子が死の淵にいるなど、どうして覚悟できただろう。
これを恐れていたからこそ、グラナートはペルデを、この場所から離したかったのに。
たとえ巻き込んだのが自分のせいでも、それをペルデに許されずとも、これ以上傷つけたくなくて。
なのにどうして……どうして!
「ペルデ……っ!」
「グラナート! これ以上近づくな!」
床に広がる波紋。それがただの水でないことを、耐えがたい耳鳴りと嘔吐感で突きつけられる。
今も自分の靴を濡らすそれは、希釈されていない聖水、すなわち精霊界の水。直接触れていない今でも、グラナートの身体は蝕まれている。
これ以上ここにいてはならないと。鳴り響く警鐘は、かつて精霊界に赴いた時と同じ。
今でも夢に見る。人が踏み入れてはならないと突きつけられたあの光景を。あの見下ろす赤を。自分を加護する精霊への畏怖を。見てはならないと、理性ではなく本能で突きつけられた、あの瞬間を。
今まさに、この空間はあの場と同じ。人が存在できるものではない。
そんな中で横たわっているペルデがいかに危険な状態であるか。引き下がりたくはないのに、グラナートの本能が拒絶している。
トゥメラ隊の制止がなくとも動けなかった。されど、その場から退くことだけは、できない。
光の宿らぬ虚ろな瞳。瞬きすらしない顔を見て息が止まる。
耳鳴りと飽和する音の中、ペルデを介抱するトゥメラ隊から飛び交う言葉がぼやけて、遠ざかる。辛うじて聞き取れたそれは、彼を助ける意思が見えるもの。
だが……施す手がないという無慈悲な現実も、同じくグラナートの中で反響する。
重なるのは、いつかの光景。サリアナに誘拐され、禁術を受けた身体が、血を吐いて倒れた姿。
あの時は命の危険があっても、まだ治療の施しようがあった。
だが、今のペルデはあの時のディアンと同じ。人の手では助けられないところまでいってしまっている。
ディアンが助かったのは、加護を与えた精霊が己の魔力を流し込み、その内から整えたからだ。そして、それは精霊であるからこそ施せた手であると同時に、ディアンが彼の愛し子であったからこそ耐えられたもの。
もし精霊がいても、愛し子ではないペルデでは与えられる魔力に耐えられない。
精霊にできないのであれば、グラナートになにができただろう。
動けない。見捨てることなど、できない。それでも、その命が尽きる瞬間を見ていることしか、できない。
『最初に巻き込んだのは、あなたでしょう』
なじる声が蘇る。あの冷たい温度さえも、今のペルデには宿らない。
どうして。
疑問に答えなど与えられない。それは、すべて結果でしかない。
グラナートはただ、守りたかっただけだ。
父親として正しい選択ができなくとも、従事者としての命令を遂行していたとしても。グラナートにとって、ペルデは唯一の家族なのだ。
亡き姉の忘れ形見である以上に、引き取ってからずっと。十八年間共に過ごしてきた、大切な家族だ。
大切だったからこそ叱りもした。大切だったからこそ、関わらせないために遠ざけようともした。
どこかに預けることだって考えて……だが、そうできぬほどに愛していた。
父親としてできたことはなにもなく、恨まれている自覚はあった。ただ、その程度を見誤っていたのだ。
やり直せると思っていた。これからペルデとの関係を取り戻せると思っていた。
いいや、たとえ手遅れでも。このまま憎まれたままでも、ペルデが無事でさえいればよかったのに。
もっと早く、この場から離すよう説得していれば。そもそも、最初から認めないよう進言していれば。
いいや、言ったところでなにも変わらなかっただろう。
あの時にはもう、ペルデはグラナートに対し、諦めていたのだから。
理解されることを。わかりあうことを。……その全てを。
後悔ばかりが込みあげて、耳鳴りに奥歯の擦れる音が混ざる。
耐えがたい喪失感を前に、されど、ただの人間ではどうすることもできない。
私は、二度も大切な存在を、失うのか。
落ちる視線の先、一際大きく波紋が揺れる。断続的に続く水音は、かき分け進む足音の代わり。
「ジアード王、なにをっ……」
「――ペルデ」
それは、誰の声でもなかった。グラナートでも、トゥメラ隊でも、ロディリアでもない。
低く、強く。制止しようとするトゥメラ隊が硬直するほどの力を纏った響きは、名を叫ばれた男からペルデへ投げかけられるもの。
なにをするつもりだと。なぜ、ここにいるのかと。そんな疑問さえも掻き消すほどに声は強く、強く、響く。
聞こえないはずがないと。聞かないことは、許さないと。
「ペルデ・オネスト」
淡々と紡がれる名前。細まる瞳が煌めき、編まれた黒髪が揺れる。膝をつき、反応しないペルデへ傾けられる顔に表情はない。
焦りもなく、悲しみもなく。されど、覗き込む深緋だけが輝き、光を放つ。
その輝きをグラナートは知っている。同じ光を、これまで何度見てきただろう。
己を加護する精霊。これまで見守ってきた教え子。そして、ディアンの伴侶である、あの精霊。
人ならざる者。強い意志を纏う光は、そこに。
「まさか、この程度でくたばるつもりか? お前の覚悟とやらはその程度だったのか? 最期まで奴らに翻弄されたまま、終わりを迎えるつもりか?」
嘲笑うような口ぶりで、されど失望からではなく、呼び起こすように。
弛緩する左腕を持ち上げ、食いこむ指は強く。軋む音は、増していく耳鳴りと重なっても紛れることはない。
「思い出せ、ペルデ・オネスト。お前が与えられた苦痛を。お前だけの怒りを。誰にも譲らなかった信念を」
男は語る。人ならざる響きで。人とは呼べぬ光で見下ろしながら。
「今日までお前を生かしてきたその全てを。……思い出せ、ペルデ・オネスト」
そうあるべきだと告げる姿は、まさしく加護を与える精霊と、同じ、
「――ぁ、」
指先が揺れ、音が漏れる。掠れたそれは、すぐに歪な呼吸へと変わる。
濁る瞳が光を取り戻し、苦痛に歪む顔は意識が戻ったことを示すもの。
明確な生の反応。息を吹き返した事実に真っ先に反応したのは、介抱していたトゥメラ隊だった。
指示が飛び、抱えられたペルデが広間から連れ出されていく。
もしグラナートが無事だったなら、有無を言わさずついていっただろう。だが、まともに動けぬ身体では、ただペルデの無事を噛み締めるしかできない。
いいや、それで十分だった。
ペルデが生きている。まだ助かる道がある。それだけで、グラナートにとっては救いだったのだから。
「グラナート、あなたも早く」
肩を支えられ、半ば引き摺られるように、惨状から背を向ける。
その刹那、ペルデの後を追わなかったあの男の姿を捉え。そして、彼がいったいなにを見ていたのか。
グラナートには気付くことはできず。やがて、その意識ごとほどけていった。
◇ ◇ ◇
連れ出されていくペルデの姿を見届け、男は再び歩きだす。
巻き込まれた子どもを介抱するのに必死で、本当に一部にしか気付かれなかった男の元へ。
初めは、罪人の確保のため。今はその最期を確認するため、そばについていたトゥメラ隊へと目を配り、それから地に伏せる弟に目を落とす。
見開いた瞳。掠れた呼吸の合間から零れる命の源。同じ愛し子でも、常から魔力に馴染む彼女たちと、魔力の乏しい地で育ち、怠惰を極めていた男ではその耐性は異なる。
人の血を濃く継いでいたのも、この結果の一因だろう。
こうなってしまえば、もはやジアードが手を尽くそうとも助からない。そもそも、助ける理由などない。
聖国を乗っ取るなどと馬鹿な考えを起こし、実行したのも。選定者に魅了され、目的をすり替えたことも。ジアードの目的に気付かぬまま、まんまと罠にはまったことも。
そして、逃げられぬというのに逃げようと足掻き、あれだけの惨事を引き起こし、結果自分で死にかけていることも。全て、この男の結果だ。
本当に、最期まで愚かな弟だった。
周りに煽られ、現実も見えず、利用されただけの哀れな男。
聖国に乗り込むなんて馬鹿を起こさなければ、それなりの慈悲も与えられただろう。
……されど、すでに終わったこと。
全ては明らかになり、罪人はここで死ぬ。それが、この惨事の顛末。
「こうなってしまえば、裁くまでもたんだろう。貴国の女王との約束を違えることになるが、これでも唯一の兄弟。せめてもの慈悲を与えることを許していただきたい」
無言の同意を得て、携えていた剣を引き抜く。
光を通さない黒い剣身。その先を上下する胸へとあてがったところで、飛び込んできた光に深緋が開かれる。
茶色の髪。緑の瞳。外見こそ彼の唯一に似ていたが、その姿は全く異なるもの。
弱々しい光も、痩せ細った身体も、この空間に充満している魔力の影響でないことは明らか。
とうに消滅していると思っていたそれは、ジアードの妖精と共に生まれた存在。
その灯火も今、消えようとしている。
「……そうか。お前もそばにいたのか」
羽は縮み、破れ。もうろくに飛ぶこともできないのだろう。動くことさえ苦痛であろうに、必死に庇おうとする姿に哀れみを抱く。
ジアードの妖精のように、彼女もまた彼と共にいた。今回の騒動で残っていた疑問点は、これで全て説明がつくだろう。
ならば、これ以上は苦痛を長引かせるだけ。
「わかるだろう。ソレはもう長くはない。恨みはあるが、されど、ソレもまた私が守らなければならなかった民の一人であった」
首を振り、小さな手でしがみつくのは失いたくないという思いからか。あるいは、まだ助かる希望を見出しているのか。
彼女の声は、ジアードには届かない。それでも、男は為すことをするだけ。
既にジアードに弟への情はなく、聖国で処刑されたとしても、正しく切り捨てることができただろう。
だが、同時に……害を成したとしても、男も民の一人。王の一部であった。
裁きを下すことも、情けをかけることも。どちらも等しく、アンティルダとしての義務。
だからこそ、アンティルダを加護する者として、ジアードは手を下すのだ。
かつて父をその手で屠ったのと同じく。アンティルダとして。
「……そして、お前ももう、苦しむ必要はない」
彼女の別れを慈しむように優しく、柔らかく。告げる男の剣は掲げられる。
「休みなさい。もう全て、終わったのだから」
――そうして、男は確かに、その責務を果たした。





