342.対立の時
飲み込むタイミングが遅ければ、間違いなく吹き出していただろう。
近すぎるせいで見えにくい輪郭。勢いよく顔を戻して手に取ったそれは、この数日で何度も見てきた姿。
丸みを帯びた茶髪。ふわふわのスカート。転がった拍子に見えてしまった中身は、小さなドロワーズ。
そのまま後ろにでんぐり返って、ボサボサの髪で笑う緑の目も。ペルデは、確かに覚えている。
思わず叫ばなかったことだけは褒められるだろう。一体いつからペルデのそばにいたのか。
王宮に戻る前にはジアードの傍にいたはず。なら、いつ?
考えても思い出せず、見間違いでないと理解したのなら、次に襲いかかるのは焦りだ。
ジアードはどうして気付かなかった? 大切な自分の妖精ではなかったのか!?
もう一度接触できる可能性がある? いや、あるいはまだ気付いていない?
違う。気付いても、もう動けないのだ。すでにこの地で交わされた盟約は果たされ、権利は失われた。
明日の朝には門から送還される。そうすれば、彼女をジアードの元に戻すことは困難になる。
預かるだけならまだ希望はあるだろう。だが、彼女にここの空気は強すぎる。これまで平気でいたのは、ジアードがそばにいたからだ。
それでも苦しんだ姿を、ペルデはもう見てしまった。
少なくとも、ペルデがこの地を離れるまでに半年はかかる。……それまで、彼女がもつとは考えられない。
魔力の調整はできるだろう。だが、この存在を隠し通せるとは思えなかった。
……帰さなければ。今夜中に、なんとしてでも。
勢いのまま立ち上がり、されど足は動かない。
閉じ込められているのはペルデも同じだ。外には監視がいる。
窓から抜け出そうとしても、地面との距離がありすぎる。布を裂いてロープを作るのは現実的ではない。かといって、魔術でなんとかできるものでもない。
そもそも、今ジアードがどこにいるかもわからないのに、闇雲に走り回るのでは早々に見つかってしまうだろう。
彼女の存在も露見し、ジアードの元に帰せなくなってしまう。それだけは、なんとしてでも避けなければならない。
だが、どうすれば。……どう、したら。
焦りばかりが積もり、打開策がなにも思いつかない。
ペルデの心境など知らぬと、小さな少女は不思議そうにペルデを見上げ、両手を伸ばしている。
「……ジアードのところに、戻れないかもしれないんだぞ」
分かっているのかと小突こうとした指は逆に抱きしめられ。溜め息は少女の髪を揺らす。
精霊と同じく、理解できないもの。頼みは聞かず、好き勝手で、自由な存在。
精霊樹に還らずとも、ジアードの元から離れようとも。なにも考えていないのかもしれない。
……それでも、ここに留めておくわけにはいかない。
「ここにいて。……ジアードのところに連れて行くから」
首元に誘導した少女が服の中に潜るのを感じながら、唯一の出入り口へ向かう。
叩く音に鼓動が重なれば、聞こえた以上に大きく響く。
「すいません。もう一度、ミヒェルダを呼んでもらえませんか」
ペルデが接触できる相手で、現状信頼できるのはミヒェルダだけだ。
本当なら、彼女にも伝えるべきではない。だが、最悪を迎えるよりはマシなはず。
この選択が正しいかはわからない。それでも、ペルデは行動しなければならない。
「伝え忘れたことがあるんです」
「――ペルデ」
想定した断りの言葉は、想定外の低さに否定される。
トゥメラ隊ではない。だが、ゼニスやエルドの声でも、ない。
それは、ペルデが最も聞きたくなかった、グラナートの声だったのだから。
聞き間違いであれと、願うのは早々に諦めた。ああ、そうだ。予想していなかったなんて、嘘になる。
いつか来るとは思っていた。……ただ、こんなすぐにとは、思っていなかっただけ。
「グラナート司祭。なぜここに?」
ミヒェルダはともかく、今は誰とも接触を禁じられていると思っていた。
騒ぐ気配もなかったことから、許可は得ているのか。それとも、監視がいたと思っていたのはペルデの勘違いだったのか。
ならば抜け出すのは容易だと、喜ぶにはまだ早い。
「中に入ってもいいだろうか」
想定外の来訪、想定外の状況。……だが、返答だけは予想通り。
込み上げる息を、喉の奥で殺す。時間は惜しい。だが、素直に引き下がる相手ではない。
入れようが入れまいが、場所が変わるだけで話自体はされるのだ。
……そう。今でなくとも、ペルデが選んでいなかったとしても、いつかは立ち向かわなければならなかった。
少しだけ悩んだのは、首元にいる存在をどうするか。それから、グラナートには見えないと思い出し、忘れていたこと自体に苦笑する。
「どうぞ」
答えると同時に背を向ける。真っ直ぐに向かうのは、先ほどまで座っていた椅子。
背後で扉が閉まる音を聞きながら座れば、数分前と同じ光景に逆戻り。
空になったカップ。スープ以外手を付けられていない軽食。そして、座らずに部屋の入り口でペルデを見る、赤い光。
あの時はグラナートの方が先に座ったと。思い出す必要のない記憶を重ねるのは、まだペルデの中にへばり付いているからだろう。
真っ白な部屋。用意された茶菓子。向かい合う赤。……腹の奥から込み上げる感情。
懐かしいとは思えない。何度も夢に見た光景。何度も思い出していた流れ。
対面に座り、しばし、沈黙するところまで。あの時と同じで、だけどもう、違う。
「身体の具合は大丈夫なのか」
「ミヒェルダにも伝えましたが、大事ありません」
「……そうか」
当たり障りのない問いかけ。当たり障りのない回答。とっかかりが掴めず、再び流れる静寂。
あの時はグラナートの方から切り出したのだった。唐突な謝罪と、反省。そうして、なぜそうなるに至ったかの経緯。
とっくに知っていた真実を明かされ、そうして、朝を迎える。
だが、これは夢ではない。現実であり、夢の続きでもある。ゆえに、ペルデの悪夢が繰り返されることはない。
そして、舞っていたって終わらない。
「容体を聞きに来ただけではないんでしょう」
促せば、見つめた男の眉間が僅かに狭まる。赤から読み取れるのは若干の苛立ち。
ただの怒りで片付けるには複雑な感情を、ペルデは理解している。少なくとも、半年前よりは、ずっと。
「……なぜ、あんな無茶をした」
「あんな、とは?」
「今回における全てだ」
あまりにも範囲が広すぎる。だが、きっと最初からだろう。
侵入者を追いかけたことも、自ら人質になると承諾したことも、ただの人間が担うには重すぎる任務に対しても。
そう、納得しているはずがない。ただ咎められ、抑えていただけだ。
女王の忠実な従事者として。聖国に属する、司祭として。
だが、今ペルデの前にいるのはそうではないと、険しい赤が見据えている。
「あの時点では、他に方法はなかったでしょう。ジアード王が他で納得したとは思えません」
「だとしても、お前が承諾する必要はなかった。他に方法が……」
「黙っていれば、女王陛下が妥協案を出し、それにジアード王が素直に従ったと?」
再び口は閉じる。たられば、など無駄な話だ。
こうなることは避けられなかった。ただ、ペルデは手間を省いただけだ。
「結果として、主要な儀式は無事に終えることができました。問題なかったはず」
「私が言っているのは、」
「わざわざ小言をいうために、こんなところまで来たのですか。グラナート司祭」
「……ペルデ」
「任務を終えた私への説教だけなら、後日にしていただけますか」
回りくどいと指摘すれば、沈黙のかわりに溜め息が響く。抑えたのは怒りか。それとも、本題を告げる覚悟を固めたのか。
赤がペルデを見据える。重なるのは幼い頃の光景でも、胸に込みあげるのは恐れではない。
想定内だった。ここまでは、まだ想定内だった。
「……王宮から離れなさい、ペルデ」
――されど、やはりこの男は、ペルデの考える最低を遙かに超えてくるのだ。





