339.そうして全ては元通り
光が収まった途端、襲いかかったのは身を裂くような寒さだった。
一瞬で筋肉が収縮し、身体が熱を求めて震える。遠くに見えていた街の明かりに代わって見えるのは、月に照らされる王宮。
あの一瞬で戻ってきたと気付くと同時に身体の重みが増す。
肩にかけられたのは、ジアードが市場で買ったローブ一枚。ないよりはマシだとかき寄せたそれは、男の熱が残っているせいか若干温かい。
「持っておけ、俺にはもう不要だ」
「……なんで、王宮の外なんだ」
素直に感謝を伝えるには、ここに至るまでの状況が酷すぎた。
了解もなく転送され、連れ回され。その必要性を理解した後でも、許せるかと言われれば否定しかなく。
せめて中であれば凍えることもなかったのにと垂れた文句は、眉を上げられて軽くいなされる。
「中から出るならともかく、侵入となれば手間がかかる。許可を得て出ているのだから、正面から戻っても問題なかろう」
「誰にも声をかけずに出たくせに?」
「お前も気晴らしができてよかっただろう」
お互い様だと背を押され、足が雪に沈む。独特の足音と、踏みしめる感覚。足先から伝わる冷たさと、背中から与えられる温度。
近づくにつれて咎められる恐怖が込み上げると思っていたのに、むしろ清々しい気持ちだ。そもそも、ペルデにどうやって抗えたというのか。
女王もミヒェルダも、それは理解するだろう。そして……意識の奥、ずっとペルデを蝕んでいた、あの男だって。
ジアードが咎められても罪を問われないように、ペルデも咎められる謂われはない。
数時間前までは、そうだと割り切ることもできなかっただろう。そう考えられるようになるなんて、ペルデ自身だって想像できなかった。
「どうした?」
「……なにが?」
「笑っているぞ」
指摘され、唇が上がっていたのに気付く。それがいい意味での笑みではないことも、男の瞳が示すとおり。
無意識に零れてしまったのだろう。取り繕うつもりはなく、むしろより笑みは深く、心はもっと軽くなる。
蘇った熱は、まだ胸の奥。これから先も燻り、ペルデを焦がし、苛むだろう。だが、そうだと認めた今、清々しさすら覚えている。
「出迎えるあの人たちの反応を想像しただけだ」
「なるほど。なかなか愉快そうだ」
されど、やはり素直に伝えるのはどうにも癪で。理由の一つを述べるに留まれば、男も喉を鳴らして笑う。
その真意に気付いていようと、なかろうとも。それを暴く必要も、明け渡す必要もないと肯定されるだけで、寒ささえ忘れてしまいそうになる。
「では、実際にどんな顔をしているか、確かめてやろう」
門が独りでに開き、二人を迎え入れる。それでもペルデの足はまだ軽く、心も晴れやかだった。
そう、ペルデは浮かれていた。まるで抑圧されていた子どもが自由を知った後のように。恐怖と後悔が押し寄せる刺激に薄れ、楽しさだけが胸を占めたように。
そして……自分が恐れていたものが消えたわけではないことを、突きつけられるところまで。
整列するトゥメラ隊。正面に迎えるロディリア。傍に控えるリヴィと、ミヒェルダの姿も。
されど、圧されたのはその光景ではなく、一瞬、息を吸うことを忘れるほどの魔力の濃さだ。
鼓動が跳ね、耳鳴りがペルデの頭を揺さぶる。鈍い痛みに襲われ、されどうずくまることはできず。竦んだ足は、背を押されて前に揺れる。
指先から背中に。まるで火が広がるように、落ち着く感覚が戻ってくる。
耳鳴りに紛れて聞こえるのは背後で扉が閉まる音と、集まっている妖精たちの羽音。そして、怯むことなく進み続けるジアードの足音。
気付けば、女王の姿は目の前に。その視線がペルデに向けられていないと理解しても、鼓動と耳鳴りは止まず、意識は背中に添えられた熱に向けられる。
「少々街に出た程度で、随分な出迎えだ。中立者殿には許可を頂いたが、まさか耳に入れていないと?」
ゆっくりと、わざとらしく周囲を見渡し。それから、いつものように煽るジアードに、女王は口を閉ざしたまま。
睨むリヴィも、他のトゥメラ隊も沈黙したまま。挑発に乗っていないだけなのに、胸騒ぎがするのは、なぜなのか。
「こんなことをする暇があるのなら、すべきことを――」
「数刻前、そちらに預けていた使者が戻った」
声が途切れる。その顔から笑みが消えたのかを、ペルデが見ることはできなかった。
響く足音は二つ。投影越しに見えていた二人は、間違いなくロディリアの隣にいたからだ。
アンティルダにいた彼女たちが戻っている。その事実が示すのは、一つ。
「丁重なもてなしを感謝しよう」
「……ようやくか」
笑う息は数分前にペルデが聞いたものと同じで。されど、心臓は重く、息苦しさから解放されない。
いつか来ることとわかっていたはずだ。それなのに、なぜ、自分は困惑しているのか。
「随分とかかったな」
「原因は未だ不明。調整のため、夜が明けるまでかかるが……こちらが約束を果たした以上、そちらも道理を通してもらおう」
「異論はない。いい退屈しのぎになった」
背中を押す力の強さに、たまらず前によろける。控えていたミヒェルダに支えられ、振り返ったジアードの姿は囲むトゥメラ隊に遮られて見えず。
「夜が明けるまでには調整を終えよう。よいな?」
「ああ、もちろん。残り僅かな滞在を、存分に楽しませてもらおう」
もはやペルデの役目は終えたのだと手を引く力は強く、声は遠ざかっていく。
別れの言葉も継げられないまま。最後まで、求めた深緋と視線は絡むことはなかった。





