337.遙か昔の物語
いつまでも続くと思えた人混みは、整備された道を外れた途端に、嘘のように途絶えてしまった。
もう日が落ちるというのに列は長く続き、西日が影を伸ばす。それは、街から離れていくペルデたちも例外なく。己の影を踏まれながら、どれだけの距離を歩いただろう。
赤く染まっていた世界は、今は薄い青。もう少しすれば、ろくに周りも見えなくなるだろう。
手に座っていた妖精は身体を丸めて横たわり、ジアードに掴まれた腕もそのまま。
日が落ちきる前に戻らなければという焦燥感は、とっくに失われてしまった。
焦ったところで、ペルデ一人ではどうにもならない。歩いて帰ることも、弁解することも、こうなった経緯を話すことだって。
どんなに疑問を抱こうと、ペルデにできるのは男に従うことだけ。
「……この辺りでいいだろう」
始まったのが突然なら、終わりもまた同じ。眉を寄せたのは、ようやく解放された腕の温度差か、その場に座り込んだ男の行動に対してか。
遠くに見えるのは、一直線に連なる光。その終点に集まる明かりが、城下の距離を示す。
……そういえば、街の外に出たのはこれが初めてだ。
聖国に連れてこられてからずっと、王宮と街の往復ばかり。常に誰かがいる状況で、息抜きらしいこともほとんどできていなかった。
だからといって、こんな展開を望んでいたわけではなかったが。
「こんなところまで来て、何をするつもりだ。……こいつは大丈夫なのか」
寝そべる姿は時間と共に顔色が悪くなる一方。路地に隠れるまでは元気だったのを考えれば、原因はあのローブを使ったことなのか。
ただ休むだけで良くなるのならともかく、その気配は一向にない。
「今に分かる。ソレについては大事ない。そのまま持っておけ」
妖精について、ペルデが知っているのはごく一部。そして、彼女について理解しているのは男だけ。
ゆえに尋ねた対処は、目的を誤魔化されるのと同時に有耶無耶にされる。
せめてジアードに返そうとするも、それも拒まれ。どうすることもできず、隣に座る。
肌に当たる風はやや冷たく、馴染むことはない。
見上げた先、本来いるべき場所は遙か遠く。もはや肉眼では見えぬ山頂は、変わらず白に覆われているのだろう。
本当にあそこにいたという疑いと、本当にここにいるという実感と。どちらも不鮮明なもので、居心地が悪い。
祭りの最中は考える余力もなかったが、隙間ができた脳は暇を潰すように勝手に回り始める。
昨日見た夢。語られた内容。……そして、途中で切れてしまった言葉。
「……さっき」
言いかけて、淀む。
ただ移住するだけなら、この先は知るべきではない。踏み込めば、それこそ戻れなくなるだろう。
ゆえに問えずに途切れた声を、向けられた深緋が促す。薄暗い中でも輝く瞳は、それこそ今更だと笑うように細められ、ペルデの口が開くの待っている。
……そう、既にペルデは踏み込んでいる。ただの一般人の域はとうに超えているのだ。
三日前、人質になると決断したあの瞬間には。
「あんたが父親を殺したって」
「ずいぶん勿体ぶると思ったが、その話か」
すくめられた肩は大げさなほど。どこまで話したかと、悩む素振りだってわざとだろう。
それは己の罪悪感を隠すためではなく、過去と割り切っているからこその茶番。
「アンティルダを加護していた精霊がいなくなり、初めのうちは父も生きていた。精霊に奪われたとはいえ、一国の王だ。伴侶を失ったとて、その役目を放棄することはなかった……とは記憶の脚色もあるだろうが、正しくあの男は王であったはずだ」
眺めるのは、かつてここにあった故郷ではなく、彼が戻らなければならない場所。かつて、そこにあっただろう光景。
精霊の消失に嘆く民と、残された子ども。全てを失いながら、それでも国を導かねばならぬと立ち上がる姿。
ペルデには、この男の幼少期を想像できない。その時に何を抱き、何を思い、何を決意したのかも。
だが、成長した今でも、その振る舞いは王として正しかったのだと、当時の子どもは語る。
「かつての繁栄こそ取り戻せなかったが、今の基盤を築き、民を導き続けたのは紛れもなく父だ。それこそ、当時の精霊を知る民が消え、何百年という月日が流れようとも、かの愛し子は精霊に代わりアンティルダを加護し続けた。……だが、いくら王であろうと、精霊の伴侶であろうと、あの男は人であった」
たとえ精霊と同じ存在になろうとも、根本までは変わらないのだと。思い出す光景は、遙か昔のもの。
「全てを奪われようと芯を失わなかったのは、共に愛する者がいたからだ。それは愛であり、信仰であり、そうして希望であった。
唯一の救いさえ失った人間に、数百年の年月はあまりにも重く。やがて、禁忌が男の身体を蝕んだ」
「……前にも言っていたな。禁忌に触れると」
ペルデとジアードが初めて会った日。トゥメラ隊に名乗りを上げた時も、ペルデを傍におくよう交渉した日も、男はその言葉を口にした。
これまでの教育で触れていなかったことを考えれば、それはアンティルダにのみ伝わるものなのか。
……ならばなぜ、エルドはこれを、知っていたのか。
「アンティルダは加護を失った地だが、理から外れたわけではない。人間界が過去に精霊の物であったのなら、どれだけ拒んだとて逃れられないこともある。それは、今の教会連中が定めた子ども騙しとは違う、例外なく犯してはならぬものだ」
「そんなものが、本当に?」
「……名を紡ぐこと。信仰すること。祈りを捧げること。存在を失われた精霊に関わる全てが、それに抵触する」
僅かに抱いていた違和感。その正体をようやく掴んだ榛色が瞬く。
トゥメラ隊もロディリアも、名乗りを上げるときは親である精霊が誰かを明かしている。それが聖国、あるいは愛し子に共通する作法であると思っていたからだ。
その流儀に合わせるのなら、ジアードもそう名乗るべきであった。できなかったのは、自分の母が既に存在を失った精霊であったから。
しかなったのではない。正しく、できなかったのだ。
そして、ロディリアと結ばれた契約の時も同じく。宣誓は、己の加護する精霊の名の下に行われるもの。
愛し子ならば、親である精霊へ誓うことになるのだろ。そして、ジアードには誓うべき精霊がもう既にいない。
「それが、禁忌……?」
「今を生きる人間に理解しろとは言わん。そもそも、アンティルダが特殊な例であることも理解している。大半は信仰を失ったゆえに存在が消えるのであって、魔力が枯渇して存在を保てなくなるなど稀なこと。とはいえ、アンティルダの精霊と同じように消滅した精霊も少なくはない。……それも、聖国に記述すら残っていないのが普通だ」
聖国の成り立ち。その経緯を知る際に教わった、失われた精霊たちについて。
精霊と人間が住む世界を別ち、信仰が薄れたせいで消えた数々の者。
同じ過ちを繰り返さぬため、存在意義を与えるため、ロディリアや他の愛し子に、この聖国が与えられた。
その時点で消えた精霊の名を彼女たちが残せるはずもなく、失いかけた精霊信仰を取り戻すこと自体が、彼女たちにとっていかに険しいことだったか。
だからこそ、ジアードの言う禁忌は伝わらず、誰も破ることはなく。消えたこと自体を覚えている方が特殊なのだ。
そこまで理解しても、実感が湧かない。祈りも、名を呼ぶことも許されない。それが、精霊を恨む男さえ犯してはならぬと言わしめる禁忌だとは。
ジアードもそれは理解しているのだろう。ゆえに、声は淡々と、事実だけを紡ぐ。
「今の精霊にとって、人間の祈りは己を確立する手段であり、存在意義だ。だからこそ奴らは愛し子を求め、人間の伴侶となれば競って娶ろうともする。他の愛し子であろうと構わず奪おうとする奴もな」
どうしてディアンが精霊界に呼ばれていたことを知っているのか、疑問に思うのも馬鹿らしくなってきた。
アプリストスに奪われそうになり、それを食い止め、無事に人間界に戻ってきた。ペルデが知っているのはそこまでだが……この男は、きっとそれ以上の情報を掴んでいるのだろう。
知っていたとてもう驚かない。既に、今与えられている知識がペルデの許容を超えているのだから。
「精霊は力を分け与え、その見返りとして祈りを捧げられる。どれだけ些細なものでも、それは脅威に成りえるものだ。本来精霊に捧げられるはずだった力が無意味に消えるだけとは考えられない。だからこそ、それは禁忌とされた」
「……でも、実際に害があったわけじゃないんだろ」
可能性は確かにあるだろう。だが、いくらアンティルダが外交を閉ざしていたといっても、それだけの異常を聖国が見過ごすなんて考えられるだろうか。
禁忌と呼ぶまでのこととは、とても思えない。それに、その可能性に聖国が気付いていないわけがない。
それすらペルデには伝えられていないだけかもしれないが……確証がなく、たらればで終わるのなら、それこそ子ども騙しと同じ。
「聖国が重視しているのは残っている精霊であって、消えた精霊についてはほとんど関与もしていない。そして、精霊が同じ存在を思い出すについては問題はないと考えられる。はっきりと禁じているのは我が国だけだろうな。……そして、その害に関しては、お前はその鱗片を既に見ている」
「え?」
「もう忘れたか? まだ数日しか経ってないうえに、死にかけたというのに」
数日前。死にかけた。蘇るのは、褪せることのない記憶。
呼び出された門の部屋。開かれた瞬間に襲いかかったなにか。明確には覚えていなくとも、ペルデの中に刻まれたもの。
途方もない幸福感と、抗えない恐怖。過剰な魔力に浸され、死を彷徨った感覚。
忘れるはずがない。あんな……あんな、恐ろしいものを、どうして。
否、問題はそうではなく、男がそれを話にあげたこと。
聖国も、精霊も知らぬはずの。今、男がこの状況に陥っている全ての元凶。
「お前っ……あれが何か知って……!?」
「さて、どうだか。お前の言う通り、これはただの憶測だ。到底、精霊に最も詳しい地で披露できるようなものでもない。俺が語れるのは、思い出すことも祈ることも禁じられた男の末路だ」
詰め寄りそうになり、意味がないと姿勢を戻す。
もし本当に禁忌が関係しているのなら、それこそロディリアたちが把握していないわけがない。
そして、こんな話題を下手に口にすれば、それこそアンティルダに疑いがかかる。
禁忌と今回の事象を結びつける明確な理由がない限り、男はこれ以上口を割ることはない。だからこそ、ペルデに続けられるのは昔話だけ。
「長い年月の中、あの男も己の精神が摩耗していた自覚はあったのだろう。いつか、近いうちに自我を失うと悟った男は、ある者に命じた。いつか自分が生きる骸となったなら、然るべき時にこの首を落とすように、と」
「…………そして、アンタが切り落としたのか」
約束を果たそうと、告げた声が重なり響く。知るはずのない光景。見えるはずのなかった過去。だが、あの夢は……男の所業の一片。
彼はその命令通り、自分の父の首を切り落としたのだ。
生きる骸となった男を、その生から解放するために。もはや救いのない命を、その楔から解き放つために。
……そうだと、約束した通りに。





