336.馬鹿と喧嘩はなんとやら
「この野郎、どこ見て歩いてやがる!」
胸ぐらを掴まれ、呻く。至近距離から漂うのは、尋常じゃないアルコールの匂い。
普通に歩いていたってぶつかる密度だ。つまり、その普通さえ認識できないほど酔っているということ。
傍観していれば、呆れの方が勝っただろうが、絡まれているのなら話は別。
「……すみません」
「骨が折れてたらどうすんだ、あぁ!?」
主張する腕で掴んでいる時点で折れていないのは確実だが、それを諭したところで火に油を注ぐだけ。
慣れぬ酒臭さと息苦しさに眉を寄せれば、その顔すらも気に入らないと怒鳴りつける声はますます大きくなる。
「んだよその顔はぁ、ふざけてんじゃねえぞゴラァ!」
「おい、やめろって」
幸か不幸か、連れは比較的酔いが浅いらしく、男を宥めようとするも解放される兆しはない。
身なりからして冒険者のようだ。
魔術はその限りではないが、一般人相手に教会の人間が先に手を出すのは固く禁じられている。
ペルデはまだ正式に加入しているわけではないが、どこから情報が漏れるも分からない。できるとすれば、殴られる前に防壁を張るぐらいしかないだろう。
もっと怖い目にあったこともあるのにと歯を食いしばっていたペルデが、不意に苦しさから解放される。
「あいっでででででで!」
「どうやら折れてはいないようだ」
咳き込み、咄嗟に数歩離れる。改めて見たのは、ジアードが男の腕を捻り上げている姿。
あらぬ方向にねじ曲げられた腕は、むしろ折るのは今からだと言わんばかり。
「それだけ喚けるのなら、大した怪我でもなかろう」
軽く押しやり、解放された男が前につんのめる。誰にもぶつからないのは、いつの間にか空間ができていたからだ。
野次馬に取り囲まれ、抜け出せず。礼を言うこともこの場から去ることもできない間にも、ジアードは男を煽る。
「そもそも、子どもにぶつかっただけで痛がるようであれば、実力も知れるな」
「っんだとこの野郎!」
「馬鹿っ、お前酔いすぎだって!」
アルコールで真っ赤になった顔を更に赤く染め、あまりにも簡単に挑発に乗った男を慌てて連れの者が押さえ込む。
だが、片方は酔っているとはいえ、素の筋力で叶わないのだろう。踏ん張ろうとする足がズルズルと引っ張られているかぎり、完全に止めることは不可能。
「落ち着けって、ちょっとぶつかっただけだろ」
「あっちがぶつかってきたのが悪いんだろうが! 不意打ちでなけりゃあんなの簡単に避けてたっての!」
話の飛躍っぷりも、酔っ払いの特徴と言えよう。
原因はお互い様であり、男がペルデの胸ぐらを掴まなければ掴み返されることもなかったと。正論を説くのはやはり意味のないこと。
まだ男が押さえられているうちに立ち去るべきだと促した榛色は深緋とは交わらず。むしろ、その赤は輝きを増し、唇は吊り上がる。
「そこまで言うなら試すか?」
「アンタも煽るなって! もういいだろ!」
ロディリアやトゥメラ隊ならまだしも、相手は一般人だ。冒険者として鍛えているかもしれないが、それでも、ただの人間。
実力差など火を見るよりも明らかだ。退屈しのぎをしたいにも程がある。そもそも、ここで騒ぐのに何の利点があるというのか。
今も周囲は騒ぎ、ただでさえ狭い通路は野次馬で埋め尽くされていく。快適なのはペルデの周囲だけだが、心境は全く以て逆。
とにかく構う必要はないと服を引くも、逆にペルデの方が掴まれ、背後にやられる始末。
「邪魔だ、退いていろ」
「じゃまっ……!?」
あまりにも直球な言葉に声も出ない。言うことに欠けて邪魔とは。
現役の冒険者相手に勝てるとはペルデも思っていないが、それでも邪魔とは!
「こっ……こんなところでもめ事を起こす必要なんてないだろ!」
「起こしたのは俺ではなくお前だろう? それに、俺は売られた喧嘩を買うだけだ」
「最初に売りつけたのはアンタだろうが!」
ああ言えばこう言う。口で敵わないと分かっているが、それにしたって屁理屈が過ぎる。
いったいどれだけ暴れたいというのか。あるいは、祭りではしゃぎすぎているのか? どっちにしろ、ろくなことにはならない。
「ずっと閉じこもっていたからな、そろそろ俺も暴れたかったところだ。あちらから殴りかかってきたなら正当防衛も成り立つだろう?」
「だからそれはっ……!」
「あ゛ー! ごちゃごちゃうるせえっ!」
説得虚しく、哀れ止めようとした連れは男の腕に振り払われる。
勢いのまま振りかぶられる拳に怯んだのはペルデ一人。実際に向けられた本人は、僅かに身体を反らすだけで難なく回避する。
いかに優れた冒険者であれ、今はただの酔っ払い。地面に倒れるのは防げても間抜けな姿には変わりない。
「どうした? 俺はここだが」
「うるっせぇ!」
なおも相手を煽るのは忘れず、再び突進してきた男を避ける姿は最小限。
喰らえば相当に重い一撃も、当たらなければ無意味なもの。
勢いが消えるにつれてジアードの顔からも笑みが消え、呆れの方が強く出る。
「話にならんな」
膝に手を置き、肩で息をする男を眺めながら、暇つぶしにもならないと吐き捨てる。最初から分かっていただろうにと、それこそ言ったところでジアードも素直には聞き入れないだろう。
「これならまだ鼠の方が戦えるな」
「っの野郎!」
盛大な溜め息に煽られ、再び向かってきた男の身体が宙を舞う。文字通り、真っ直ぐに飛んでいった先。背中から打ちつけたのは並ぶ露店の一つ。
ワシの店が! と叫ぶ店主の悲鳴と、止めるタイミングを伺っていた連れの非難する声。取り囲む野次馬の騒ぎ立てる声は大きくなり、いよいよ収拾がつかなくなって頭を抱えるペルデ。
「やりすぎだ!」
「ああでもしないと止まらなかっただろう。腹を殴って嘔吐されても困るからな」
詰め寄ってきた男に対しても、悪びれることなく述べる有様。追い打ちをかけるように笛の音が鼓膜まで揺する。
「おいっ! 何をしている!」
続けて聞こえたのはこの騒動を咎める声。人混みをかき分け進むのは、蒼い鎧を纏った男の姿。
騒ぎを聞きつけて兵までやってきてしまった。もはや言い逃れもできない。
だから止めたのにと、込み上げた溜め息は腕を掴まれたことで押し込まれる。
「詫びだ、とっておけ」
「ちょっ――!?」
被害に嘆く老人に投げ寄越される袋。擦れ合う音にそれが硬貨と気付いたのは、腕を引かれて走り出してから。
怯む野次馬の隙間を縫いながら、あっという間に人混みの中に。
事情を知らぬ者らの悲鳴や困惑が耳を掠め、ぶつからないよう避けようとするほどに足が縺れそうになる。
最初から障害物などないように、あまりにも軽やかに進む足は、ペルデの事情などお構いなしだ。
掴まれていなければとっくに転んでいたし、路地に飛び込まなければ、それこそ体力が尽きて倒れていたに違いない。
「げほっ、ごほっ……お、ま――んぅっ!?」
無理矢理捻じ込んだ隙間は、入れて二人がやっとのこと。息を整える間もなく口を塞がれ、振り絞った文句は喉の奥へ。
唐突に胸元を引っ張られなければ、ペルデも取り乱すことはなかっただろう。
口が動けば、今度こそ喚き、罵り、正気を疑い。そして、今と同じく首元から飛び出した光に目を瞬かせたに違いない。
シャラリ、鈴のような音を響かせ頭上に飛んでいく影。纏った服がヒラリと舞うのに目を奪われていたのは、男に何かを被せられるまでの間。
途端、音が増える。小さな粒子が擦れ合うようにささやかな。だけど、鼓膜に残る軽やかな音。
路地から差し込む光を浴びて反射する銀色の光。網膜を焼く反射は、それでもペルデが知っている物よりも柔らかく、優しく。
そう、ペルデは知っている。知るはずもないこれを。知っていてはならないはずのソレを。
壁と男に押し潰され、世界が閉ざされる。視界は男に覆われ、纏う香りに支配される。聴覚こそ外の喧騒を拾っているが、響いているのは自分の鼓動か、男の心臓なのか。
探し回る足音。見失い、捜索範囲を広げる命令。戻る喧騒。……そして、離れていく熱。
「やれやれ、大した暇潰しにはならなかったな」
最後まで期待外れだったと息を吐く男に、反省は見られない。だが、ペルデの中にはもうその怒りはなく。ただ、困惑ばかりが支配する。
二人を覆う半透明の膜。頭から足元まで覆い尽くす細やかな光。確かに服と分かるそれは、あの王宮ではペルデしか認識できないもの。
禁忌と称され、実際に目にした回数は少なくとも、その嫌悪感はペルデにもあったはずだ。
妖精の羽で作られたローブ。全てのモノから姿を隠してしまう、あってはならないはずのもの。
それなのに、なぜここにあるのか。どうしてロディリアたちは気付かなかったのか。
いいや、いいや。それ以前に――どうして、このローブは男の魔力で溢れているのか。
「お前もそれがいるのに絡まれるな。妖精でも怪我をしない保証はない」
銀の膜を掻い潜り、中に入り込んできた光はペルデの肩へ。あの部屋からずっとここに隠れていたのだろう。
途中から色々ありすぎて忘れていたが、それはただの言い訳に過ぎない。
「わ……わざとじゃない。そもそも、アンタが喧嘩を売らなければ、」
もう一度、口が塞がれる。今度は指によって柔く、軽く押しつけるだけのもの。耳に届くのは、まだ探索を続けている兵たちの声。
彼らに王宮の事情が伝わっているとは考えられない。自分を保護してもらうのは、あまりにも望みが低いだろう。
最悪は、ジアードと共に騒ぎを起こしたと拘束されることだが……こんなことで叱られるなど、それこそ御免被る。
指が離れ、今度は何も言わず。これからどうするのかと促した視線は、まだ絡む気配はない。
外から肩へ。深緋をなぞるように見た先で、落ちそうになった妖精を咄嗟に支える。座り直す仕草はどこか怠く、見上げてきた顔色は気のせいか、あまり良くは見えない。
「……そろそろ頃合いか」
シャラリ、音が擦れて視界が開ける。覆っていた魔力は失せ、再び腕を取られて前に。
ただし、身体は大通りには戻らず、狭い路地を突き進んでいく。
「そろそろって……」
「行く場所がある。それを落とさないよう、ついてこい」
拒否権は相変わらずない。だが、今までに比べて歩調が遅いのはペルデの錯覚ではないだろう。
手に乗せたままの存在と、背を向けたままの男。交互に見やった後、疑問はやはり喉の奥に押し込むことになった。





