333.有言実行
「……で?」
「ん?」
「本気で行くつもりじゃないだろうな」
扉が閉まるなり口に出たのは、男の発言が冗談であることの確認だった。
結局部屋に戻るまで腰を抱いていたジアードの身体を押しのけ、睨みつけた深緋はニヤニヤと笑うばかり。
エルドが言う通り、城下では祭りが開かれているし、暇を潰すには最適でもある。
だが、それはあくまでも帰れる距離であれば、の話だ。
「中立者が言った通り、俺の行動に対して聖国が制限する権利はないはずだが?」
「アンティルダから直接ここに来たあんたは知らないだろうが、街まで早くても一日はかかる。山道は最低限の整備しかされていないから馬車も使えないし、明日の早朝から向かうにしたって数時間しかいられないぞ」
隠す理由もなければ、嘘を吐く動機もない。今述べたのは、街の方角を見れば分かることだ。
この聖国でも、最も高い山の上。常に雪に覆われ、山道は気持ち程度にしか整えられていない。
ペルデでさえ、ここに来るには門を通じてが基本だった。一度もあの道を歩いたことはないし、命令でもなければ歩くつもり自体ない。
日が昇る前から向かったとしても、まともに観光もできないだろう。門が通じていれば話は別だが、そもそも彼が留まっているのはその門に問題が生じているからこそ。
あの発言はトゥメラ隊を煽るための冗談とわかっていたが、対するジアードはペルデを見つめて何かを考えている。
「なるほど。自分が楽しむ時間がないことを心配しているのか」
「どう聞けばそうなる! 俺は行っても無駄だと言ってるんだ!」
「歩いて行くのがいかに無謀であるか、俺が分かっていないとでも?」
大袈裟に首を振る仕草も、もう見飽きた。
冗談も通じないのかと嗤われ、分かっているからこそ確かめたんだろうと、こうして煽られるまま怒りを抱くこと自体もくだらない。
だが、理解していて何より。このまま山道を降りるとなれば、それこそ噛み付いてでも止めただろう。
あんな道を、それも休みなく往復するなど。それこそグラナートと同室に閉じ込められた方が……いや、どっちもどっちだ。
そこまで狂っていなかったかと、無理矢理落ち着こうとするペルデに一歩、距離が詰められる。
「ようは、徒歩でなければいいのだろう?」
「……転がっていくか? それとも、飛んでいくつもりか?」
まだこの話を続けるのかと呆れ、切り上げようとした矢先に手を掴まれる。見下ろす瞳に含まれるのは愉悦だけではない。
抗議の声が閃光に呑まれて押し潰され、咄嗟に顔を覆っても直視した瞳孔は順応しきれず、あまりの眩しさに耳鳴りにまで支配される。
痛みに涙が滲み、うなじから後頭部にかけて鈍い痛みが走り、飽和していく。
……いや、ちがう。この感覚をペルデは知っている。
耳鳴りも、痛みも、この麻痺していく感覚も。
それは、まるで門を通ったときと、同じ、
「いつまで目を閉じている」
呆れた声が上から響く。その顔を睨み付けたいのに、視界は元に戻らず。こじ開けようとするほどに痛みが走り、涙が伝い落ちる。
「いっ……いきなりなにすっ――」
「まぁそう騒ぐな」
ならば口だけでもと、張り上げた文句は唇ごと顔を覆われ、歪な音が響くばかり。
前触れもなく目を潰され、そのうえ騒ぐなとは、いったい自分が何をしたというのか。
涙を拭ってもまだ光は網膜から剥がれず、睨むこともままならない。
「とは言っても、こちらを気にしている奴などいないだろうがな」
だというのに、ペルデを苦しめている本人はさも他人事のよう。
気にするも何も、ここにいるのはペルデとジアードだけ。馬鹿にするのも大概である。
やっと痛みが引いてきたが、完治まであと何分かかるか。心地良いはずのそよ風も、今は沁みるかのよう。
……風?
そこで、違和感に気付く。この部屋に窓はない。そもそも、別館も魔術で温度が保たれているのだ。外気に晒されること自体ないはず。
されど、頬を撫でるのは冷ややかな空気と、嗅ぎ慣れない匂い。男の香りではない。もっと、様々なものが混ざり合った……それこそ、街の、ような。
光に慣れた瞳が、ようやく世界を映しだす。薄暗い空間。薄汚れた壁と、無造作に張られた紙。
左から差し込む光に導かれ、再び目を奪われる。
されど、それは眩しさではなく、その色の多さに対して。
風に揺れる三角旗。壁に飾られたタペストリー。蒼に溢れる中で多彩を放つのは、所狭しと並ぶ屋台。
なにかが焼ける音、装飾品の擦れ合う音、遊戯に興じる声。行き交う人々が足を止め、歩み、笑い、語る。なぜ、この溢れる音に気付かなかったのか。
呼び込む声はこんなにも活気づいて、普段の閑散さが嘘のように喧騒に包まれているのに。
これだけの人を見るのは、それこそ半年ぶりだろう。
されど、今のペルデに込み上げるのは懐かしさではなく、自分がこの場にいることへの困惑。
「なん、で」
「言っただろう? 祭りを見に行くと」
何を今更と、呆れる声を睨み付ける。あり得ない。だが、地を踏みしめる感触も、吸い込んだ息の冷たさも、現実。
「門は使えないはずだ!」
「その通り。門は使えないし、使っていない」
「なら、どうしてここにいる!」
訳がわからない。門を使っていないことはペルデだって分かっている。王宮に置かれた門は、あの一つだけ。あてがわれた部屋どころか、別館自体に存在しない。
門の代用品があることだって把握している。だが、それはトゥメラ隊たちに回収されているはずだ。そして、他には所持していないと結論も出ていた。
彼女たちの目に疑いはない。ならば、なぜこの場所に転移できたのか。
「方法ならいくらでもある。理解できるかは別だが」
「こんなこと知られたらっ……!」
「何度も言わせるなペルデ。中立者がああ言った以上、女王に止める権限はない。そして、俺の行動を制限する権利もな」
繰り返された内容を否定できない。二度も言わずともペルデも理解している。
追求したいのは責任ではなく、それ以前のものだと分かった上で、ジアードは話を逸らす。
「その権利には、お前自身の保障も含まれている。それとも、かの女王らはただの子どもが、他国の王に無理矢理連れ出されたことに対し責めるほど狭量であると」
「そうは言ってない! そうじゃなくっ――」
「ああ、責めるのはお前の義父か」
ほんの一瞬。確かに息が止まる。その予想を当てられたのではなく、見下ろす深緋の鋭さに対して。
動揺を見透かす光に俯き、考えたのは僅かな時間。
「……わからない」
それは心からの言葉だった。ペルデに、グラナートの考えなど分からない。
今回のことを怒るのか、それとも諦めるのか。あるいは……心配するのか。
そのどれでもなく、その全てであるのか。考えたってわからない。
「わかりたくない、の間違いでは?」
今度こそ、明確に肩が跳ねる。早々に思考を投げ出したことを指摘され、されど反論はできず。逸らしたままの目は、顎を持ち上げられたことで正される。
「それで? どうする」
「どう、って」
「理解ができずとも、お前が街にいるのは事実。咎められるのが怖いなら、今から一人で戻ってもかまわんぞ。今からでも頑張れば明日の朝には戻れるだろう。……それよりも先に、俺の方が戻っているだろうが」
実質的な脅しだ。人の足では無理なことは、先にも伝えたとおり。
何の魔術を用いたかも今は不明だが……ジアードに連れ帰ってもらう以外、現実的でないことも事実。
ペルデを傍に置いているのも暇潰しでしかなく、人質としての価値はほとんどない。
これで反抗したところで、困るのはペルデただ一人。
「……その恰好で、出歩くつもりか」
素直に頷くのも、同意を示すのも癪。口にできたのは、互いの恰好に対する指摘。
上下共に白の薄着であるペルデと、同じく風通しの良さそうな服を纏ったジアード。いくら人に溢れているとはいえ、相当に目立つだろう。
それこそ、探しに来たトゥメラ隊に見つかってもおかしくないほどには。
「ああ、そうだったな。手始めに服でも買ってやろう」
飯はそれからだと掴まれた腕を振り払うことはなく、笑う声は雑音に揉まれて消えた。





