332.想定外の遭遇
「……いい加減離れろ」
門から離れて、しばらく。一時の挑発と思われた行為に痺れを切らしたのは、やはりペルデが先だった。
腰を抱く腕を剥がそうと突っぱねた手は、それ以上の力によって強張っただけ。睨み付けても男は前を向いたまま笑うばかり。
今更トゥメラ隊の視線が気になるわけではないが、この状況を許容する理由にもならない。
昨日といい、今日といい。逃げないとわかっていながら過度に接触を図るのは、トゥメラ隊の怒りを煽りたいからだろう。
正しくは、今もペルデの背後から視線を送るミヒェルダに対してだろうが。……あるいは、彼女を気にするペルデ自身か。
どちらであれ、彼を楽しませると理解しながらも藻掻くのは、単純に与えられる体温が熱いせいもある。ただでさえ苛立ちを覚えているのにと、さりげなく込め直した力も、男にとっては子猫の戯れ。
「そんなに嫌がることもないだろう。昨日は自ら抱かれに来たというのに」
つれないことだと苦笑され、向けられる視線の鋭さが増す。意図的に言葉を選んでいる時点で質が悪い。
「その言い方は語弊がある」
「抱かれた事実は否定しないのか?」
「言いがかりだ! あれはっ……」
お前が引き寄せたから。そうしないと話さないと言ったから。騙されたから。
どれも男を冗長させるものだと気付けば、言葉は失われる。
楽しませない唯一の方法は無視をすることだと学んでも、実行できるのならそもそも翻弄されていない。
「本当に嫌なら、抵抗すればよかっただろう? 素直に俺の上に乗った時点で合意でしかない」
実際、沈黙を選んだ途端に悪質な言葉でペルデを揶揄おうというのだ。さっきの今で耐えろというのは、あまりに酷なこと。
馬鹿にされている自覚も、遊ばれている自覚もある。だからこそ、込み上げる怒りはペルデの心を揺さぶり、榛色の鋭さは一層増す。
「ああ、それとも……初めてだったのに加減しなかったことを、まだ根に持っているのか?」
「っ、だから、それは!」
「ジアード王」
抗議の声もろとも足が止まる。押す力もなくなり、立ち止まった二人に向けられる瞳は、投げかけられた声よりも冷たい青。
金属音は腰元から。手をかけられた剣の柄が擦れる不協和音に動揺したのは、彼女が望んだ相手ではない。
睨み付けた深緋は細まり、笑い、歪む。
「何か?」
「確かに彼が影響を受けたのは教会に非があるでしょう。ですが、あなたがそれ以上接触する理由にはなりません」
ここが王宮の中でなければ。女王の命令がなければ、既にその剣は抜かれていただろう。
そして、今それを留めているのは、まだ繋ぎ止めている理性があるから。
強く輝く光に重ねるのは、暗く寒い記憶。ペルデに『お願い』したサリアナを止めようとした時と同じ。
切っ掛けは些細なもの。ゆえに、これは蓄積された怒りが引き起こした衝動。
どうせ抜けないと高をくくっているのか。否、斬りかかられる事態さえも楽しもうとしているのだろう。
ペルデを抱く腰はより強く、熱く。より、その炎を煽る。
「そういえば、あの義父に代わり、こいつを気にかけていたのはお前だったか」
ペルデの事情を知っているのなら、ノースディアでの生活だって把握している。
事実、家族であるはずのグラナートよりも、共に過ごした記憶があるのはミヒェルダの方だ。
彼女がただのシスターではないと気付いてからも、ペルデが離れようとしても、彼女だけは変わらず接してくれた。
教会を出る前は自分のことに必死で、むしろ邪険にすら扱っていたのに。
それを踏まえれば、ペルデの一番の理解者は……ミヒェルダなのかもしれない。
実際、トゥメラ隊が許される範疇を越えようとするほどに。ミヒェルダはペルデを、守ろうとしている。
「半分とはいえ、自身に流れる血を忘れたわけではないでしょう。……彼から離れてください」
「……血か」
考える素振りは、ただの戯れ。
どう言えば、最も苛立たせることができるのか。どう動けば、より退屈を紛らわせることができるのか。
ペルデは理解している。この男は、わざと怒らせることで自身の欲求を満たしているのだと。
そのためならば、どんな言葉であろうと投げつけると。
「精霊の血が流れた者がただの人に接触するなと言うのであれば、そのままお前に返させてもらおう」
「何を言われようと、あなたの行為が正当化されることはありません。我々はあなたとは違います」
「ああ、そうとも。たとえ呼び名が同じであろうと、我々が相容れることはない」
同じ名称。同じ精霊と人間の血を引くもの。たとえ親となった精霊存在が異なろうとも本質は変わらない。
男の笑みは、それこそ分かりきったことだと蔑むかのように。
「任務のためと言えば全てが許されると思っているのだろう? 女王陛下に命じられたため、精霊に従うために、止むなく行ったこと。精霊が望む形になるためならば、何が犠牲になろうとも厭わぬ。たかが子どもの人生がどれだけ狂おうとも、人ではないお前たちにとっては些細なことだ」
僅かに跳ねたのは、抱かれたままの身体。からかい、誘い、見据える青は揺らがぬまま。
たとえ表に出なくとも男は理解している。ゆえに、その顔は無邪気さを覚えるほどに楽しく、より強く、歪む。
「放置する義父に哀れみ、中途半端に同情しただけで母親面か? その腕に抱くことのない我が子に重ねたとて満たされることはないだろう。たとえ人の血が混ざっていようとも、その真髄はお前たちを産み落とさせた精霊と同じではないか?」
「……お前っ!」
「ペルデ」
呼ばれなければ、拳は男に振りおろされていただろう。たとえ当たらずとも、その言葉を遮るため。これ以上、ミヒェルダを傷付けないため。
されど、彼女の表情は僅かにも歪むことはない。ただ真っ直ぐ、見据える瞳だけは変わらずに燃える。
確かな意志と、信念によって。決して燃え尽きることはない。
「我々を侮辱することで満たされるのなら、いくらでも罵ればいい。……だが、これ以上あなたの戯れにこの子を巻き込むな」
最後の通告だと鞘が鳴る。張りつめた空気の矛先は、トゥメラ隊からミヒェルダに向けられたもの。
取り押さえられるだけならまだいい。だが、それで済まないことぐらい、ペルデにだって理解できること。
止めなければならないのに、耳に落ちる吐息が、笑う音が、ペルデの思考を妨げる。
「それこそ、いまさら――」
「穏やかじゃないな」
今度こそ、拳は振り上げられたはずだ。遮られるよりも早く、感情のままに。
だが、身体は思わぬ声に弛緩する。動揺したのは、それこそペルデだけではない。
集まった視線の先、纏う衣に蒼はなく、目立つのは薄紫に光る双眸。
呆れを隠すことなく眉を寄せ、深く息を吐き。近づく影は、ここにいるはずのない男。
「中立者様、なぜここに……」
「近くを通りかかったら、何やら騒がしかったからな。……こんなところで客人に会うとは」
確かにあのバケモノを害する存在は監禁されているが、あの男がディアンの傍を離れるなんて。
「貴殿があの有名な中立者か。噂はかねがね」
「お初にお目にかかる。アンティルダの新王よ」
白々しい挨拶に含まれるのは、かろうじて感じる敬意。
エルドが精霊であることをわかったうえで、向ける深緋にまだ消えない光は、精霊の怒りすらも楽しもうというのか。
対してエルドは笑みを浮かべ、表面上は穏やかに見える。その心の内を、ただの人間であるペルデが悟れるはずもない。
「まだ母君が存命だった頃、一度貴国に訪れたことがある。民は今も変わりないか」
「不自由なくとは言えぬが、少なくとも脅威に晒されることのない日々を過ごしている。よもや、中立者殿に気にかけていただけるとは」
交差した光のうち、違和感を抱いたのは細められた深緋の方。本当に一瞬だが、動揺した素振りは、ペルデの気のせいではない。
精霊だと知っているなら、エルドが当時のアンティルダのことを覚えていても不思議ではないはずだが……。
「……それで? ――――?」
より探りを入れようとした矢先に、耳慣れない言葉に切り替わり、眉を寄せる。
辛うじて聞き取れた内容は、古代語。それも、訛りの強いものであることだけ。その内容も、何を話しているかも、ペルデにはわからない。
動揺は伝播する。咄嗟に見たミヒェルダの顔は、同じく戸惑っているもの。彼女たちですら聞き取れないほどに古い言語なのか。
ただ一人、理解できた男は笑い、息を吐く。続けて紡がれる言葉は、やはりペルデたちにはわからないもの。
相手にさえ伝われば問題ないと言葉が交わされていく中で、不意に薄紫がペルデを見る。
……話しているのは、自分のことか?
単に目が合っただけかもしれない。だが、思わず見上げた深緋とも目が絡めば、それは予想ではなく確信に近づく。
再び向かい合う薄紫。だが、その光に先ほどまではなかった強さを見つけ、頭の奥で鳴る耳鳴りに息を止める。
トゥメラ隊にまで聞かせたくない、自分に関すること。よぎるのはアンティルダへの亡命。
それをわざわざ、エルドに確かめる意図とは。
「――さて、これで納得いただけたか?」
「ああ。それがアンティルダの意思なら、俺が口を出すことではない」
長く思えた会話は、判別できる言語で終わりを示される。
その内容も意図も分からないが、今の対話こそ、自分の命よりも重視しているディアンを、置いてまで来た理由なのか。
考えてもペルデには分からないし、知ったところでどうにもならない。
ただ一つ明らかにするべきは、自分が関係しているのかだけ。
「そういえば、聖国の祭りはこれが初めてだったな?」
「いかにも。機会に恵まれなかったゆえ、来国自体、記憶にないことだ」
「終日まで屋台は出ているが、今日なら落ち着いているだろう。丁度、見て回るにはいい時刻でもある」
「中立者様!?」
思わず声が出るのも当然だ。王宮の敷地外に出てもいいと、実質許可を出したようなもの。
そもそも、ジアードも愛し子で、そうでなくとも一国の王だ。どちらにせよ、民への影響は避けられない。
責め立てるトゥメラ隊に対し、エルドは悪びれる様子もない。むしろ、騒ぐ彼女たちに非があると言わんばかりに呆れ顔。
「俺が言わなくても出ていただろう。勝手に抜け出されるより、把握していた方がマシだろ」
「だからといって……!」
「そもそも、女王と交わした約束があるかぎり、彼の行動を制限することはできない」
あの場で交わしたのは、アンティルダにいる使者の安全とジアードの弟たちの身柄を引き渡すこと。そして、門が直るまでの期間、ペルデを傍に置いておくこと。
昨日の儀式を見学したのと同様に、ジアードの行動を制限することはできない。それは王宮に限らず、市井に降りても同じこと。
ジアード自身が否定しないこと自体、エルドの推測が当たっていたことを示している。
「さすがは中立者様、よくおわかりで。なら、誰を連れ歩こうとも構わんな?」
「節度を持って行動するなら、俺から咎めることはない」
「ということだ、あまりはしゃぐなよ、ペルデ」
「……はぁ!?」
思わず抗議を上げてしまい、慌てて抑えても遅い。クツクツと揺れる肩のなんと憎らしいことか。
だが、楽しげな瞳は、踵を返した背を見た瞬間に細められる。
「中立者殿。最後に一つ尋ねたい」
「なんだ?」
僅かに揺れる赤が震え、瞬き。そうして、強い光は、僅かな耳鳴りを伴うもの。
再び交わされた古代語は、やはりペルデには理解できず。だが、その声はどこか穏やか。
それは見つめ返す薄紫も同じく。ふ、と吐かれた息に込められたのは、微かな寂しさ。
やがて会話は終わり、今度こそエルドの姿が遠ざかる。呼び止める声はなく、聞こえた微かな息は、どこか満たされたもの。
「……さて、中立者殿のお墨付きもいただけたことだ。祭りでも見に行くか」
再びペルデに落とされた瞳の中、もう精霊の鱗片は見えなかった。





