326.誰が為の
一つ瞬き、笑みが消える。そうして向けられる視線は、まるでディアンの表情をそのまま模したように。
「……勘違いしているようですが、それは私ではなく、オイノス様へ直接お伝えするべきだ」
「それができぬからこうして――」
「できないのではなく、していないのでしょう」
取り繕っていた笑みが固まるに伴い、言葉も詰まる。
確かな拒絶は言葉以上に強く、ようやく周囲の空気に気付いたとて、手遅れ。
「他の精霊ならともかく、オイノス様は人間界に残られた数少ない精霊の一人。真に祈りを捧げたなら、必ずお応えくださったはず」
「でっ……ですが、実際に祈っても助けてくださらなかったではありませんか!」
「自分にできることもせず、ただ恩恵だけを望む者になぜ加護を与えると?」
なおも言い訳を並べる男を、あの紫はどんな目で見ているのか。
まるで精霊のような口ぶりに抱くのは違和感ではなく、少しずつ噛み合っていく感覚。
この感覚を共感できる者がいないことを、ペルデはよく、分かっている。
「万事尽くしました! その上で助けを請うているのです!」
「できることは全てしたと?」
「はい! 全てです!」
「支援を求む民を鞭打ち、対等な対価を与えることもせず、怠惰に蜜を啜り続けるのがあなたの言う全てですか?」
困惑が広がる。方や名声の裏に隠された実情に。方や、内情が露見していたことに。
チカチカと舞う光。止まらぬお喋り。鈴の音に似たその声は、精霊の目と耳にもなる。
妖精は精霊の下僕ではない。まともな手伝いも期待できない。
……だが、そこにいるだけで意味を成すもの。
無駄に聞こえる囁きも、それは同じ。
「な……なにを、言っているのか……」
ろくに取り繕うこともできないのか。まともに努力もせず、ただ利益だけを傍受し、その上で救いがもたらされると信じ切っていた。ディアンと最も相容れぬ存在だろう。
吐かれただろう溜め息は、ペルデの耳には届かない。そして、榛色の冷めた瞳もまた、かの存在に届くことはない。
「オイノス様が愛したのは土地そのものではなく、その土地を愛し選んだ民そのものです。あなたの行為を教会が咎めずとも、オイノス様は全てを見通されています。あなたが富むことで民が苦しむのならば、精霊が手を貸さなくなるのは道理」
民ごと切り捨てることへの理不尽さもあるだろう。悪いのはこの醜い男一人であり、他の民に責任はないと。
……そう考えるのは、ペルデがまだ人間だからこそ。
たとえ人間界に残ろうとも、精霊の本質が変わることはない。それは決して、人間には理解できないものなのだと。
「精霊は確かに慈悲深く、強大な力を持っている。だが、決して万能でもなければ無垢でもない。助けを求める相手を違え、その恩恵に感謝することさえも忘れれば、いずれ加護すらも失うでしょう」
淡々とした言葉は、司祭に告げられた者と大して変わらないだろう。
精霊に感謝を。加護には祈りを。彼らはいつでも自分たちを見守り、そうして罰するのだと。
教会が言ったところで、信者でもなければただの説法でしかない。ただ利益だけを貪り、精霊の罰を畏れない者には到底届かぬ言葉。
……だが、今目の前にいるのは、既に人の道を外れた者。
直接顔を見るどころか、声を聞かせることすら精神に異常をきたすまでに精霊に近づいた存在。
空想でもなければ、届かぬ位置にいる異物でもない。確かにそこに存在する脅威。
「確かに私はヴァール様に嫁ぎ、精霊界に向かいます。ですが、既にこの身は精霊と同等であり、私が手を出せば加護の争奪にもなるでしょう。……ゆえに、私ができるのはオイノス様を説得することでも、プィネマ様に申し伝えることでもなく、あなたがするべきことを伝えるだけ」
強張る目は、見えぬ布の奥に何を捉えたのだろう。ああ、しかし、畏怖であったとしても、単なる恐怖であったとしても、ペルデと同じ感情でないことに代わりはない。
やはりあの男は、然るべくして、バケモノなのだと。
「己の過ちを認め、すぐに領地に戻りなさい。教会の司祭が、あなたの道を正す手助けをしてくれるでしょう。……そして、港から来た者も」
突然の茶番から、ようやく本来の謁見相手に話が戻り、夫婦の顔が壇上へ戻る。
その顔に宿るのは、やはりペルデとは相容れぬもの。
「先に伝えたとおり、今の私が名を授けるのは、加護を与えるも同義。私はヴァール様に支える身であり、人を加護することは許されません。……せめてあなた方の元に、精霊の加護があらんことを」
醜男に向けたものとは違う。柔らかな声は一言一句漏らすことなく、正しく、かの精霊は己の愛し子の言葉を伝えたのだ。
その胸に抱く歓喜のままに。その薄紫の光を、より強く煌めかせながら。
この距離で感じるはずのない魔力。錯覚と分かっていてもうなじは痛み、耳鳴りが頭の中を占める。キラキラと光は瞬いて、妖精たちが無邪気に笑う音が、止まない。
「いくぞ、ペルデ。もう十分楽しめた」
滲む汗ごと手を取られ、拭う間もなく繋がれる。振り払うには難しい力は、そうでなくとも拒めなかっただろう。
引き寄せられ、僅かに縺れた足は転ぶことなく、止める間もなく前に進む。
「ああ、見送りは結構。そちらも、これ以上の内緒話は不要であろう?」
追従しようとしたミヒェルダの足が、一瞬だけ止まる。それだけなら気付かれなかった動揺は、握られていた手のせいで露見し、笑う喉の響きが耳鳴りを打ち消す。
反論はなく、されど従う道理もなく。黙したままついてくるミヒェルダを、ジアードもそれ以上咎めることなく、足は前に。
「トゥメラ隊各位。待っている者たちに伝達を」
立ち去ろうとするペルデたちなど気にかけることなく、張り上げた声は響き渡る。
「私は話を聞くことはできても、あなたたちを助けることはできない。私は何も授けず、そして奪うこともない。それでも、あなたたちの祈りを精霊に伝えることはできるだろう」
正しく、精霊の伴侶として。精霊界に向かう人間として、それだけしかできないのだと。それを理解したうえで会いに来てほしいと。
そう告げたのは、精霊の伴侶としてであったのか。それとも、ディアン自身の言葉であったのか。
答えは与えられることもなく。そして、知る機会も永遠にない。
確かなのは、その空間で隔たれたということだけだった。





