325.謁見の儀
微かな記憶は、覚えているのも不思議なほどの僅かな間。朦朧とした意識の中でも残っていた光景。
間違いない。あの夫婦は、半年前にサリアナがディアンを連れて行こうとした際、巻き込まれてしまった民間人だ。
惨事になる寸前で逃げていたが……彼女たちは正しく覚えていたのだろう。あの時出会ったのがディアンであると。
彼女たちの言う祝福とは、民の言うお裾分けのことだ。聖国以外では、一部の地域。それも教会に深く関わる場所にのみ残っている習慣。
本来なら、ただの魔力の譲与。だが……あの時からエルドに感化されていたと考えれば、その影響は多少なりとも受けている。
もう魔力自体は抜けているだろうが、一般人にその違いが分かるとも思えない。
加護と同等の力を授かったと誤解している可能性もあるだろう。それが本人たちの思い込みであろうと、ディアンの与えた影響はそれほどまでに強い。
「覚えています。無事でよかった」
紡ぐのは、これまでと同じくエルドの口からでも、本人の言葉なのは雰囲気から伝わってくる。
ペルデですら覚えていたなら、実際に対話したディアンだって。
だが、なぜジアードは反応した?
気付いたのは、彼女たちが名乗るよりも前。サリアナが捕らえられたのは、そのすぐ後。
それなのに、彼は彼女たちを知っている反応を見せた。それも、ペルデに思い出させるように、わざとらしく。
盗み見た顔から思考は読めず、浮かぶ疑問は膨らむばかり。
「おかげで病にかかることもなく、今日まで過ごすことができました。これもディアン様のおかげです」
「私は何もしていません。感謝であれば、あなた方を見守ってくださる精霊へ祈るといいでしょう」
まるでシスターのような口ぶりだ。グラナートも、彼に対して感謝を述べる人々にそう返していたのを思い出す。
あの言葉が本心であれ、誤魔化しであれ。この儀式の目的を考えれば、そう返すのが最も正しい。
知らぬは、純粋に感謝を伝えようとはるばるやってきた、無垢な者たちのみ。
「もし許されるなら、次に生まれる子に名をいただけないでしょうか」
望みを口にする父親と、まだ膨らんでいない腹を撫でる母。されど、その中には確かに新たな命が育まれているのだろう。
性別がわかるはずもない。だが、名付けを望むなら今しかない。生まれる頃には、もうディアンはこの世界にはいないのだから。
僅かな沈黙は、戸惑いの現れだ。献身な者が司祭に名付けを頼むことは珍しくはない。グラナートも何度か頼まれていたのを覚えている。
そして、その度に彼がなんと答えていたのかも。
答えようとしたのが先か、止められたのが先か。どちらでもなく、騒ぎの方が先に生じたか。
列の後ろ、大聖堂に差し掛かる手前から微かに届く声。
喚いているのは男らしく、この距離だというのによく響く。覗き込めば、トゥメラ隊に制止されている姿を捉え、次に隣の男に意識を傾ける。
こんな典型的な気の反らし方をするとは思えないが……。
「言っておくが、俺とは無関係だぞ」
「……な、にも言っていませんが」
動揺は隠しきれず、ク、と鳴る喉で見通されていたことを突きつけられる。
「伯爵である私を――平民――!」
「目は口ほどにと言うだろう。そもそも、あんな下等に頼らなければならぬ事情など、俺にはない」
確かに彼からすれば下等で、そのうえ身の程知らずの馬鹿と言える。ここがどこか理解しておきながら、大声で権威を振りかざすなど。
大人しく従う気配はない。となれば、実力行使となるわけだが……。
大半が背後に気を取られる中、ペルデの視線は前に戻る。捉えるのは、互いに目を合わせているだろうエルドとディアンの姿。
対話にして数秒。頷く代わりにゆっくりと瞬く瞳。薄紫は声を張り上げ、騒動の元に呼びかける。
「トゥメラ隊。その者を前に」
困惑は一瞬だけ。命令に反することなく、男を取り囲んだままディアンの元へ連れて行く。
ようやく判別できた姿は、一言で表すなら悪趣味そのものだった。
肥え太った姿に、目が痛むほどの装飾品。入り口から歩くだけでも息が切れている様は、まさに豚のよう。
自分の体重もろくに支えられないのか、床を慣らす荒々しい音は、先に謁見していた夫婦の隣に並んでようやく止まった。
「ぜぇ……お……おはつに……お目にかかります。ディアン様におかれまして、この度のご婚約まことに――」
「まずは名を挙げよ」
鋭い叱咤は、ディアンの代弁ではなく中立者としての発言だ。
顔に滴る汗を拭っていた男が大きく肩を跳ね、僅かにだが苛立ちを露わにする。
それも、目の前にいる相手を思い出してすぐに引っ込めたが、手遅れでしかない。
「私めはペンドルトンと申します。改めて、この度のご婚約誠に、」
「この謁見の場において、あなた方の地位が関係ないことは周知したはず。それを理解しながら、なぜ彼らを脅したのですか」
祝いを遮り、強く問いかけたのは……流れで言えば、ディアンのはずだ。
あるいは、今だけロディリアの声を代弁したか。教会に対する不敬に、あの男がすぐに反応できるとは考えにくい。
否、それも結局はペルデが抱いている一面でしかない。イズタムから指導を受けたと考えれば、この対応だって不思議なものではない。
教会に対する不敬は、すなわち精霊への侮蔑にも繋がるのだから。
「脅したなどとんでもない! ですが、我が領地の危機ゆえ、少々言葉が荒くなってしまったことは事実……!」
「領地の危機?」
「ええ! ディアン様は、オイノス領の名に聞き覚えはございますか?」
ざわざわと広がる喧騒。順番を抜かされた不満と、場を狂わせられたことへの困惑。そして、聞こえた地名に反応する者。
民に覚えがある以上に、教会にとっても特殊な場所だ。
「オイノス様が加護される地は、ワインの名産地として有名でしたね」
「ええ、そうです! 私めは代々、オイノスの地にて伯爵の称号を賜っておりまして。先代まではほぼ毎年、プィネマ様に献上する精霊酒にも選ばれておりました」
ダラダラと続く自慢を聞き流し、思い出すのはかの精霊について。
人間界に残った、数少ない精霊の一人が加護を与える地。
その年で最も出来がよかった酒は精霊酒と称され、女王陛下の手によって精霊界に届けられる慣習を知らない者はいないだろう。
そして、プィネマは精霊酒の対価として、その土地へ加護を与えるという。
これが加護の略奪に値しないのは、加護の対象が個人ではなく土地であるからだろう。そして、次の年が来れば新たな土地を加護するようになる。
精霊界と人間界が隔たれた頃からの習わしだ。唯一、精霊への献上が許された行事とも言える。
一度だけでも名誉なこと。それが例年となれば自慢するにも値する。
だが、手放しに褒められないのは、ディアンに語り出した言葉のせい。
「ですが、近年は不作が続いており、このままでは精霊酒としての献上どころか、事業の存続も危うい有様! どうかディアン様のお力添えで、精霊様の加護をいただけないかと……!」
肌がヒリついたような感覚は、ペルデの錯覚ではない。背後から。正面から。伝わる空気が、抑えながらもその怒りを伝えている。
これが女王の御前であれば、男の身の保証はできていなかっただろう。
対して、ペルデの真横。ジアードの笑みは、それこそ珍獣を見るように面白がっている。
彼にとって、今起きていることは見世物でしかないのだろう。
「オイノスの司祭に相談は?」
「もちろんです! ですが、精霊様にかけあうことはできぬとの一点張りで……ゆえに、遠路はるばるここまでやってきた次第にございます。精霊と婚姻を結ぶディアン様であれば、精霊様にお伝えしてくださるだろうと……!」
必ず願いを叶えてくれるだろうと信じ切った顔に対し、エルドの表情が変わらないのは、それこそ飽きるほど見てきたからだろう。
これまでの生で、同じような願いを口にした愚か者は、それこそペルデの想像できないほど存在したはず。
「さて、かの選定者殿はどうするか」
この場において判断するのは、女王でもエルドでもなく、ディアン自身。彼がどうやってこの場を納めるのか、期待する呟きが鼓膜を擽る。
「お前はどちらに賭ける? 上手くいなすか、それとも……」
「賭ける意味もないでしょう」
遊びに乗るつもりはないとはね除けても、クツクツと笑う声は剥がれない。
こんな、分かりきった答えに賭ける価値はない。あのバケモノはすでに人の道から外れているのだ。
精霊の。そして、中立者の伴侶として並ぶうえで、どう答えるべきかをディアンは理解している。
その答えを示すように、薄紫が布の向こうへと視線を向ける。僅かな沈黙、交差したのはきっと一瞬。そうして、浮かんだ柔らかな笑みは、ディアンの意思を尊重したもの。
それでいいのだと確信を持って、ディアンの選択を導くように。





