323.退屈凌ぎの一幕
「どうやら、これについては正しく学んでいるようだ。それにしても、なんとも羨ましい。数百年に一度、たった数人を精霊に捧げるだけで知らしめることができるとは。実に効率的でいい」
言葉こそ最小限でも、ペルデの態度は彼を満足させるに値したらしい。
だが、続く言葉はペルデに対してではなく、傍に控えるもう一人に向けて。
ミヒェルダがどんな顔をしているのか、ペルデに見ることはできない。だが、彼女ならこの程度で反応しないだろう。
トゥメラ隊という前提もあるが、十数年一緒に過ごしたからこその確信もある。
その半数がシスターとして接していたとしても、彼女が望んでペルデの近くにいたのではなくとも。少なくとも、グラナートよりは冷静に対応できるという信頼がある。
「前こそ人数は多かったが、今では一人……それも洗礼を迎えたすぐの子どもとなれば、懐柔しやすいのも利点だな」
「前のことはともかく、今の選定は同意の上で行われている。供物という表現は正しくない」
「なるほど、お前も生贄と認識していたか」
それでも、彼女が反応すれば男が喜ぶと理解して、庇わない理由はない。
逆鱗に触れられる前にと自分に戻そうとした矛先は、むしろ鋭さを増してミヒェルダに向けられる。
今でこそ教会が制御しているが、シュラハトとアピスの婚姻が認められた後、数多の人間が伴侶として迎えられた。その大半は望まずして、半ば強制的に。
最も人間を娶ったのは、強欲を司るアプリストス。
エヴァドマに残った記録でさえその数は多く。それが世界中となれば、彼が婚姻を禁じられるまで、何百人の女性が犠牲になったか。
精霊という強大な力に対し、素直に受け入れられたのはきっと数える程しかいない。
たとえ認識が変わろうとも、根本は変えられない。伴侶とは、精霊に対する供物だと。
「一部の精霊とはいえ、犠牲になった数は計り知れない。どれだけ隠蔽しようとも、お前たちの父親は――」
「ジアード王」
深緋と榛色が交差する。ようやくペルデを見下ろした瞳に睨み返すのは、言葉だけでは止まらないから。
彼の言っていることは正しい。ペルデだって同じ考えだ、否定はできない。
教会の肩を持つつもりもなければ、精霊の理不尽さを庇うつもりだって。
だが、この男の退屈凌ぎに彼女が傷付けられることは、違う。
「繰り返すが、少なくとも前回の選定から、これまでの悪習は取り除かれている。そして、二度と過ちを犯さないため、今の教会がある。不満があるなら俺たちのような下ではなく、女王陛下に直接申し上げればいい」
この件において、少なくともミヒェルダは犠牲者だ。咎められる謂われはない。怒りを抱かせる必要さえもない。
時間潰しの片手間に傷つけられるなど、それこそ。
ペルデの視線が鋭くなるに比例し、男の目が細まる。その奥に隠れる深緋から熱は消えず、むしろ輝きは増していく。
「悪習か、なるほど。有無を言わさず嫁がせることは止め、教会は伴侶自身に意思を委ねるのが正しいと判断したと」
「教育は施しても強制はしない」
「幼少から親と切り離し、監禁によって外界から遮断させ、教育と言う名の洗脳を施した上で迫る選択に意味があると?」
揺らぐ。息が、視線が、思考が。口にできない否定に、歪む深緋から逃げられないまま。
違うかと、煌めく炎がペルデを蝕む。抱かれた肩は熱く、強張った身体でどう抜け出せたというのか。
「拒否されるのが問題ならば、そもそも拒否できぬよう思考を植え付ければいい。必要なのは本人の意思ではなく、自分で望んだという事実だ。その一連を見届けた民は、羨ましがることはあっても否定することはない。たった十数年の教育で数百年の安寧を得られるとは、本当に良くできた仕組みだ」
覗く歯は、まるで牙のように。今、まさにペルデの喉笛に噛み付かんとしている。
喰らうためではなく、弄ぶために。呆気なく食い殺せると、そう自覚させるために。
「どれだけ本人が拒絶したくとも、外界から遮断されたうえ、十数年もの間否定されれば思考は淘汰され、やがては諦める。……それでもお前は今の慣習を良しとするか? その苦痛を誰よりも知っているのはお前のはずだぞ、ペルデ」
無意識に引いた足が、食い込む指に咎められる。
痛みより勝るのは、骨へ至る熱さ。耳鳴りはかつての幻聴を伴い、ペルデに襲いかかる。
ディアンに感じた恐怖も、自分の意思とは反した行動も、付き纏っていた違和感も。それらを理解されない苦痛も。まるで熱風のように押し寄せて、むせびそうになる。
『ペルデ』
ここにはいない男の声が、あの日の声が木霊する。塞ぎようのない言葉、聞きたくもないそれが繰り返される。
そう、ペルデは知っている。どんなに強固な岩でも、流され、削られ、摩耗していくことを。だからこそ、あの男をバケモノと称したことを。
普通は耐えられないから。耐えられなかったから。だから、自分は、
「ジアード王」
熱が剥がれる。引いていく痛みと、すぐ近くで聞こえた声。揺れる瞳が定まった先に、男の手を掴む細い指。
静寂の中、戻ってきたのは己の鼓動と、止まっていた呼吸の音。滲む汗は熱さのせいだと、誰に言い訳したかったのか。
「それ以上の発言は見過ごせません」
彼女の顔は見えなくとも、鋭い視線が向けられた先は男で間違いなく。
そして、やはり男は機嫌を損ねることなく、鼻で笑って手を払う。空いた指先は素直に下ろされ、ペルデに触れることはない。
「俺は事実を口にしたまで。……とはいえ、今回は事情が異なるようだが」
複数の足音。視界に入る黒と茶の影。この距離ですら眩しく映るのは、彼に纏わり付く妖精が多いからだろう。
用意された椅子に座った紫と目があったのは、ほんの一瞬。視線は幕に遮られ、もうペルデには映らない。
だが、まだ自分を見ている確信を抱き、逸らした先にあったのもまた、色素の薄い紫。
鋭い眼光に怯んだのは、その矛先が自分ではないと気付く僅かな間。
赤と薄紫は交差し、言葉はなく。精霊と知りながら、臆することもなく。
鼻で笑う音が聞こえたのと、エルドが己の伴侶に目を向けたのはほぼ同時。
頷いたエルドが手を上げて間もなく扉が開放される。
誘導に従い、一昨日はディアンが通った道を進む民の姿は、貴族も平民も区別なく。まるで、精霊の前では身分など関係ないと突きつけるように列は進む。
段の手前、切り離された先頭。進み出るのは凹凸の激しい家族。
長身の女性と、背の低すぎる男性。そして、二人より前に進んだ少女の姿に目を開く。
プラチナブロンドから零れる薄い桃色。大きく開いた瞳に嵌められた緑。誰が見ても愛らしく、そして美しいと称する姿は、この後続く民へ手本を示すように膝を折る。
流れるような動作、指先一つ取っても、重ねた姿とは似つかわず。
されど、堂々たる動作でカーテシーを披露し、微笑む顔はあまりに似すぎたもの。
「ラミーニアから参りました、ララーシュ・レーヴェンと申します。この度は選定を受けられたこと、心から喜び申し上げます」
そして、かつての『花嫁』に似た少女は、よく似た響きで儀式の始まりを告げた。





