322.二度目の大聖堂
静かな空間に足音が響く。冷たく、甲高く。王宮とも別館とも違う響きに、拒絶されている印象を抱いたのはペルデだけだろう。
裏口で見張っていたトゥメラ隊の視線を受けても笑みを絶やさず、堂々とした足取りで前に進み続ける男は、もはや我が物顔である。
既に女王から命令されているのだろう。そうでなければ、彼女たちが素直に通すわけがない。
廊下を抜け、階段に差し掛かる手前。煌びやかな蒼が見えなくとも、その傍にいた彼の姿を捉えなくたって、ペルデには分かっていた。
「……ペルデ!」
見開いた赤。踏み込もうとしたグラナートを制したのは、同じく女王の傍にいたミヒェルダだ。
イズタムの姿が見えないのは、ディアンについているからだろう。一斉に向けられる視線は、背後から突き刺さるものと同じ。
顔を逸らしたのは、なおも向けられるグラナートの視線ではなく、蝕むような圧迫感から少しでも逃れるため。
声を出さないのは無視したいのではなく、自分の振るまいを理解しているからだ。この場で会話を交わすべきは……それこそ、彼らであると。
「なぜここに」
「愚問。本日行われる儀を見る他に何があると?」
他国の、それも教会に反する国が入れる場所ではないと述べれば、やはり男は楽しそうに紡ぐ。
布越しに絡む視線の強さまで味わうように、隠すつもりもない光はギラギラと輝き、網膜が痛むほど。
「本来であれば、各国の代表者は全ての儀式を見る権利を有し、それを聖国が拒むことはできない。そして、対価を支払った以上、私の行動を制限される謂われはない。……そうだな?」
実の弟と自国の従者を指す言葉とは思えないが、彼にとってそれ以上の価値はないのだろう。
その命が実際に失われたとしても目的が達成できるのならと、惜しむこともないのだろう。
「本来なら彼もこの場に同席するはずだった。貴殿の優秀な部下となろう子どもから、またとない機会を奪うのはさすがの私も心が痛む。……そうだろう? ペルデ」
ようやく左腕が解放されたと思ったのは、肩を抱かれるまでの一瞬。
抱き寄せられ、花の香りが鼻腔を擽る。甘く、苦く、引き寄せられた肩の熱さに比例して、香りが強くなる錯覚に襲われる。
実際に強くなっているのは、抱く男とは違う赤の鋭さ。怒りに満ちた炎はかつて恐れたものと同じ光のはずなのに、抱く力が強すぎるせいで意識はジアードに奪われたまま戻らない。
「まだ負荷が抜けきっていない者を連れ出すなど……!」
「本当にそう見えているなら、かの英雄殿は相当の節穴と言える」
頑なに顔を向けようとしないのを不調と捉えたグラナートに対し、男の表情は変わらない。
いいや、グラナートでなくともそう考えるのが普通だ。詳細を覚えていないペルデ自身でさえ、ここまで回復していることを疑っている。実際の一連を目の当たりにし、覚えている彼女たちならなおのこと。
「私もそこまで馬鹿ではない。治療の必要がないからこそ、彼の意を汲んでここまで連れてきたまで。疑うのなら確かめるといい」
僅かにロディリアの顔が動き、真っ先に動いたのはミヒェルダだった。
抱かれたままのペルデに伸ばされる指。額から頬へ、順に触れる温度は温かいとは言えない。
微かに思い出すのは、自分を守って倒れた姿。彼女こそ、まだ万全ではないはず。
それでも無事であったことに安心し、見慣れた瞳を見上げれば、ペルデではない声が漠然と頭の中に浮かび上がる。
『……本当に大丈夫なのね?』
思考を流されていると気付くまで数秒を要したが、それがペルデの身を案じたものだと理解すれば、返答は変わらない。
小さく頷いたペルデに対し、表情は険しいまま。されど目蓋は僅かに緩み、浮かんだ安堵は瞬きの間に消える。
「確かに負荷は抜けているようです」
「何の問題もないな?」
不快だろうと、相応しくなかろうとも、これで教会が咎める理由は失われた。
視線だけで人が殺せたなら、グラナートの目は男を絶命させていただろう。だが、実際は受けた男はなおも楽しそうに笑い、ペルデを抱く力を緩めることなく。
「これまで放任していた者の態度とは到底思えんな」
「……なに?」
反応したのはペルデも同じ。だが、引っ掛かったのはグラナートだけ。
分かりやすい誘導。明らかな挑発に耐えられなかったのは、それこそ心当たりがあるからか。
「何をそう不安に思うことがある? 貴殿の教えどおり、彼は従事者として任務を全うしている。誰かと違い、罪の意識がないだけでも優秀と言えるだろう。それとも、他に不満に思う事があると?」
狭まる眉間。より鋭くなる赤は、ジアードだけではなくペルデにも向けられる。
ペルデから語ったことを疑い、咎め。滲む怒りはこれまで恐れていたものと同じはずなのに、否定をする気も起きない。
「彼に何をした」
「……何も?」
重なりかけた悪夢が、移ろう熱に消散する。肩から首を遡り、辿り着いた頬を包まれたところで、突き飛ばしかけた腕は強張って動かず、宥めるように指が動けばなおのこと。
「見ての通り、父君に疑われるようなことはしていないとも」
様々な否定が頭をよぎり、どれも言葉にできず。親指で顎を押され、無理矢理絡む深緋は、先ほどの真剣な色とはまた異なる。
ほんの数日だけしか共にいないが……それでも、これはからかっているのだと気付いてしまう。
それもペルデではなく、ここまで分かりやすく反応するグラナートに対して。
湧いた苛立ちは巻き込まれたことか、後々の面倒くささに対してか。
榛色に険しさが戻れば、それすらも楽しいと鳴る喉の、なんと軽やかなことか。
「ああ、失敬。義父殿と呼ぶべきだったか」
耐えかねたグラナートが詰め寄る――寸前で、グラナートに伸ばされたのはミヒェルダの腕。
静止を促され、詰まった息は吐ききれず。静寂を取り戻した女王が口を開く。
「確かに、見るだけならば止める理由はない」
「結構。伴侶殿への挨拶ならば、また機を改めて」
「……いいだろう。ミヒェルダ、ジアード王の護衛を。他は持ち場に戻るよう」
承認の声は重なり、遠ざかる足音も同じく。一人だけ近づいた蒼は、命じられた男ではなくペルデのそばへ。
続くことを許されなかった赤は遮られ、その一連を直視しないまま足は階段に差し掛かる。
向ける感情の行き先がペルデなのか、ジアードなのか。答えはないまま、やがて目的の場所に辿り着く。
高所に用意された吹き抜け。左手に見えるオルフェンの像。眼下に広がる座席。先日と異なるのは、そこに座っている者が一人もいないことだ。
選定者と、かの精霊が誓いを交わした段上にあるのは、中央に置かれた一脚の椅子。
その雰囲気が王座に似ていると思ったのは、置かれた椅子の装飾ではなく、それを取り囲む円形によって。魔術で描かれたそれは、内部にいる者の姿を隠すためのもの。
そして、その範囲が広いのは……選定者と共に入る者がいるからだ。
この後何を行うかは、既に知らされている。そうして、ペルデがここから見守ることも変わらない。
……まだ肩を抱かれていなければ、だが。
「今日の儀式について、どう聞いている?」
「……その前に、離していただけますか」
もうグラナートの視線はなく、ミヒェルダを煽る必要はない。離れようとした身体は、より強く引き寄せられて身動きさえ満足にできず。
「気に食わないと言っただろう。何度も言わせるな」
どうであろうと、ペルデの敬語は気に食わないらしい。まるで罰だと言わんばかりに、浸食する熱に込み上げる息は深く、重い。
「……謁見式と聞いている」
「内容は?」
「あなたの方が俺より知っているだろ」
それこそ、関係者であるはずのペルデよりもずっと。参加するのが初めてだったとしても、知識だけならあるはずだ。
「お前の口から聞きたい」
この男を獅子とたとえたこともあったが……めまぐるしく変わる瞳の色は、むしろ退屈を嫌う猫のように思えてくる。
抱かれた肩に爪は立てられていないが、弄ぶという点であれば大差ない。
この推測も間違いではないだろう。この猫が愛らしい子どもではなく、猛獣という点を除けば、だが。
「精霊への感謝と俗世の声を選定者に託し、その想いを御身ごと精霊界へ献上するために必要な行為だと聞いた」
ミヒェルダの姿は男に阻まれて見えず、反応を探ることはできない。だが、沈黙が許されない以上、他に答えようがない。
「民にとっては、短い時間でも選定者と対話できる唯一の機会だと……」
「建前はいい。お前がどう認識しているかを聞いている」
再び見ようとしたのは、今度こそ答えを躊躇ったからだ。逃げることは許さないと視線すら封じられ、彷徨った挙げ句、瞳は左へ流れて止まる。
誰よりも高い場所から、これから訪れる民を見下ろす石の瞳。幼い頃から見続けてきた面影に重ねるのは、中立者の姿。
「洗礼式が精霊への道理と各国の周知を主とするなら、謁見式は民に伴侶の印象を植え付けるためのものだと」
「なぜ?」
「……精霊と教会の信仰を、保つために」
制止もなく、否定もなく。そして、声はなくても深緋はペルデを見下ろしたまま剥がれない。
そもそも、この五日間に及ぶ儀式の目的は、精霊と教会の信仰を保つためだ。
教会の起源、そして役割は、精霊を忘れないために布教すること。
ゆえにオルフェンはロディリアの存在を許し、シュラハトはこの地を与え、アピスは彼女の役割を担わした。
今でこそ教会の権限は強大だが、力を得るために、これまで如何なる手段も選ばなかったのだろう。
そして、最も民に知らしめることができたのが、今回の儀式。
たとえ数百年に一度であろうと、刻まれた光景は語り継がれ、精霊の威厳は保たれる。
たとえ全員が信じなくとも、誰かが祈り続ける限り精霊は存在できるのだ。
だからこそ、もう精霊に近しき存在になったディアンが民に与える影響を理解してなお、この儀式を行った。
必要性を知りながらロディリアが拒んだ理由こそ、ペルデに悟ることはできない。だが、精霊にとって必要だからこそ、最終的に要求を呑んだのだ。
教会の権威を守るため。そして、精霊界の安寧のため。
本来なら呼びたくもないアンティルダまでも招いたことで、教会はようやく本願を果たした。
必要なのはディアンが伴侶になったことではなく、精霊が実在し、見初められた者がいるという事実。
目にしただけでは足りない。どんなに僅かな時間でも、実際に言葉を交わすことで、より深くその印象を刻みつけることができるのだ。
……そうして、精霊が始めに犯した過ちは沈められ、仮初めの名誉と美しい光景だけが語り継がれていくのだ。
かつて、アンティルダがそうされたように。





