321.かつての『花嫁』と『選定者』
たった一日。体感にして半日ぶりの太陽の光が窓越しに突き刺さる。
白と蒼に統一された廊下では余計にその輝きを増し、いつまでもペルデの目を刺したまま。だが、それ以上に食い込むのは、後ろから続く足音と、彼女たちから向けられる視線だ。
難なく部屋を抜け出した男に向けられていると理解していても、うなじはジクジクと痛み、まるで無数の針に突き刺されているかのよう。
ペルデと同じく、彼女たちもジアードを止められる理由はない。だが、制止できずとも、足音が止まることもないのだ。
そうさせている当の本人だけが涼しい顔で、胃の中がぐるりと渦巻くのは空腹のせいだと言い聞かせる。
実際にその腹に手を当てなかったのは、既に左腕を奪われていたから。
部屋を出て今に至るまで。ペルデの手首を掴んでも十分余る指。触れ合う素肌から伝わる温度は、今も燃えそうな程に熱い。
だが、その熱すら吹き飛ぶほどに外は寒く、吸い込んだ息は肺まで凍らせるかのよう。
雪に反射する太陽。聞こえる民衆の声。
一昨日と違うのは、ペルデが出てきたのが王宮ではなく、ジアードにあてがわれていた別館であることと、その身にまともな防寒具を纏っていないことだろう。
元よりペルデは人質。そんな気を回すつもりもなかっただろう。
鼻先から温度が抜けて、踏み込んだ雪のせいで足からも冷やされていく。生理的な現象まではどうしようもないと震えた身体は、当然手を繋いだ男にも伝わってしまう。
されど、与えられる熱は、力を込めた男の手だけ。
「どうした、寒さを凌ぐ魔術ぐらい覚えているだろう。遠慮することはない」
「……会得していません」
男が見ていると気付いても、ペルデの視線は前に向いたまま。無駄に動く気力さえもないと、振り絞る声はやはり震えて情けない。
「自分の腕を焼けるだけの気概があるなら、習得しているものと思ったが」
本当に、この男はペルデの怒りを煽りたくてたまらないらしい。
あの日。バケモノと再び出会ったあの時。
まさに今握られている左腕を焼いたのは、ほぼ無意識の抵抗と言えた。
吐き気と、自分が自分ではない錯覚。洗脳によって冒された思考で、それでも抗おうと振り絞ったもの。
かつてディアンを追い払おうとして咄嗟に出たのも同じ魔術だったかと思い返した夜が、もう遙か昔に思えてくる。
「状況が違います。そもそも炎の魔術は苦手ですし、俺に与えられた加護はグラナート様と違いますから」
「魔術の得手不得手に加護の属性は関係なかろう。……いや、ネロに加護された者は大抵炎の扱いは苦手な傾向にあったか」
王族や特別な例を除き、賜った加護が公開されることはない。本人の口から明かされることがない限り、教会関係者でもなければ知れる方法はない。
そして、英雄……グラナートの息子であったとはいえ、ペルデは一般人。正規の方法で知ることは不可能。
だが、当然のように知っていることを明かされ、本当に隅々まで調べ尽くされていることを改めて突きつけられても動揺することはない。
むしろ、ペルデが知らない情報を与えられた事に驚いたぐらいだ。
「どうやら、聖国の教育というのも大したことはないらしい」
突き刺さる視線の鋭さが増したことに、利用されたと気付いたところで遅い。この男はどうしたって誰かを怒らせたくて仕方ないようだ。
「おい、聞いたか。『花嫁』サマの話」
これ以上失言するぐらいならと、唇を閉ざした代わりに与えられたのは男の笑いではなく、どこからか聞こえた話し声。
視線を向けた先、一昨日の押しつめた光景とは違い、列を成して並ぶ民の姿。話し声など聞こえるはずもない距離で、それでも耳に入れてしまったのはその響きのせいだったのか。
「ああ、本当は英雄の娘じゃなく、その息子だったんだろ? 花嫁ってだけで勘違いしてたって話なら、とっくに知ってるって」
「違ぇよ。なんでも、娘を精霊に嫁がせようとしたのは、その美貌に魅入られた父親が惜しんだらしい」
「女なら分かるが、息子だろう? ヴァンは男色家だったのか?」
「いいや、昨日その姿を見た奴らが言うには、ディアン様は精霊に見紛うほどに美しかったらしい。ありゃあ手元に留めたくなるのも無理はないってよ」
昨日間に合えば姿が見えたのにと、惜しむ嘆きに訂正する者はいない。
市井に広がる噂は、それこそ尾ひれがつくものだ。教会から事実が公開されていようと、民は好きなように捉え、解釈する。
サリアナの陰謀も、ノースディアの過ちも、エヴァンズ家の犯した罪も。そうして、正しい記録は聖国にのみ残され、彼らに伝わる事実はこうして湾曲されていくのだ。
確かに、ディアンはもう人間とは言えぬ存在に等しい。今なら、他にもあの瞳を恐れる者が見つかるだろう。
だが、それはペルデの抱いたものとは違う。
人であるはずなのに。否、人であるからこそ恐れていたペルデを、もう誰が理解できるというのか。
もう既に、あのバケモノは人の道を外れたというのに。
「そういえば、『精霊の花嫁』殿に会う機会はなかったな」
熱によって引き戻された先。しみじみと呟かれたそれは、ジアードにもあの声が聞こえていたという証明。
ただし、その言葉が指すのはディアンではなく、かつて褒めそやされた少女の方だ。
透き通った白い肌。薄桃色の光を放つ金の髪。長い睫毛に彩られた緑の瞳。囁く声は、さながら小鳥の歌のよう。
数多の人間が心を奪われ、彼女こそ『精霊の花嫁』と疑いもしなかった。そもそも教会から否定されていないのであれば、疑う余地もなかっただろう。
事情があったのだとしても、大衆がそうだと信じれば少数の意見は黙殺される。
どれだけ異常だと思ったって、それを聞き入れる相手はどこにもいなかったのだから。
「噂では、サリアナによく似ていたとか」
「……いいえ」
笑う息は、辛うじて音になることはなかった。
思い浮かべるのも忌々しい姿。同じ金の髪。同じ精霊からの加護。確かに、フィリアの加護を賜った愛し子の外見は精霊に似るという。
ペルデがフィリアに会うことはなくとも、ディアンや女王の反応を見るに、本当にメリアはよく似ていたのだろう。
「加護を授けた精霊が同じだっただけです。全く似ていませんでした」
……だが、サリアナとメリアが似ていたかと言えば、否。
どれだけ強い加護を賜っていようと、その性格がいかに幼稚であろうとも。彼女は人であった。
バケモノが人の皮を被ることができても、人がバケモノになることはできないのだから。
「昨日あれだけ語り合ったというのに、随分と冷たい対応だ」
ペルデの回答に満足できなかったのか、返された話題はペルデの精神を逆撫でるもの。
どうしても、この異国の王は砕けた口調でなければお気に召さないらしい。
「誤解を招く言い方は止めてください」
あくまでも淡々と。それ以上の意味はないと示した榛色が、腕を引かれて揺れる。
重心が崩れ、向き合った身体。差し出された手は支えるためではなく、ペルデを掴まえるため。
顎をすくわれ、顔は上に。貫く赤は細められ、注がれる熱に寒気ではない震えが背筋を駆け上がる。
「な、ん……っ」
思わず漏れた抗議は、伸ばされた指が喉を掠めたせいで詰まる。絞められるかと強張ったのは一瞬。されど、声が出ないのは喉を撫で続けているから。
それだけなら猫を愛でるのと同じ動き。だが、当然ペルデは猫ではなく。ゆえに困惑し、声は音にならない。
「誤解もなにも、事実だろう?」
否定が熱に押し戻される。掴まれたままの左腕も、擦られる喉も。触れる指が、見つめる深緋が熱くて、内側から燃やされているかのよう。
馬鹿にしているのでも、からかい遊んでいるものでもない。ギラつく光に翻弄され、うなじが僅かに痛むのは本能が拒絶しているからだ。
微かな耳鳴りは、男が視線を逸らしたことでようやく途切れる。
「戯れの区別もできないか? それとも、この程度のことで民を惑わす気か」
柄にかけられていた手が離れても、向けられる視線の厳しさまでは緩まない。鼻で笑い、ペルデの顎を解放しても手は繋がれたまま。熱は疼くように与えられ続ける。
寒さを忘れるほどの一連は、目的の場――大聖堂が近づいたことで、終わりを迎える。
否、儀式の続きはこれからだと、込み上げる溜め息はペルデの奥でわだかまった。





