318.引き摺り出される感情
顔を上げた先、見据える赤。口から覗く牙は、まさに獲物を捕らえたと笑う獣そのもの。
失態に気付いたところで、もはや、手遅れ。
「……なんの、話で、」
「今更誤魔化す必要もないだろう。元よりここは門に近く、そして最も精霊界に近い場所。影響を受けぬはずがない」
黒い影が乗り出し、下がろうとした身体は背もたれに阻まれる。床と擦れた椅子が不快な音を立てる間、ペルデができたのは深緋を見上げることだけ。
救い出した存在は奪われ、手を伸ばす間もなく、続けて手つかずのパンも奪われる。
千切られた先端は、そのまま男の手元に。小さな腕を懸命に伸ばし、欠片を受け取った少女が男を見上げる。
指先で頭を撫でられる顔にあるのは信頼の笑顔。
アンティルダにいないはずの妖精が……彼を、知っている……?
「これだけ静かなのは久しぶりだろう」
「え……」
「他の妖精だ。これまで数匹いたことはあっても、全くいない状況はなかっただろう?」
指摘され、思わず見渡した部屋の中。飛び込む光は一つもない。
シャラシャラと擦れるような音も、囁き合う声も、気付かないはずがないのに。
「本来、妖精が見えるのは聖国の愛し子か、過剰な加護を与えられた一部の人間のみ。幾度もかけられた禁術の影響により見えるようになったお前は、特殊な例に当たる」
「何を……」
「先も言ったとおり、ここは精霊界に最も近く、そして人と精霊の間の子しか許されぬ禁域。いくら半分とはいえ、精霊の血が混ざっている限り純粋な人間とは呼べない。そして、普通の人間なら声を聞くだけで正気を失う者もいるだろう」
手が動かないと思ったのは、耳を塞ぎたい衝動に駆られたからだ。これ以上聞いてはいけないと訴えかける本能は、見据える赤のせいで従うことができない。
それこそ、人ではない光が。純粋な人間ではあり得ない、その強い光がペルデを見ている。
どこにも逃げ場などないと突きつけるように強く、熱く。
「精霊に準ずる力を持つ者の傍にいるだけで、人間は影響を受け、心身を犯される。どれだけ異常と理解しようと、本来なら半年ももつはずがない」
光が歪む。まるで獲物を弄ぶ猫のように。獅子のように獰猛に歪む唇の隙間、牙を覗かせ、追い詰めたペルデを嗤う。
「普通、一般人、平凡。まったく笑わせてくれる。いったい、お前のどこが普通だというんだ?」
「っ……私は、ただの人間です。それ以上でも、それ以下でもない」
「そう、ただの人間。それも二度目の洗礼を受けていない子どもが、男が許されぬこの禁域に滞在し、精霊の伴侶の御付きとして女王に従事している。そのうえ、見えるはずのない妖精を認知し、十数年もの長きに渉り禁術に侵されながらも正気を保ち続けていた。……それをお前は、普通と言うのか?」
笑う声が木霊する。もう聞こえないはずの声が。もうこの世界にはいないはずの、あのおぞましい笑い声が。
たった一人を手に入れるために、全てを狂わせたあの女の声が、未だペルデを蝕み続けている。
「幼少期から植えつけられた洗脳に対し、怒りだけで抗い、己の腕を焼いてまで逃れ。そうして最後にはあの女を絶望させるに至ったお前が普通だとは」
呼応するように左腕が引きつり、熱を持つ。傷跡が消えようと、その痛みを忘れることはない。あの衝動を、そうして得た全てを、ペルデが忘れられるはずがない。
この男が知るはずもない過去。誰にも語ったことのない感情。記憶が木霊する。引き摺られ、呼び起こされてしまう。
「お前が選定者を恐れていた感性こそ正常だっただろうが、俺からすれば、今のお前も奴と変わりないバケモノ――」
「お前らと一緒にするなっ!」
椅子が倒れ、机が揺れる。叩きつけた手は激しい音を立て、スープは零れた。
驚いた妖精の姿が視界に入っても、感情を抑えることができない。
何を言われようと耐えられるはずだった。挑発だと分かっていたから、耐えなければならなかった。
だが、それだけは許せない。あろうことか、あのバケモノと同じなど!
誰から見てもおかしかったのに、最後には精霊に見初められたことでようやく異常だと肯定されたのは、ディアンの方だ!
ディアンも、あいつの父親も、その妹も! それに惚れ込んだ馬鹿な男も、全ての元凶である女も。グラナートだって!
普通の奴なんていなかった! 自分だけが普通だったから。受け入れられなかったから。受け入れてはいけなかったから。ずっと、ずっと!
同じじゃない。同じであってたまるものか。
自分だけは違う。たとえ、その道から外れようとしていても、そうだと突きつけられようとも、その根本だけは絶対に!
「こうなると分かって残ると決めたのは俺だ! お前には関係ない!」
追い詰められた獣が必死に威嚇する様にも似ていただろう。
どれだけ声を荒げようとその爪は脆く、傷を付けることもできず、男を楽しませるだけ。
「ああ、そうだ。お前はそうしなければならなかった」
されど、細まる瞳から紡がれたのは、決してペルデを嗤う音ではなかった。
蔑むのでも、哀れむものでもない。ペルデの怒りを受け入れるよう、静かに見据える深緋は強まり、目を逸らすことができない。違う、逸らしては、いけない。
「なに……」
「この十数年、望まずとも学び続けたお前は、そうしなければ解放されないと理解していた。たとえ本心に背くことになろうとも、この現状を形だけでも受け入れるのが、自分を救える唯一の手段だと理解していたからこそ、お前は選ぶしかなかった。……違うか?」
それは、知られるはずもないペルデの心情。誰にも打ち明けたことのない、自分だけのもの。
理解されぬと理解し、足掻き、溺れ。その末に自分が掴まされた選択と、自分自身のために選ばなければならない未来。
悟っているのは中立者だけ。そして……彼が、ペルデの選択を奪うと知って、誰かに伝えることはない。
『ペルデ』
声が木霊する。白い部屋。用意された茶菓子。冷め切ったカップ。歪む顔。見据える赤。絞り出された小さな声。許しを請う、あのおぞましい響き。
『ペルデ。私は、それでも――』
「ペルデ・オネスト」
幻覚から引き戻されれば、貫くのは異なる赤だ。煮詰まった血のように濃く、太陽のように熱い瞳。それは、強い意志を纏った者が示す光。
「反論はあるか?」
「……あなたは、どこまで知っているんですか」
問われ、口を開き、息を吐く。
否定はできない。したところで、意味はない。
だからこそ、漏れたのは疑問だ。ただのついでで調べる範囲はとうに超えている。
そこまでしなければならない目的は、いったい。
「言っただろう。数日は共にするんだ、親睦はゆっくり深めればいい。……そして、本音を話すためにも、無粋な物は排除すべきだ」
そうだろうと、指先に合わせて浮かび上がったのは放置されていたスプーン。
持ち手をペルデに向けられ、嵌められた石が甲高い音を立てて割れる。
耳を塞ぎたくなるほどの不協和音。耳鳴りにもにたそれは、交信石が破損する際の特有の音。
盗聴されていたと気付くのには、十分過ぎる一連。
何事もなかったように匙が転がり、同時に男が席を立つ。
「ああ、それと。今後はその改まった敬語ではなく、先の砕けた口調で話すように」
そちらの方が俺の好みだと笑った男が本を手に取り、視線はもう合わず、言葉は交わらない。
砕かれた欠片に抱いた不快感は、口に付けたスープと共に呑み込むしかなかった。





