316.儀式 二日目
真っ先に見えたのは、白に塗り潰された天井だった。
王宮の一室。横たわっている状況。それだけ見れば自室に戻されたと考えただろうが、僅かに抱く違和感がそれを否定している。
鼻先を擽るのは、微かな甘さと木の匂い。あのバケモノが好んでいる場所ならともかく、ペルデが与えられた部屋にここまで匂いのする草花はなかったはず。
深く息を吸い、整え。疑問よりも先に感じるのは、深く眠れていたという自覚。
頭の中で居座っていた不快感は跡形もなく、まるで真冬の朝のように澄み切った感覚さえ抱く。
持ち上げた手に怠さもなく、起き上がる身体を支えることも造作ない。
不快感がないどころか、逆に良すぎることに再び抱きかけた疑問は、額から落ちた何かでまた逸らされる。
布でも置かれていたのかと、拾おうとした手がソレに触れる直前で固まる。茶色の頭部に、緑の瞳。コロコロとペルデの膝まで転がったのは一人の妖精だ。
この王宮で彼女たちの姿を見ない日はない。ペルデの部屋にも紛れ込んでいるぐらいだ。
あの手この手で悪戯を仕掛けてくるなら、寝ている間に額に乗り上げるぐらい不思議ではない。
だが、その背中にあるべきモノが――羽が、ない。
妖精にとって、それは死にも等しい苦痛のはずだ。そうして実際に命を落とした存在がいるからこそ、サリアナはその罪を今も償い続けている。
羽をもがれた妖精は次第に弱り、その生も長くはないと……だが、ペルデを見上げる小さな瞳に死の気配はなく、パタパタと裾を払う仕草は妖精よりもどこか人間じみている。
落とされたことへの不満もなければ、害をくわえられる恐怖もない。ただ、驚いているペルデを見つめているだけ。
自分が気付かなかっただけで、今までも存在したのか?
そうでなければ、女王陛下が静観しているはずが……。
「目がさめたか」
聞こえるはずのない他者の声に、弾かれたように顔を上げる。
耳慣れない声。早鐘を打つ心臓。真っ直ぐにこちらを見る深緋を視認した途端、熱を持った左腕に触れかけたのを抑え、もう一度状況を振り返る。
眠る前までの記憶。断片的な欠片を繋ぎ合わせ、ようやくここに至った経緯を思い出す。
自分は、望んでこの場にいるのだと。
「調子はどうだ、お嬢さん」
実質的に、ペルデは人質だ。自分の目的のために進んで選んだとはいえ、自ら不利な立場に陥ったことに変わりない。
嘘であろうと頷き、答えるべきだと理解している。
……だが、聞き逃せない呼称で呼ばれれば、それも揺らぐというもの。
「……ジアード王。恐れながら、自分は男です」
「ああ、そうだったか。先日襲われた際に否定されなかったものでな。俺の目がおかしくなったかと疑っていたところだ」
視線は手元の本に落とされ、上がることはなく。
最初に遭遇した時のことだと眉を寄せれば、見ていないはずなのに男から喉の鳴る音が響く。
「それで、否定はできても私の問いには答えられないと?」
「……大事ありません」
思い出したからこそ、再び湧き上がる疑問。不調どころか、あまりにも良すぎる。
あれから何時間経ったか定かではないが、サリアナから与えられた負荷が抜けきるまで一か月。ヴァールの魔力にあてられた時でさえ、万全になるのに数日はかかった。
詳細こそ思い出せない。だが、今回倒れたのはその比ではないことは身体が覚えている。
四肢の痺れも、倦怠感も、頭痛も、吐き気すらもない。もしこの男がいなければ、それこそ全て夢だと思っていただろう。
十分な休息だけでは説明がつかない。何かされたと考えるのが妥当。
「なら、腹ごしらえでもするといい。ああ、念のために言っておくが、一定以上離れられないよう術をかけてある。大人しくしているんだな」
「……分かっています」
危害をくわえないとはいえ、人質が逃げないように対策するのは当然のことだ。そもそも試そうとも思っていない。
ゆえに疑問は、彼らが魔術を扱えるという点に対して抱いたものだ。
過去の因縁より、アンティルダに精霊の加護は与えられていない。聖国との不可侵盟約もそれに関係してのことだ。
門がなければ、魔力の供給はない。魔力がなければ、魔術だって扱えない。だからこそ、アンティルダは不毛の地とさえ呼ばれている。
だから使えるはずがないと否定しかけて、よぎったのは金色の影。
……サリアナがいたのなら、それこそ魔術を扱えるようになる方法などいくらでもあるだろう。
それに、魔術が使えないのは人に限ってのこと。どちらが理由であれ、断言できる要素はない。
一人納得し、ベッドをおりかけたところで、妖精の存在を思い出して膝に視線を落とす。
そこに探した姿はなく、それこそペルデの錯覚だったのか。
「一人では立てんか?」
「……いいえ、ご心配なく」
今度こそ地面に着いた足は揺れることなく、平均感覚も異常はない。見えた机の上には、トレーに乗せられた二枚の皿。
白パンとスープ。普段食べている物よりも質素なのは、ペルデの体調を考慮したものだろう。言わずもがな、もう温度は冷め切り、温もりは欠片もない。
窓もなければ、時計もない。時間を知る術は、問う以外の方法はないだろう。
「俺が同席を許さないほど狭量な男だと?」
対面に座る男を一瞥し、トレーに手をかけたところで言外に咎められる。
「……自分のような一般人が、一国の王と同じ席に着くなど恐れ多いことです」
「一般人か」
ク、と堪えた笑い声の意図はなにか。トレーから目を離せば、既に男は本を閉じてペルデを見ている。
見つめれば見つめるほどに、轟々と燃える炎。色こそグラナートに似ているが、違うことをペルデは理解している。
特別な加護を賜った者にしか許されない光。人の域を外れかけかけている証。だが、ペルデを見つめて笑う輝きは、既にその一線を越えている。
これは、ペルデの触れてはならぬ領域であるということ。
「そうかしこまることはない。これから数日は共に過ごす仲だ、俺も適度に気を抜くとしよう」
砕けた口調は、ペルデの警戒心をとくには至らない。
ノースディアが滅亡する一因となった国の王。儀式の前日にも自分の弟を送り込み、かと思えばその身柄を部下共々聖国に差し出した。
目的も思考も読めない相手と二人きりなど、気を抜けというのが無理な話。
それでも断る選択はなく、離れた手は背もたれを引く動きに変わり、視線は同じ高さになる。
向けられた手の平は、食事を取るように示す圧力。
こんな状況でも空腹を訴える身体は、ある意味正常と言えるのか。
癪に障るが、されど反抗する理由もなく。パンを千切ろうと伸ばした手が、小さな影に重なったところで止まる。
噛み付くことも、千切ることもなく、ふかふかと押し込む姿は、まるで寝具の具合を確かめるかのよう。
「さて、俺に聞きたいことがあるんだろう?」
やはりその背に羽はなく、見慣れぬ姿に寄せた眉は、男の問いによって戻る。
ペルデに注がれる深緋は手元に落ちることなく。彼には見えていないことを知らされる。
こんな異様な妖精、見えていたなら反応しないはずが……いや、見えていたとて気にしていないのか。
それこそ、妖精は精霊と密に関係している。アンティルダがいい感情を抱くとは限らない。でなければ……あんな禁忌を犯すはずもないのだから。
「私が眠ってから、どれだけの時間が経ちましたか?」
「おおよそ半日といったところか。精霊界からの襲撃から数えれば、ほぼ一日眠っていたと言える」
欠片しか思い出せない記憶。門であった異常事態。それがもう昨日のこととは信じられなくても、身体の変化が男を肯定している。
たった一日。この身体がここまで回復するまで、たった半日。
ならば、事態は大して進展していないだろう。精霊界側がなんと答えようと、今のペルデに知る術はない。
今の自分にできるのは、この男の目的を探ることだけ。
「なぜ、私を指名したのでしょうか」
「あの場で最も幼く、そして最も弱っていたからだ。俺も命がかかっているからな、確実な手を取ったまで。……どうやら利口と思っていたのは俺の思い違いだったようだが」
それぐらい理解できたはずだと、隠す気も無い挑発は怒りを誘うもの。
これがグラナートなら引っ掛かったか。あるいは、トゥメラ隊のように耐えたか。
実際に投げかけられたペルデが抱いたのは、熱ではなく確信。
「ただの交換なら自分もそう判断しました。ですが、あまりにも比重が釣り合っていません」
「血が繋がっていないとはいえ姉妹とも呼べる者らの無事と、最初から切り捨てるつもりだった人間。釣り合わないのは当然だろう」
愚かな問いかけだと鼻で笑われ、それでも怒りは抱かない。
事実、この聖国でペルデの価値は無に等しい。
この地に滞在を許されているのは、ディアンの一件があったから。グラナートの息子でなければ、交渉することもできなかっただろう。
そもそも、息子でなければ始まることもなかったなんて、分かりきった答えからは目を逸らし、榛色は深緋を貫く。
「釣り合っていないのは聖国ではなく、あなたの方です」
「……ほう?」
形のいい眉が上がり、細まる瞳は興味を隠さない。続けろと視線で促され、テーブルの下で握った手が音を立てる。
焦ってはいけない。今は、事実を述べるだけ。
「貴重な人質に対し、自分の弟と部下全員を引き替えに得えるだけの価値は自分にはありません」
「対等な取引とは、同じ位置に立っているからこそ成り立つものだ。元より退路を断たれ、膨大な力を持つ聖国に対抗するには全てを差し出す覚悟もいる。実際、そこまでしなければあの女は俺の要求を呑まなかった。いや、どこかの利口な子どもが自ら人質になると声をあげてようやく、だったか」
ペルデさえ黙っていれば聖国は不利にはならなかったと、なおも男は怒りを煽る。
事実、ペルデの発言が決定打になったのは否定しない。黙っていればペルデでは想定できなかった最良を選べただろう。
だが、ペルデ自身にとっては、今こそがこれ以上ない選択だと断言できる。
その結果、結局は何も得られなかったとしても。何も変わらなかったとしても。ペルデにとっては、限られたチャンスなのだから。
「聖国が何を思おうと、私を待つ民がいる以上、私はアンティルダに戻る義務がある。元より、その覚悟でこの地に足を踏み入れた。今更、弟の命程度で俺の信念が揺らぐことはない」
言葉だけを聞くなら、嘘ではないだろう。
たとえ不毛の地と呼ばれようと、精霊の加護を失った国であろうとも、そこには民があり、生活がある。
王として彼らを守るためならば、血の繋がった家族を切り捨てる覚悟もあるだろう。
だが、それだけではないとペルデは確信している。
引き下がるなら今だ。 分かりきった罠に踏み込むほど愚かではない。
この男が自分を傍に置いたのは、人質以外の理由はないと理解している。そんな相手に真実を明かすなど、それこそ馬鹿でもやらない。
この一連に意味はなく、ただの暇つぶしに使われている。これ以上付き合ったところで、ペルデが得られるのは微々たるものだ。
だが、その僅かな情報こそ、ペルデが求めていたのも事実。
踏み込まなければ、自らの身を犠牲にしなければ手に入らないもの。今しかない機会を諦めるか、否か。
脳裏に紫がチラつく。それはペルデが恐れている色よりももっと薄く、もっと強い光。
……この場にあの男がいたなら、この葛藤に歓びを見出していたのだろう。
これがペルデの命運を賭けた、今後一生を決める選択であるからこそ。
「信じられないか?」
「いいえ、一国の王であるなら聡明な判断かと」
「物足りないと顔に出ているぞ」
されど、選び取る前に選択肢がさらわれる。互いの位置は変わらないのに、踏み込まれたと認識したのは間違いではない。
視線だって変わるはずがないのに、まるで真上から覗き込まれているかのよう。
否定は遅れ、出せず。眉が寄れば、もう訂正はできない。
僅かな変化に緩んだ唇は、楽しんでいるからこその変化。
「遠慮する必要はない。女王との盟約があるかぎり、何を聞こうと、何をしようと不問にしよう。そもそも、ここにはお前と俺の二人だけだ。お前の行動を監視する者もいなければ、その行動を咎める者もいない。今この時、お前は間違いなく自由だ」
「部屋から出ることもできないのに?」
「半年以上監視されているのを考えれば、大したこともなかろう」
今度こそ、隠しようもなく眉が寄る。
ただの推測でも、反応してしまえば答えも同じ。そうだと自覚していなければ、言葉に詰まることもないのだ。
この半年間、ずっと頭の隅に居座っていた感覚。自分の状況と、特例という立場から有耶無耶にしていたもの。
仕方のないことだと理解し、その日が来るまで耐えるしかないのだと。そう言い聞かせながらも抑えられなかった不満を、この男は見抜いている。
半年と、明確に示された期間は推測だけでは片付けられない。
この男はどこまで知っている? どこからが集めた情報で、どこからが組み立てた仮説だ?
「それとも、怖じ気付いたか」
歪む唇から答えは得られない。ただ、踏み込むように促すだけだ。
怒りを誘われ、挑発されていると理解している。乗ったところで、ペルデが求めた情報は一つも得られないかもしれない。
自分の身の保証もされない状況で、わざわざ相手の術に嵌まりにいくなんて、利口な判断ではないだろう。
分かっている。この先の行動がいかに愚かで、従事者がとってはならない行為か。
だが、そうではない道を選ぶならば。その手がかりを得られるのは……紛れもなく、今。
逃してはならない。たとえ罠だろうと、何も変わらなかったとしても、ペルデは自分の意思で選ばなければならないのだから。
己の在り方を。この先の、自分の人生を。
薄く口が開き、閉じる。葛藤にも取れる行動は、瞬いた榛色を見れば違うと理解しただろう。
覚悟を決めた者に宿る光を、燃える深緋は確かに捉え、笑う。
「……あなたは、犠牲にしたとは考えていません。むしろ、こうなることを望んでいたのではないのですか」





