313.微睡み
「――ペルデ」
名を呼ばれ、目を開く。自分がそれまで何をしていたかなんて、その声の怖さに比べればどうでもいいことだった。
呼ばれるままに顔を上げて、見下ろす赤に息を呑む。
精霊から特別な加護を賜った者の証。その加護の名の通り、燃える炎のようにギラギラと輝く光から伝わるのは、抑えきれない怒り。
恐怖に駆られるまま俯いて、そこでやっと、自分がどこにいるのかを自覚する。
あのバケモノについて、アリアやミヒェルダと話をする場所。
何があっても近づくなと言われていたのに。そもそも、近付きたくすらなかったはずなのに、どうしてここにいるのか。
小さな手で必死に裾を握り、誤魔化し。それでも、震える息から恐怖は伝わる。
「なぜここにいる、ペルデ」
低く、唸るような。淡々とした声が、容赦なく降り注ぐ。
ペルデだって分かっている。これは自分が知ってはいけないもの。教会に準ずる者、限られた者だけが知るべき情報。
そうでなくても、あのバケモノに関することだ。
自分から触れようなんて思っていなかった。知りたくもなかった。それなのに、どうして自分は、ここにいるのか。
必死に思い出そうとしても、ペルデの中を埋めるのは怒られている事実と、腹の奥から掻き混ぜられるような不快感。
耳鳴りと、息苦しさと、笑う少女の声。お願いと囁く声に、まただと理解して。それでも、それをなんと説明すればいいのか、幼いペルデには理解できず。
「と、うさ……」
「この部屋には近づくなと言ったのを忘れたのか」
忘れていない。忘れるはずがない。だって、父はいつもそうだ。あのバケモノに関係することになると、まるで違う人間のようになる。
どれだけ忙しい時でもあのバケモノに寄り添い、特別な本を読ませ、おかしいと知りながら守ることもなく、もっと酷いことをしているバケモノの妹や父親には何も言わず。ただ、ペルデにだけ怒るのだ。
なぜそうしたのかと。どうして、言うことが聞けないのかと。
事実だけを見れば、悪いのは言いつけを守れない自分だ。
だけど、違う。違うのだと、声にできない。だって、これは自分の意思じゃない。望んでこんな場所、来たかったはずがない。
望まれたから。そうするように、お願いされたから。逃げたかったのに、またこうなってしまったから。
嫌なのに、いつだって気付けば、こうなっている。あの女に、あの悪魔に言われたら、いつだってこうなってしまう。
忘れてなんかいない。全部覚えている。誰よりもしたくないのは、ペルデ自身なのだから。
「なぜ私の言うことが聞けないんだ」
違う。逆らいたいわけじゃない。ちゃんと覚えている。知りたくなんてない。知りたいはずがない!
「ち……違う、父さん、」
「何が違う」
違う、違う、違う。何もかも全部、本当に!
これは自分の意思じゃない。したくしてしたんじゃない。自分が望んだことではないのに!
言われたってやりたくなかった。やろうとも思わなかった。
だけど、いつだってこうなるから、どれだけ逃げようとしても、こうなってしまうから!
「ぼく、ぼくは……なにも、みる、つもりは、」
「ペルデ」
信じてほしいのに、違うのに、どうしても説明できない。
だって、どう説明すればいい?
あの女にお願いされたら、勝手に動いてしまうなんて。気付いたらこうなっているなんて。喋りたくないことも、関わりたくないことも、全部、こうなってしまうなんて。
今だって信じてもらえていないのに。言い訳としか思われていないのに、どうして!
自分がなぜこんなことをしたのか、知りたいのは誰でもない、自分なのに!
「――ペルデ!」
世界が揺れる。身体が跳ね、目を見開いて、見下ろす赤に息を取り戻せないまま。
謝罪の言葉を口走りそうになって、咳き込み。苦しさのあまり、背を丸めたところで現実を認識する。
ベッドの上。横たわる身体。視界に入る蒼と白。鋭い赤と、背中をさすられる感覚。
喉が焼けるような痛みと、四肢を満たす気怠さ。まるで鉛を入れられたように重い頭に、響き続ける甲高い耳鳴り。
明滅する視界に手放しかけた意識が、呼びかける声で引き戻される。
父さんの、怒っている声。
まだ出ていかないから、説明できないから、謝って、いないから。
謝らないと許してもらえないから。違うけど、悪いのは、僕になっているから、だから、
「ごほっ……ぇ、な……っ……!」
「ペルデ。ペルデ大丈夫、落ち着いて。ここは安全だから」
喉が焼ける。痛い。潰れる。怖い。違う、違う、違う。
繰り返される思考が、柔らかい声で遮られる。握り締めた手をとかれ、包まれ、頭を撫でる温かい指。
視界が定まる。書斎から見慣れない部屋に。赤から、蒼に。自分を見て微笑む顔に、ようやく息を、取り戻す。
「み、ひぇ……ミヒェル、げほっ……」
「水よ、飲める?」
身体を支えられ、口に流された水をゆっくりと流し込む。
耐えがたい苦みに混ざる、微かな甘さ。何度口にしようと慣れない味でも、薬と思えば辛うじて耐えられる。
腹の奥、わだかまっていた熱と不快感が冷たさに押し流され、手指の痺れが抜けていく。自らグラスを掴んで飲み干せば、ようやく夢を見ていたのだと自覚する。
だからこそ、支えていたグラナートに視線を向けられても、動揺するだけで済んだのだから。
「具合は? どこか不調は……」
頭はまだ重く、滲む汗も気持ち悪い。鼓動はまだ激しく、到底落ち着く気配はない。
それでも首を振ったのは安心させたいからではなく、面倒だったからだ。
現実を認識すれば、恐怖も怯えも失せ。残るのは、聖水の力でも引ききらない不快感と、揺れる感情。
改めて現状を確かめる。自室ではないどこか。ミヒェルダとグラナート、それから護衛にあたっている数人のトゥメラ隊。
自分に何が起きたのか。どうして倒れてしまったのか。思い出すごとに吐き気が込み上げて、咄嗟に口を押さえても何も溢れず。
女王に呼ばれ、あの男が来て……それから、何が?
忘れるはずがないのに、覚えているのは無理矢理与えられる多幸感と、死を覚悟するほどの苦痛。
確かに何かがあったのに、思い出せない。違う。思い出すことを本能が拒否している。
頭の中で紫がよぎる。ああ、そうだ。それは……それこそ、ペルデが触れてはならなかった、何かなのだと。
「っ……あれから、どうなったんですか」
「ペルデ、まだ無理だ。横になって……」
寝かしつけようとする腕を押しのけたのは、せめてもの抵抗だ。
ペルデだって、夢だったと分かっている。
遠い昔、幼い頃の記憶。今のグラナートには何も関係はない。
だが、確かにそれは起きたこと。誰が忘れようと、ペルデだけは確かに覚えている。
思い出したからと言って拒絶する意味はない。
分かっていても感情を抑えられないペルデを嘲笑うように、触れる手は肩に当てられたまま、不快感は治まることなく広がり、膨れて、込み上げる。
「現状は……門は、どうなって……っ……」
「ペルデ、今はまだ万全じゃないんだ。休みなさ――」
それでも寝かしつけようとする腕が止まったのは、外が騒がしくなったからだ。
扉の向こう。制止する声。穏やかではない気配にミヒェルダが身構え、同時に扉が開け放たれる。
足音荒く踏み入った影。先陣を切る赤い瞳に、息を呑んだのは誰だったのか。
「ジアード王、なぜここに。事態が把握できるまで、部屋でお待ちいただくようお伝えしたはず」
「ああ、確かに聞いた。だが、我々が貴殿らの命令に従う義務はない」
「ここにいるのは怪我人のみ。即刻退室されよ」
「理解の上で来たと言わねば分からぬか?」
一歩、足が進む。ペルデとの距離が縮まり、ミヒェルダを含む全員が切っ先を向ける。
寝台の周囲が障壁に囲まれようと、見下ろす瞳を遮ることはできない。
悲鳴をあげるのは、後からついてきた弟とやらだけ。従者も柄に手をかけ、されど本人は無防備のまま。
切っ先が首元に突きつけられるまで止まることなく、深緋は順にペルデたちを見る。
ミヒェルダから、ペルデの姿を隠そうとするグラナートへ。そうして、何かを納得したように目を細め……漏れる息は、嘲笑の意が含まれたもの。
「無駄なことだ。精霊から与えられた害が、その程度で回復するとでも?」
「黙りなさい。我々は既に最善を尽くしている。害を与えているのは貴様だ」
「……なるほど。まだ成人していない子どもまで巻き込み、あまつさえ適切な処置を施さぬとは。まさしく、精霊の代弁者に相応しい所業だ」
ペルデに与えられた処置は、聖水を飲ませるだけ。逆を言えば、それしかペルデには施せないのだ。
まだサリアナのせいで発症した魔術疾患は癒えきらず、二度目の洗礼も受けていない。身体こそ成人と変わらずとも、不用意な魔術がどんな影響を及ぼすか。
ましてや、こんな異常事態。原因がわからぬ以上、できることは限られている。
あの返答だけでそこまで察した男が喜々として目を細めれば、周囲が一気に殺気立つ。
聖国に対する侮辱。より近づく切っ先に、深緋は動じない。
「とはいえ、この中で最も失っても惜しくない存在だ。捨て駒として扱うにこれ以上の適材はいない」
「黙りなさい」
「黙らねば切るか?」
乗り出す身体。刃は首に触れ、されど血は流れず。僅かに引いた腕に、男の口端が上がる。
「どうした? 従わぬのなら切り捨てればいい。そうすれば貴様らの望み通り、その所業は瞬く間に広がるだろう。聖国はノースディアのみでなく、アンティルダまで略奪したと」
できないと理解している。どのような名義を得たとしても、この状況で手を出せば責められるのは聖国だ。
ただでさえノースディアが聖国の預かりとなり、それゆえに不信が高まった。どれだけ正当な理由があったとしても、各国の不満を抑えきることはできない。
そもそも、『精霊の花嫁』を放置していたのも、ノースディアを手中に収めるための策略だったとさえ言われている。口にすれば、どんな虚構だろうと民は信じ、傾くだろう。
それを払拭するための儀式の後、唯一聖国と対抗する相手に害が及んだなら……それこそ奴らの思うつぼ。
各国に放つ言葉は、麦に放った炎のように広がるだろう。聖国は二度も我らが国を奪おうとしたと。
「名高いトゥメラ隊ともあろうものが怖じ気付いたか? その突きつけた刃は男を遠ざけるための玩具だったか?」
あと僅かでも動けば、たやすく皮膚が裂ける。それがただの武器ではないと理解し、その言葉がいかに彼女たちの怒りを買うか熟知した上で、その内に流れる血よりも濃い赤がミヒェルダを見据える。
沈黙は数秒。男は動かず、刃は引かず。歪む唇は鼻で笑う息とともに無に戻る。
「女王の命令がなければ何もできぬとは、まさしく駄犬よな」
「そこまでです」





