312.急襲
「お初にお目にかかる、ロディリア女王陛下。まずは、此度の儀の祝いと、招待にないにも関わらず愚弟の参列を許していただけたことに感謝を」
「女王陛下に代わり、私が声を務めます。……貴国の参列が得られたこと、オルレーヌとしても、私個人としても、喜ばしく思います」
愚弟、と呼ばれた背中が跳ね、苛立ちは分かりやすく向けられる。外見だけではなく、その中身も大きく異なっているようだ。
仲が良好には見えない。あからさま過ぎる反応は、演技と言われた方がまだ自然に思えるほど。
もし素であれば、腹芸は相当不向きであろう。……もし王に据えたなら、道化として扱われるのが見えている。
その点、まだ隠そうとしていたダヴィード王の方がマシだったのかと、今は亡き国がよぎる間も言葉は行き交う。
「召還について、どうやら行き違いがあった様子。謝罪が遅れたこと、改めてお詫び申し上げます」
「気にすることはない。精霊の伝達を担う聖国が、よもや重大な儀式で失態を起こすはずがないと疑わなかったこちらの不足もある」
各々顔に出さずとも、殺気立つものはある。勝手に乗り込んできたのはどちらだと喚くのは、それこそ馬鹿のすること。
実際、予定していた時刻に来たのは追従するはずだった者と、そこで落ち着きなくしている愚弟とやらだ。なぜ彼が単独で来たか、ペルデは明かす立場ではない。
「急なこととはいえ、用意させた部屋はさぞ快適に過ごせたことでしょう」
「ああ、あまりの快適さに眠るのが惜しいほど」
「それはなにより。……ところで、そちらの者は怪我を?」
予想できた流れを想定していなかったのは、顔を向けられた当人だけ。あからさまに肩が跳ね、慌てて腕を隠そうとするも手遅れ。
ギョロギョロと彷徨う目は、まるで魚を思わせる。いや、苦しみ藻掻くという意味では、陸に揚げられた魚には違いない。
「こ、これはっ……」
「なに、少々犬に噛まれた程度。大事と呼ぶ程ではない」
苦し紛れの声によって、確信はより真実に近づく。
傷は言葉通り、ゼニスに噛まれたのだろう。あえて逃がしたのは、相手の正体に気付いていたからか。
……そして、捕まえてなお見逃したということは、やはり奴らの狙いはディアンではなく。だからこそ、エルドたちがこれ以上干渉することはない。
「腕で済んでよかったですね。次は喉を噛み千切られないようお気を付けください」
「っひ……!」
ここまでくると、もはや茶番だ。いっそ下手な演技だと言われた方が見ていられる。
あるいは、これこそが普通の人間の反応なのか。精霊に感化されず、麻痺することなく、正しく恐ろしいと思う者の……そう、幼い頃のペルデのように。
恐ろしいと自覚しながら、そうだと言えなかったあの時のように。確かに感じた違和感を、そうだと訴えることすら許されなかった日のように。
それでもペルデは人間だ。ディアンとは違う。あのバケモノとは、違う。
「忠告、痛み入る。それにしても、さすがは精霊の加護のある地。害獣一匹見当たらないとは、よほど駆除に余念がないと見える」
「少なくとも、この王宮では鼠一匹逃すつもりはありません」
「鼠とは言い得て妙な。……だが」
細まる深緋。睨む金。見えずとも瞳は交差し、ぶつかり合う。
「見つけた端から排除したとて、巣までは叩けまい。不意を突かれ、うっかり骨まで喰われぬよう」
「おや、不毛の地にも鼠がいるとは存じ上げませんでした」
僅かに、色が強まる。煮詰まる赤。肌を掠める魔力。されど、押し返すよりも早く引っ込められた感情は、作られた笑みの奥に隠されたまま。
「興味があるなら、直接見に来るといい。大した歓迎はできぬがな」
「ええ、機会があれば。……ですが、かつて交わした誓約は未だ有効。こうしてまみえることもないでしょう」
精霊と人間の婚姻。教会の陰謀ではなく、真実であると民に示し、語り継がせるための儀式。
どの国も、どんな者も、その瞬間を見る権利を与えられる。それは、盟約を結んだアンティルダも例外ではなかった。
少なくとも、次の選定まで公的に聖国とアンティルダが関わる機会はない。
ペルデが死んだ後の話だ。それこそ考える価値はないと、開かれていく門に視線を移す。
挨拶は終わり、あとはソレが光に包まれるだけ。
そう、もうペルデには関係のないことだ。視界に入らないよう逸らす黒髪も、脳裏にこびり付く赤も、腕の熱さも。
もう二度と関わることはない。たとえペルデが何を選択しようとも、もうあの深緋が自分を見ることはない。
だからこそ、自分の行動にこの男は関係ないと言い聞かせて――不意に、世界が崩れ落ちた。
否、崩れたのはペルデの身体だ。
後から殴りつけられたような衝動は一瞬で吐き気に変わり、うずくまる。ぐる、と唸る胃からせり上がる熱が口内を焼き、広がっていくのを止められない。
揺らぐ視界。甲高い耳鳴り。乱れる呼吸。明らかな異常をペルデは知っている。誰よりも、なによりも。
戸惑う声の中、嗤う声が聞こえる。あの女の嗤いが。サリアナの囁く声が、遠くから、耳元から、響いて、反響して、揺さぶられる。
困惑する声が広がる。だが、ペルデに向けてではない。揺らぐ世界の中で捉えたのは、禍々しい色に染まる門の姿。
深い、深い黒。まるで全ての色を飲み込むような、底のない一色。視認した途端に脳を揺さぶられ、視界ごと頭が回る。
いったい、何が……何がおきて、
「――ペルデッ!」
叫び声に意識が戻る。定まる目で見たのは、門から伸びる黒い何か。
だが、息を呑んだのは飛ばされるミヒェルダの姿を捉えてしまったから。
理解する間もなく掴まれる。そう、実体のないはずのそれに掴まれたと認識して、思考が有耶無耶になる。
異常だと認識しているのに、おかしいとわかっているはずなのに、抗うことができない微睡み。
まるで穏やかな朝を迎えたような。柔らかく、温かな、このまま眠れば気持ちいいと理解している幸福感。強制的に与えられる安堵の奥、隠されているのは恐ろしい何か。
それは、蜜を餌におびき寄せる植物のように。罠とわかっているのに、本能に訴えかける誘惑。
身体が動かない。抗わなければならないのに、従ってはいけないのに、意識が遠のいていく。この意識を手放してはいけないのに、引き摺り込まれる。
深い場所に。踏み入れてはいけない所まで。知ってはいけない、なにかに、おちて、
「これが精鋭隊の実力とは」
強く、掴まれる。今度は朧気な認識ではなく、確かな感触として。左腕が熱に触れ、満たしていた幸福までもが焼き払われていく。
熱が喉を焼き、咳き込んだ息で感じたのは、苦味に混ざる微かな花の香り。
揺れる視界が捉えたのは、変わらぬ黒。されど、与えられるのは安堵でも幸福でもなく、ペルデに最も近い感情。
叫び声と、何かが壊れる音。弾ける光が引いて、点滅する視界に映り込む赤。
ギラギラと燃える、煮詰まった感情。その色を、その目を何とたとえるか、ペルデは、知っている。
「ペルデ」
ただでさえ乱れた息が、名を呼ばれて止まる。見ている。見られている。それが自分を見て、見つめて、
「自我をしっかり保て」
反響し、揺らぎ、言葉が分からない。それでも、その低い声を。その響きを、その目の理由を、ペルデは知っている。
だって、その赤は、その色を持つのは、一人だけなのだから。
「っ、ぁ」
身体が震える。声が出ない。言わなければならないのに。説明しなければ、いけないのに。
苦しい、痛い、違う、違う、僕は、僕はなにも、ちがう、ちがうのに、ああ、
――と、うさ、ん、
「ごめ、な、さ、」
されど、謝罪は届くことなく。許しを請う子どもへ与えられる言葉も、ペルデに与えられることはなかった。





