310.選定の儀
「静粛に」
ざわめきが波のように静まる。声どころか、呼吸すら止まる音まで響いてくるように。
障壁はほころびなく、通路と広間を遮るようにして展開されている。それは視覚だけではなく、聴覚を通しても伝わる魔力から精神を守るためのもの。
普通の人間に影響はなくとも、本能で分かるのだろう。それは、人が聞いてはならぬ響きであると。
正装に身を包み、王笏を手にした姿。顔が布で隠されようと、その高貴さが滲むことはない。
月の光を凝縮したような銀の髪。僅かに覗く素肌は白く透き通り、精巧な人形を思い起こさせる。
成人したばかりの少女のような可憐さ。されど、女王と呼ぶに相応しい姿に、誰もが目を奪われる。
精霊と人間の愛し子。儀式でなければ、その姿を見ることが許されないのは、選定者も女王も同じ。
これまで噂していた者全てが、この光景を焼き付けている。あれこそがオルレーヌ聖国女王、その本人であると。
「遠路はるばる来訪された、良き隣人たち。そして、我が聖国の親愛なる者たち。まずは、この時を共に過ごせることに感謝を」
各国の者から、聖国の重鎮たちへ流れた視線は、再び前に注がれる。
「皆も知っている通り、この儀式は本来、十二年前に執り行われるはずでした。選定が成ってから与えられる啓示が、精霊王オルフェンと人間の誓約により知らされた時のことは、まだ記憶に残っているでしょう」
十数年前。人の手だけでは食い止められなかった魔物からの脅威。国を守るために立ち上がった者たち。自らを、そして己の子を犠牲にして得た平和。
一人は差し出すことすら恐れ、一人はそもそも与える事すらできず。そうして、残る一人は、その強靱たる覚悟をもって誓約した。
「迎え入れると公言しながら、伴侶となる者を明言しなかった精霊。子孫という文言だけで先入観を抱き、誤った者を伴侶と違えた人間。そして、それらを認識しながらも真実を正すことが遅れた聖国。この儀式が本来の在り方から外れたのは、その全てによって引き起こされたことです」
人間と、精霊と、そして聖国。各々の思惑と事情。全てが噛み合わなかった結果が、一つの国を滅ぼすこととなった。
忘れ去るにはまだ早い。誰の記憶の中にも残り続ける出来事。それは、今ここにいるペルデも例外ではない。
「精霊は相応しき者を見定め、加護を与えます。そこに人間の願いが通じないことも多々あるでしょう。ですが、この儀式は精霊だけでも、ましてや人間だけでも成り立たないもの。精霊は唯一を定め、人間は悠久の時を過ごす。互いに覚悟を決めなければ、この儀式は成立しません」
外から僅かに届いていた歓声が静まる。その時が近いのだと、ペルデ以外に気付いたのは誰だったのか。
「そして、紛れもなく。此度の選定者、ディアンは選び取りました。精霊と交わした盟約ではなく、自らの意思で精霊と共に在ることを」
精霊王とディアンの父が交わした盟約ではない。切っ掛けはそうであっても、その結末はディアン自身が掴んだものだと、女王は高々と告げる。
今から自分たちが見るのは、その覚悟の一端であると。
「シュラハトとアピスが娘ロディリアと、ここにいる全ての者が、彼らの覚悟の見届け人となります。かの者の決断に異を唱えることは、すなわち精霊への異と同義。何人たりとも妨げることは許されません」
掲げられた王笏が示した扉が開いていく。隙間から流れ込んだ光は、進み出る者たちの背後から前に。共に響く鈴の音が聞こえているのは、それこそきっと、限られた者だけ。
白が翻り、金の刺繍が躍る。それはまるで、進むごとに星が舞うように強く。合間に覗く薄紫は、かの者を包み込むように柔らかく。輝き、瞬き、刻みつけていく。
ヴェールで隠された顔は前を見据え、臆することなく中へと進んでいく。妖精たちの羽音がなければ、痛い程の静寂がペルデを襲っていただろう。
今、この瞬間を見届けている中には、音の概念すら忘れてしまった者だっていたはずだ。
ペルデは上から。ディアンは前を。視線は交差せずとも、重なる光景は似ている。
ディアンにとっては思い出したくもない、初めの洗礼。まだ英雄の息子と期待され、それこそ見世物のように扱われた時のことを。
本来、洗礼の一部始終があんな形で公開されることはない。
同じく英雄の息子であったペルデでさえ粛々と済まされたのだ。それだけ、民がヴァン・エヴァンズを英雄視し、ディアンに期待を寄せていたということ。
教会が止めなかったのは、当時の司祭がメリアに魅了されていたのが一番の要因だろう。だが、そうでなくても厳しかったはずだ。
まだ幼かった自分でさえもわかるほどに、あの期待はあまりにも異常で、度が過ぎていた。
ディアンが姿を現すなり口々に思いを呟き、そうして……加護が与えられなかったと知った途端、それは驚愕から失望へ変わった。
ディアンの感じている重圧は、当時と比べものにならないだろう。
布の中、隠れた顔は強張っている。それでも、あの瞳は。あの恐ろしい紫が前を見据えていることをペルデは知っている。
そう。あの時とはもう、何もかも違う。立場も、覚悟も。そして、彼の手を引く存在が今、そこにあることも。
視界に入りこむ男は、目の肥えた者たちにとっては、さぞみすぼらしく見えていることだろう。
纏う服に教会の証である蒼はなく。それどころか、ありふれた麻のシャツともなれば、この場で最も浮いているとも言える。
実際、彼らの後ろに続くイズタムたちは正装に身を包み、この場に馴染んでいる。
選定者の姿を目に焼きつけたい者たちにとって、その手を取り、先導する男はさぞ煩わしく映っているだろう。
奥に辿り着くための階段に差し掛かっても離されることなく、疑問と不満が幾重にも重なり、空気がざわめく。
だが、それは男が階段を上るまでの刹那であった。
最初は、響いていた足音が聞こえなくなった違和感。次は、束ねられていた髪が独りでにほどける光景。
あれだけ目が離せなかったヴェールから、無理矢理視線が奪われる。麻で作られたシャツは進むごとに白い布を纏う姿へ変わり、小さな光たちが舞えば、鈴に似た音が響く。
自分たちを守る障壁がなければ、耳鳴りで立つこともままならなかっただろう。
むしろ、この光景を直視できていたか。守られているはずのこの瞬間さえ、突きつけられているのに。
忘れかけていた恐怖が。理解してはならないと告げる本能が、ペルデの背中を引っ掻いている。
何度もペルデを追い立て、弄び、殺そうとしてきた鋭い爪先が、今もペルデを追い詰めようとしている。
ペルデよりもより近く、それを見ている者たちの声にならぬ感歎の音が、妖精たちの歓喜の声に混ざって溶けていく。
もはや、誰もが理解する。名乗らずとも、明かさずとも、理解してしまう。
あの存在こそが、精霊なのだと。
そこに恐怖はない。あったとしても、ペルデとは違う。
この期に及んでもペルデが恐れているのは――それに手を引かれ、微笑んでいるあの男なのだから。
光に包まれた二人が辿り着く終点。オルフェン王の像前にて、本来の姿を晒したヴァールが振り返る。薄紫が注がれる唯一は、手が離されると同時に膝を折り、手を胸の前に。
誰もが記憶にある、洗礼の作法。されど、誓うのは司祭ではない。己に加護を与える精霊本人。これこそが、本来の洗礼の在り方なのだと。
「誓いを」
たった一言。それだけで、背が震える。本能が理解しているのだ。聞いてはならない声。理解してはならない言葉。
人体への影響はない。障壁により精神も保護されている。それでも、影響を受けないはずがないのだ。
それは人ならざる者。そして、直接対峙し、誓いを立てる者もまた、その道から外れる者。
「この先の生を、あなたと共に在ることを。この選択の果て、あなたと交わした言葉を違えぬことを。誓います」
光が、音が。まるで福音のように、妖精たちの羽音と囁きが満ちていく。
あと半年先に迎えるはずだった光景。とっくに見えていたはずの景色。全てが狂い、狂わされ……そうして、あるべき形へ戻ろうとしている。
まるで走馬灯のように駆け巡るのは、ここに至るまでの全て。
ノースディア。サリアナ。メリア。ラインハルト。いつ終わるかもわからなかった最悪の日々。与えられた仮初めの終息。
……そして、今も終わっていないことへの虚無感。
全てが悪かったわけではない。だが、咎がなかったわけではないと、そう言われて納得する者がどれだけいただろう。
されど、それらの不満は今、圧倒的な力の前で捻じ伏せられた。
人間がどれだけ束になろうと勝てない存在が人に寄り添うのは、精霊の温情であると。そう認識させることが、この儀式の狙い。
聖国の目的は為した。精霊の力と、選定者が実在する事実。どれだけ愚かな者でも、人としての正気が残っているのなら、これ以上騒ぐことはないだろう。
だが、それらはペルデの考えることではない。
その胸を埋めるのは、ありもしない可能性について。
そう、全てが悪かったのではない。……それでも、どこかで正すことはできただろう。
たとえば、聖国がメリアではないと否定すれば。既に加護を与えられた彼女だけはあり得ないと知らせていたなら。
そうしてディアンを無理矢理にでも保護していたなら、こんなにも拗れることはなかったはずだ。
結末としてはよかったのだろう。サリアナは罰を受け、精霊を軽視したノースディアは滅び、グラナートの罪も拭われた。
ディアンは正しく加護を与えられ、もう二度と、あんな選定が行われることもなくなる。
この先何百年と続く安寧を得たと考えれば、ノースディア以外の犠牲は微々たるものだ。
故郷を失った者には新たな地を。これまでの人生を狂わされた者には償いを。そうして、百年と経たないうちに、些細な出来事は過去になり、忘れられていく。
個の感情と、世界の均衡。天秤にかけるまでもない摂理。むしろ、ペルデ個人に謝ったのが異例なぐらいだ。
そうでなければ、ペルデはとっくに部外者として放り出されていた。望まなければそうなっていた。
そう、仕方なかったのだ。彼らが言うように、全て。ペルデのような、何の力も持たない人間では抗いようがなかった。
ただ運がよかっただけだ。この大聖堂に入れぬ大衆や、ペルデの足元でこの奇跡を焼きつけている集団と変わらない。
手すりを握り締めても、軋むのは己の内だけ。
あと、半年。ペルデが迷っていられるのは、あとそれだけしかない。
それまでに何が変わるだろう。何を諦め、何を残し……実際に、選べるのか。
不毛な思考を振り払うよう、祝福される二人から目を外す。それは、誰も自分を見ていないという確信からの行動だった。
実際、隣に立つ男の瞳は一心に壇上へ注がれている。
そこに含まれる感情を理解するよりも先に込みあげた息だって、きっと聞こえていないのだ。
鼻から短く吐いて、されど仕方ないことと受け入れる。
皆があれに魅入られ、その光景を焼きつけているのだ。グラナートも、ミヒェルダも、ここに来た全員が例外なく。
――ゆえに、その瞳が交わるはずがなかったのに。色が、絡む。
見上げる双眸。血のように煮詰められた赤。他の全てが精霊から目を逸らせずにいる中、その深緋だけがペルデを見ている。
誤魔化しようもないほど真っ直ぐ。ギラギラとした光に呼び起こされるのは、組み伏せられる一連。
掴まれた腕の熱を呼び起こされ、無意識に触れた皮膚は冷たいまま。内側から燻る温度に、寄せた眉は睨み付けているように見えただろう。
一瞬か、数秒か。あるいは、もっと長くか。
福音も囁きも届かぬ静寂。僅かな耳鳴りにのみ支配された世界で、拾えるはずもない音がペルデの耳を叩く。
歪む唇。細められた目。鼻で笑う不快な音は、紛れもなくペルデに向けられたもので。
「ペルデ?」
湧き上がった衝動は、名を付けるよりも先にミヒェルダに拭い取られ、歪な残滓が胸底にこびり付く。
のぼった熱は冷め、息を吹き返したように戻る音。騒音とすら感じるそれらは、人々の口から紡がれるものばかり。
既にディアンたちの姿はなく。儀式が終わったことを知る。
放心する者、立ち上がる者、王宮に戻ろうとする教会従事者。黒い影も同じく席を立ち、深緋は絡まず。
「大丈夫? 発作は出ていない?」
「……いや、大丈夫。何でもない」
息苦しさはない。頭痛もない。あれだけやかましかった耳鳴りだってない。
だから、これは。この腕の熱も、言いあらわせられない不快感も違うのだと否定しても、行き場を失った熱を冷ますことは叶わなかった。





